『日本』平成30年正月号

明治維新百五十年を迎えて

永江太郎/(一財)日本学協会常務理事

一 明治維新の意義

 今年は、明治維新百五十年という節目の年ですが、明治維新が人類の歴史における大きな転換点と成った事は、既に周知の事実であります。

 十五世紀に始まった大航海時代から四百年、全世界が欧米列強の白人社会に支配され、世界中の有色人種が屈服・隷従していました。特に維新後もアジアでは、ビルマ、インドシナ、フィリピン、インドネシアなどが次々と植民地となっていました。その時代に、日本はそれに抵抗して国家としての主権と独立を守っただけでなく、日露戦争では、世界中の人々が注視する中で、陸軍は旅順要塞の攻略、海軍は日本海海戦におけるバルチック艦隊の殲滅(せんめつ)という偉業を成し遂げました。これは画期的な事件で、アジア人の日本が、ヨーロッパ第一の軍事大国ロシアを相手に陸海軍ともに完全勝利するとは、誰にも予想できない出来事でした。

 明治維新とその成果としての日露戦争は、全世界から植民地を無くし、人種差別を犯罪視する国際社会を実現する端緒を開き、有色人種に民族自立の夢と希望を与えました。実際に白人による世界支配を終焉させるには、大東亜戦争を待たなければなりませんでした。このような世界史上に特筆すべき大事業の幕を開けたのが明治維新ですが、学ぶべきはその成功の要因であります。

二 明治維新の先例としての大化の改新

 「富国強兵」を国策とした明治維新以降百五十年の日本近現代史を大観すると、大東亜戦争までの戦前期八十年と、戦後から今日までの戦後期七十年に区分できます。そして、戦前期は「強兵」の目標を日露戦争で達成し、戦後期は「富国」を目指して経済大国の目標を達成しましたが、いずれも四十年を過ぎた頃から衰退期を迎えました。

 強兵の時代も富国の時代も、興隆の絶頂期を迎えた時に衰退が始まったのは何故か。その原因は念願の目標を達成したという安堵感から生まれた油断と奢りだったのではないでしょうか。

 統治権の移行である「大政奉還」も、武士たちの生活基盤である領地を失うという「廃藩置県」も、流血の惨事を全く起こさずに実現したことは、外国人、特に在日外交官達には全く予想できない驚くべき事でした。

 しかし我が国には、千二百年前に大化改新という先例がありました。大化改新の頃の氏族社会は、神武建国よりも更に数千年も逆上る有史以前から存在していた一族を中心とする大家族からなる運命共同体でした。その事は五千年前のものと言われる三内丸山遺跡などが証明しています。この何千年も続いた一族の私有地と家族(氏子)からなる氏族社会が、突如発令された「改新の詔」によって、私有地が公地となり氏子が公民となり、公民には男女を問わず田畑が配分支給(班田収授)された一方で、国税(租)と兵役(防人)の義務が課せられました。しかし、当時の人々は、大伴家持や防人の歌にあるように、これを当然の事として受け入れていました。

  海ゆかばみづくかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ

  大君の勅(みこと)かしこみ磯に触り 海原(うのはら)渡る父母を置きて

  今日よりは顧みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は

 これらの歌は一例に過ぎませんが、その背景には、大化改新の時代には、建国したばかりの大陸国家「唐」の脅威があり、挙国一致でなければ対応できないという危機感がありました。この時、我が国は天皇を核心とする君民一体の国柄であるという自覚と、自分の国は自分で守るという覚悟が生まれました。この危機感は、幕末や日清・日露戦争、更に大東亜戦争に共通する意識です。

 この君臣一体、滅私奉公、承詔必謹の国柄が、大化改新や明治維新の大業、更に整々たる終戦を成し遂げた基盤であり原動力であります。

 しかし、同時に行われた文明開化には大きな違いがありました。大化改新では、大陸文明を積極的に導入しても、我が国の特性である国柄は守られていました。例えば、統治組織として中央官制に太政官を採用した際に、我が国の政治の基本である「祭政一致」を守るために神祇官を併設したなどはその一例です。一方の明治期における西欧文明の導入は、盲目的かつ無批判で、特に精神文化は国柄の違いを全く無視した完全な模倣でした。

三 文明開化と日清・日露戦争

 文明開化による西欧文明導入の速さは目覚ましく、明治九年にドイツから来日したばかりの青年医師ベルツが、「十年足らず前までは欧州の中世騎士の時代にあった日本が、(ルネッサンスに始まる)ヨーロッパ五百年の文化発展を飛び越えて十九世紀の果実を手に入れようとしている」と評しているほどです。二年には、東京遷都や公議所(集議院)の開設、版籍奉還が行われ、東京・横浜間に電信が開通し、四年には廃藩置県と岩倉使節団の欧米派遣、五年には富岡製糸場の開業、新橋・横浜間の鉄道が開通しました。教育面は、五年の学制で学校教育は小学校から大学まで功利主義の洋学一辺倒となり、日本古来の文化・伝統や武士道は旧弊として排斥されましたが、この間伝統的な武士道精神を守っていたのが軍隊でした。

 その成果は、日清・日露戦争の大勝利となりましたが、最大の勝因となったのはその準備にありました。日清戦争の準備は、明治十五年の京城事件から始まり、陸軍は鎮台を全て外征が可能な野戦師団に改編し、海軍は清国の甲鉄艦定遠(ていえん)・鎮遠(ちんえん)に対抗するため松島などを建造しました。しかし、日清戦争に勝利した直後に、露・独・仏による三国干渉が行われました。この屈辱的な外圧で、ロシアとの戦争は必ず起こると判断した日本は、国力も軍事力も日本の十倍というロシアに対抗するため、陸軍は野戦師団を倍増し、海軍はロシアの艦隊に対抗できる三笠以下六隻の戦艦と装甲巡洋艦を新造しました。奉天会戦や日本海海戦の勝利は、文字通り臥薪嘗胆に耐えた準備の賜物であります。

四 明治の教訓と今日の課題

 日清・日露戦争の勝利によって、明治外交の長年の懸案であった治外法権や関税自主権の不平等条約が改正され、名実ともに西欧列強と対等な国家となりましたが、同時に日露戦争の勝利に歓喜した人々の間に、陸海軍に対する絶大な信頼とともに慢心を抱かせ、そこに油断と怠慢が生まれました。

 では今日の課題とは何か。明治の教訓は、我が国柄を国民が本当に理解しているのか、国民が日本人である自覚と自分の国は自分で守るという決意を持っているか否かにあると教えています。

 幕末の脅威は、アメリカ即ち東夷(とうい)であったが、今の脅威は中国、朝鮮という西戎(せいじゅう)であります。「攘戎(じょうじゅう)」のために何が必要でしょうか。国内には憲法改正に反対し、長距離巡航ミサイルの導入に異議を唱える運動が見られるが、それを最も喜んでいるのはどこの国か、改めて考える時でありましょう。