『日本』平成29年2月号

我が国のTPP協定批准とアメリカの離脱宣言

今岡 日出紀

 島根県立大学名誉教授

「アメリカ第一」の政策

 ドナルド・トランプ氏が昨年十一月アメリカ大統領として選出され、本年一月二十二日に正式に就任した。昨年の大統領選挙中及びその後の正式就任に向けての待機中における演説、ツイッターの片言隻語から類推するに、当該大統領の政策は、「アメリカ第一」の標語の下に、ひたすら国益だけを追求することに集中することであるようだ。

 「アメリカ第一」の姿勢は、国内における雇用の維持、拡大の目標設定の下に、対外経済政策の中にも組み込まれている。大統領の演説、ツイッターに示唆されている対外経済政策の第一は、環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱宣言をし、また、北米自由貿易協定(NAFTA)についても協定内容の修正のために再交渉をするか、あるいは協定からの離脱を宣言するというものである。TPPからの離脱宣言とNAFTAとの再交渉は、一月二十三日に宣言された。第二には、関税率は個別の国毎に相対で決定し、対米貿易黒字の大きい国に対しては特に高くするというものである。例えば、対米貿易黒字が特に大きい中国に対しては四五%の関税を課すと述べているし、NAFTAの一員であるメキシコには三五%の高い関税を課すとしているのがその例である。これについては、一月二十三日現在、実施の具体的形態については触れられていない。第三には、中国を為替レート操作国と認定して、しかるべき措置を取るとしている。この施策も具体的には、今のところ何の措置も取られていない。第四に、三百万人に及ぶとされる不法滞在移民を強制的に退去処分として、また、メキシコからの不法移民のさらなる流入を防ぐために、メキシコとの国境に壁を設置する。第五に、アメリカ内外における多国籍企業の投資政策に恫喝的手法で影響を与えようとしている。これが政策と言えるのかどうかは定かではないが、直接投資の流れの方向に影響を与えるための政策の一環として含めておく。

 これ等五つの施策は、輸入の増大、直接投資の国外への流出を通じてアメリカ国内の雇用が国外に流出するのを防ぎつつ、不法な移民労働の流入を阻止し、国内のアメリカ人の雇用が不法移民に奪われるのを阻止することを意図している。

 対外経済政策の第二?五の施策はともかく、TPPからの離脱は我が国にとって決定的に重要な意味を持つものと考えられる。と言うのは、アメリカが既に加盟各国で協議、合意済みのTPPから離脱することによって、昨年、我が国の国会が批准したTPPは発効できないからである。しかし、「日本及び日本の企業の競争力の源泉である国際生産ネットワークをさらに活性化させる政策環境の実現のためにはTPPが必要である」(『日本のTPP戦略』馬田啓一・浦田秀次郎・木村福成編著)と言えるであろう。

TPPの概略

 TPPは、日本、アメリカ、カナダ、豪州等のアジア・太平洋十二カ国が、アメリカの主導の下で締結交渉を行い、昨年二月に合意、調印した経済連携協定である。域内貿易において工業製品や農林水産物の関税撤廃、関税率の引き下げだけでなく、サービス貿易や投資の自由化、知的財産権の保護、環境基準の設定、その他の国際市場環境の整備に係る事項の規定等を取り決めた包括的協定である。昨年十二月、我が国がこの協定を批准したことは耳新しい。その他、幾つかの加盟国が既に批准している。又、批准の準備を進めつつある。アメリカでは、オバマ政権下で批准に向けて議会の説得を試みたが、批准されなかった。

 その後、TPPからの離脱とNAFTAの再交渉をトランプ大統領は宣言した。加盟国の合計GDPは世界のGDP合計の約四〇%を占めるが、アメリカのGDPはその内の六〇%もの比率を占めている。従って、アメリカが離脱することにより、当初の加盟国のGDP合計の八〇%というこの協定の発効基準未満しか残りの加盟国のGDP合計が満たすに過ぎないことになったので、全体のTPP協定は今のところ効力を持たないことになった。

新しい国際分業体制の登場

 TPPはトランプ大統領が非難するほどにアメリカにとって不都合な協定であろうか。この問いに答えるためには、新しい分業体制の登場について説明しておくことが必要である。

 十九世紀末から二十世紀初頭以降、まず生産国と消費国を分離するタイプ(第一次分離)の国際分業が進展した。例えば、繊維生産国と繊維消費国のような分業である。一九八〇年代以降は、第二次分離が並行して進む国際分業の時代に入った(前掲『日本のTPP戦略』)。この時代には、製造工業製品を中心とした生産国の多国籍企業が生産工程または企業職務を分割分離して、それを国際場裏で連携分業化するタイプの国際分業が進展するようになってきた。個別企業の工程間分業あるいは職務間分業が、国境を越えて展開されているのが「第二次分離」の時代の国際分業である。

