『日本』平成30年4月号

地域の祭りと神道

東海 陽/評論家

 昨年、自治会役員となり、神明社の秋祭りに奉仕することができた。かつて純農村地帯であつた郷里の秋祭りは、農作物の豊穣を神明に報謝するものであつた。私の少年時代と現在の祭りの風景を比較すると、以前は甘酒の配布と餅投げだけの素朴なものであつたが、今はそれに加へ、子供御輿(みこし)の巡回、新生児の誕生を祝ふ「練(ねり)」、地域吹奏楽団の演奏など、様々な企画が実施されるやうになつた。

 このうち、子供御輿と新生児祝ひは、近年、少子高齢化が進む中、後継者の健やかな生育を願ふ住民の切実な願ひを反映したもので、神社の産土神(うぶすながみ)としての性格に合致したものと言へやう。

 地域の祭りではあるが、関係者は数か月前から会合を持ち、企画を検討し、祭りの前日は、幟(のぼり)や社殿への国旗の掲揚、舞台・テントの設営等々に取りかかる。その様子を見ると、全員が神聖への奉仕を喜びとし、協力し合つてゐる。個人は全体に融合し、全体のために奉仕すべきであるとする日本的倫理観を生む無意識の心理に接した思ひがした。

 祭りの中心行事は祭祀(さいし)である。神主はお祓(はら)ひの後、荘重に本殿の扉を開け天照大神(あまてらすおおみかみ)の照臨を仰ぎ、「天皇の大御代の弥栄(いやさか)」を祈念する祝詞を奏上する。その瞬間、社殿に清明な「高天原」が現前した。引き続き、祭典本部長である自治会長以下、宮総代、新生児を抱へた父母、祭典委員の自治会役員などが順次玉串を奉奠(ほうてん)する。その中に、神社に隣接する寺院の住職の息子(僧侶)も法被(はっぴ)姿で参加し、神式で拝礼した。

 私は拝殿の有様に聖徳太子の「憲法十七条」を想つた。聖徳太子は「承詔必謹(しょうしょうひっきん)」など、天皇を中心とした国家秩序(国体)を明示され、その前提として、外教である儒仏両教を憲法に摂取・融合された。以後、両教は、広大無辺な神道を敷衍(ふえん)・脚注するものとして、日本の風土に定着した。

自治体当局の内面指導

 秋祭りでは自治会役員が祭典に関与した。だが、これは、集落の慣習によつたもので、改めて祭典委員に選出された訳ではない。それなら、自治会役員の名義で参加すればよいものを、何故、このやうな態様をとるのであらう。そこに、神道祭祀に対する自治体当局の内面指導がある。

 私は自治会の役員となり、自治体当局が作成したと思はれる「宗教上の行事に対する考え方について」と題する文書に接した。同文書には、「昭和五十年一月自治研究委員会研究結果報告書より抜粋」と後書きがあり、作成時期からみて、三重県津市における地鎮祭違憲訴訟を受けた対応と見られる。

 同文書は、憲法の定める「信教の自由」の観点から、地域の祭り行事を、①宗教的行為に当たる祭祀に関する部分と、②祭祀に付随するレクリエーション的部分によつて構成されてゐると分析し、自治会は住民の中に、様々な宗教の信仰者が存在することを踏まえ、地域の連帯を確保するため、レクリエーションとしての行事には参加してもよいが、宗教的行為に当たる祭祀については、関与すべきでないと勧告する。

 だがこの論理は転倒してゐる。地域の住民は、連帯の核心として、共通の祖先(みおや)である神明に根源の命を仰ぎ、先祖代々祭祀に奉仕してきたのであり、祭祀が本、レクリエーションは末である。それ故、地域の連帯を求める自治会が、地域の共同の祭祀に主体的に関与することは、本来の目的に合致したものである。国家の基本法である憲法は、自国の歴史・伝統を踏まへて解釈すべきものである。しかし、信教問題をめぐる自治体当局の憲法解釈には、独立国家日本の姿が見当たらない。主体性のない分析は、日本の文化を解体する。