 上記のような国際分業を支える政策環境の実現には、関税撤廃を超えた、広範囲の政策対応が必要になる。我が国でTPPが批准された際、TPP関連法案として、著作権法、特許法、商標法、独占禁止法、畜産物価格安定法、地理的表示法(GI法)などの法律が立法または修正される必要があった事からも、このことが理解できる。

 TPPは、上記の「第二次分離」の時代の国際分業をNAFTA以上の多数の国々の間に、また、より広い製造工業分野に、展開しようとするものである。それによって、新しい国際分業の利益を、加盟各国が国内に取り込むシステムの構築を目指している。

TPPの核としての東アジアと北米

 ASEANに韓国、台湾、日本を加えた東アジアは、「第二次分離」に基づく国際分業が世界でも最も進んでいる地域であると言われている。機械産業、特に自動車産業の工程間分業は、東アジアの多くの国々、地域にまたがって展開されている。日本のトヨタとか日産といった多国籍企業、アメリカの多国籍自動車生産企業等がこの国際分業の中心的担い手になっている。東アジアの域外にあるアメリカは機械産業製品(自動車)の一大消費市場であると共に生産国であるが、日本、台湾を通じて密接に東アジアの国際分業体制と連携している。機械産業(特に自動車)製品の生産国であり消費国でもある日本の多国籍企業は、韓国、ベトナム、フィリピン、台湾等と、企業内取引のみならず企業間取引をも組み合わせた複雑なネットワークを形成している。フィリピン、マレーシアでは既に、多数の他業種の企業が寄り集まって産業集積さえ形成されている。

 一方で、カナダ、アメリカ、メキシコはNAFTAの枠組みの中で、自動車産業を中心に、「第二次分離」の時代の国際分業を形成している。この分業体制の中では、チリ、ペルーも一定の役割を果たしている。また、アメリカは生産国と消費国の両方の役割を果たしている。

 TPPは、前記のNAFTA分業体制と東アジア分業体制を結合して、より広い地理的広がりの中で「第二次分離」の時代の国際分業を構築しようとする試みである。さらにNAFTA分業体制も東アジア分業体制も、当面は自動車産業を中心とする機械産業の分業体制であるが、TPPでは更に食品加工業、衣料産業、サービス業、医療器具業の分野にも拡大した分業体制を構築して、最終的には製造工業の全体の再活性化が期待されている。

トランプ大統領の反応

 トランプ大統領はアメリカ国内の雇用最大化を図るためにはTPPは妨げになるという理由からTPPからの離脱宣言をしたと考えられる。まず、TPP加盟国の中では、アメリカは自動車を中心とした製造工業品の一大消費国であることが想定される。このことから、TPPに加盟すれば、加盟諸国からの輸入が増大することを恐れたのであろう。輸入の増大は、短期的にはその分だけ国内生産を減少させるから、付随して雇用を減少させる。これは国内の雇用最大化の目標を阻害する。さらに、TPPに加盟すればアメリカからの直接投資の流出が起こる。国内で生産するよりも、加盟国内で工程間分業体制又は職務間分業で生産した方が低コストであるので、それをアメリカに輸出した方が有利である。日本等の外国加盟国も、TPP域内に投資を展開し、最終製品をアメリカに輸出しようとする。これの結果として、アメリカ国内での雇用創出は減少する。

 TPP離脱戦略の方向は明らかである。TPPから離脱して、国別の高い差別関税を設定して輸入を抑制する。一方で、国内の法人税率を大幅に引き下げて国内投資への誘因を与え、現在トランプ大統領が取っている恫喝的投資コントロールを併用することになろう。しかし、これは所詮短期的効果しか持ちえない。高関税で高められた高い国内価格は消費者の利益を損なうであろうし、低い法人税率を併用することによって、国内には効率の悪い企業が増大するだけであろう。

 TPPの下では短期的には確かにトランプ大統領の言うコストが発生するが、長期的には広範な新しい国際分業体制の中で発生する間接的反響効果により、生産も雇用も飛躍的に増大するであろう。「第二次分離」の下で展開する国際分業体制の利益は、域内の貿易の増大を通じて各国に配分される。域内各国の生産性は向上し、所得が増大する。これ等のTPP域内各国で発生した変化は、アメリカの輸出を増大して、国内生産を増大させるだろう。これが、TPPによる長期反響効果である。

 トランプ大統領、その政権、共和党、国民が、TPPのこの長期効果を理解して、TPP交渉の場に戻ってくるよう、日本政府が説得に努力するよう期待したい。