 現行憲法が占領下、米国によつて押付けられたものであることを知らぬ者はない。ところが、その米国においては、①独立宣言の中に「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によつて一定の奪ひがたい権利を与へられ……」の文言があり、②リンカーンが、米国民の国家への献身を呼び掛けたゲティスバーグ演説の中で、「この国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるために、そして人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させないためであります」と結び、③歴代大統領は就任式で聖書に手を置き、「神の恩寵(おんちょう)」に感謝しつつ宣誓をしてゐることを想ふべきだ。

 これらのことに照らすならば、近代啓蒙主義の申し子と目される米国は、実は宗教的国家であり、国家と「神」は、密接不可分の関係にあると言へる。

神道と国家社会の関係

 米国は、国民の心を一つに結合する「神」を必須の要素とする。この点でキリスト教は、個人的信仰を超えた国家的信仰であり、神道と同じ位相に立つ。同観点からすれば、米国とは歴史・伝統を異にする日本において、国家構成の原理として、固有の神道信仰が介在することは当然と言ふべきであらう。

 神道と国家の関係を、歴史的に見るならば、辛酉(しんゆう)の年の正月朔日(さくじつ)、神武天皇が人皇初代として、畝傍(うねび)の橿原(かしはら)宮に即位され、四年二月、鳥見(とみ)山に霊畤(れいじ)を立て皇祖天神を祀(まつ)り、「大孝」の精神を宣明されたことを起源とする。神道は建国創業の精神に立脚する。

 以後、神道が日本の根幹として重視されたことは、大宝律令において、手本とした唐の律令に存在しない神祇(じんぎ)官を政務を担ふ太政官の上位に特立したこと、明治維新に際し、政府はいち早く神祇官を復興したことに見ることができる。それは、明治維新が神武創業の精神の復活であり、神道が日本国家と一体的関係にあることを明証する。神道は建国以来、万世一系の皇統護持を祈りの中心とし、今も同一の祈りが全国津々浦々の神社において捧げられてゐる。荘厳無比と言ふ外ない。

維新後の神道政策と戦後の式年遷宮

 維新後の神道の行政的な位置付けは平坦ではなかつた。政府は「文明開化」の風潮が高まる中、キリスト教受容の可否問題に直面し、帝国憲法に「信教の自由」を掲げることで、近代化路線を明確にしたが、当問題に関する論議の過程で、神祇官は廃止され、神社行政は、神祇省、教部省、内務省へと所管替へを余儀なくされた。しかし、満州事変以後、国民精神の高揚を背景として、政府は紀元二千六百年に当たる昭和十五年、内務省神社局を、同省外局の神祇院に昇格させるなど、神道重視の姿勢を示した。

 それに先立つ、昭和九年(一九四〇)、内務省は地方公共団体に対し、地域の神社への公費供進を指示する一方、住民の崇敬を集めてゐる無格社の神社についても供進を認める通達を出した。これは『論語』の「祭りには敬を思ふ」の趣旨に適(かな)ふ皇国礼典の整備であり、その精神は時代を超えて生かされるべきであらう。

 大東亜戦争の敗戦に伴ふ「神道指令」によつて、政府の神道施策は烏有(うゆう)に帰した。その結果、国家の手を離れた伊勢神宮の式年遷宮が、国民の赤誠(せきせい)によつて奉賛されるやうになつた。これは神道が国家的・公共的信仰として、国民の中に深く根付いてゐることを示すものだ。

 我が国では、神道を基軸としつつ、仏教を尊重された聖徳太子の御施策によつて、信教問題は基本的に解決済みである。政府や地方自治体は、神道本来の姿である「国家の宗祀(そうし)」に相応(ふさ)わしい行政を講じるべきと考へる。