『日本』平成30年6月号

分断される社会という病理とソーシャル・メディア

皆川哲夫/元国家公務員

 今年に入ってにわかに北朝鮮をめぐる情勢がめまぐるしい。本稿を書いている時点で数週間後に米朝首脳会談が予定されており、警戒感を持って今後の動向を慎重に見守るしかない状態にある。その一方で、国際情勢とは直接的な関係はないけれども現代社会において考えるべき課題はほかにも多い。

アメリカ大統領選挙に見られる分断

 その一つが、一昨年の秋、ドナルド・トランプ氏が第四十五代アメリカ大統領に当選したことで浮き彫りとなった「分断される社会」という問題である。選挙戦の過程で過激な発言を繰り返していたトランプ氏が、中道の候補たちを抑えて共和党の指名を獲得したことにも、現代アメリカ社会に潜む深刻な分断状況が現れているが、選挙の後、それはより先鋭化したともいえる。

 通常、成熟した民主主義のもとでは、激しい選挙戦のあとでも勝敗が決まったならば勝者も敗者も一種の「ノーサイド」を受け入れる。その常識が近年のアメリカでは壊れてきている。まず、トランプ氏の総得票数が民主党候補クリントン氏よりも二六〇万票少ないことが声高に指摘された。その後、いわゆる「ロシア疑惑」が浮上した。これらは明らかに、「トランプ氏の当選は不正な方法で得られたものだ」として選挙の無効性を訴える意味を持っている。さらにそのロシア疑惑をめぐる司法への介入疑惑も浮上して、トランプ大統領は就任まもなくから「弾劾」が囁(ささや)かれることにもなった。

 選挙後の出来事の中にも、アメリカ社会の深刻な分断状況を示すものは多い。最も衝撃だったのは、昨年八月十二日にバージニア州シャーロッツビルで起こった白人至上主義者たちとその反対者たちとの衝突事件である。ここでは反対派の人だかりに車が突っ込むというテロのような殺傷事件まであり、対立する陣営への激しい狂気じみた「憎しみ」が見て取れる。そうした「激しい憎悪を伴う政治的対立」は、むろんフランス革命、ロシア革命、ナチスなど近代の政治史上で珍しくはないが、アメリカを含む先進諸国の政治からは遅くとも一九六〇年代までには消えたはずのものであった。

価値と信念における分断

 アメリカは移民の国で、民族や人種や文化・宗教などの大きな違いを内部に抱えている。また、国民の間での経済的格差も先進国の中では高い。そのため、「アメリカは前から分断されていた」と達観する風を装う論者もいる。しかし、現代のアメリカ社会に潜む分断はそうしたレベルの分断よりも、もっと深刻で始末に負えないものである。というのは、今日の分断は価値や歴史観・世界観をめぐる対立に根差しているからである。

 アメリカでは、移民政策、オバマ・ケア、人工妊娠中絶、LGBT(性的少数者)、銃規制、あるいは財政規模、政府の規制など、さまざまな側面で対立が激しいが、それらは基本的に「イデオロギー」や「信念」の間の対立である。シャーロッツビル事件は、アメリカの歴史に内在してきた差別を糾弾するポリティカル・コレクトネス運動と、それに反発する思想的立場のグループとの衝突をきっかけとしているが、ここにはそもそものアメリカ国家のアイデンティティをめぐる深刻な対立が現れている。 現代の先進諸国の多くで、よく似た政治的対立が強まっている。たとえばイギリスのEU離脱論(ブレクジット)に代表されるように、ヨーロッパの多くの国でEUからの離脱問題と移民政策問題とは国論を二分する政治的争点となっている。また、カタルーニア、イタリア北部同盟、ベルギーなど、これまで当たり前であった国民国家の統合を解体させる動きも勢いを増している。

 イデオロギーによる分断は、しばしば「相手の信念は邪悪だ」と考える傾向があり、宗教戦争と同じ妥協の余地のない徹底的で手段を選ばない闘いに陥る危険がある。

ソーシャル・メディアにおける分断

 なぜこうなったのか。無視できないのが、多くの人が指摘するように、近年における「メディアの分断」である。むろんアメリカでは、昔からニューヨーク・タイムズのような非常にリベラルな新聞から、より保守的な新聞まで政治的立場の違いは大きかった。しかし近年のメディアとしてはテレビやインターネットサービス(SNS)が重要で、それらは新聞以上に政治的に分断されている。テレビでは一九八〇年創立のCNNと一九八六年創立のFOXテレビが両極端に位置している。SNSではさらに、より極端な左に二〇一二年設立のオキュパイ・デモクラッツというフェイスブックのサイトがあり、極端な右には二〇〇七年に設立されたブライバートというオンラインのニュース局がある。

 ロイター通信が発行しているデジタル・ニュース・リポート2017という電子版のサイトが、メディアと社会の分断化との関係を統計的データを使って分析している。それによると、イギリスにも似たような状況が見られるものの、アメリカとは違って、政治的に中間と位置づけられるBBCのウェイトが大きく、分断化の度合いは弱い。しかしその一方で、ブレクジット問題に絡んで離脱派からはBBCへの不信感が高まっているとも分析している。

 メディアの分断を象徴しているのが「フェイクニュース」や「ポスト・トゥルース」という言葉である。前者はトランプ氏が、対立するメディアの報道を非難する際によく使うが、トランプ陣営自身がフェイクニュースを流しているという指摘も多い。後者は「客観的な事実ではなく、主観的な信念に合う情報だけが『真実』と受けとられる」ことをいう。これらからは、現代において「メディアは『客観的な真実』を伝えていないし、人びとは『客観的な真実』を求めてもいない」ことが浮き彫りになる。

メディアの公共性という観点の重要性

 欧米社会での大手メディアに対する不信感の高まりを、「偏向報道をしてきたメデイアの自業自得」だと冷笑的に突き放すだけでは、人びとがますます主観的な信念に閉じこもり、社会の分断が加速するのを助長することになる。そしてその危険は日本でも高まりつつある。たとえば、新聞による政治的立場の違いは、かつてよりも現在の方が鮮明になっている。テレビの報道・情報番組でコメンテーターが、根拠のないことを事実であるかのように話すことは少なくない。かつて新聞が大々的に報じたフェイクニュースが、日本と近隣諸国との関係を修復不能なまでに悪化させた歴史的事実もある。

 むろん、「メディアにおける自由な競争が民主政治を支える」という考えは基本的に正しい。ただ、そこから短絡的に、放送法における「放送の政治的公平性」の規定を取り払おうとする動きが、むしろ政府与党から強まっているのは問題である。ここには「一般的に自由競争は望ましい」という新自由主義の考えが背景にあるのだが、本当は、自由競争が望ましい結果をもたらすのは「提供される財の品質が公共的に精査されうる」ことが必要条件である。しかし、もしもメディアそれ自体が分断されてしまうと、メディアが提供する情報の品質を公共的に精査する場そのものがなくなってしまうのである。

 メディアにおける言論の自由は、当然尊重されなければならない。しかしそれは「責任」と結びついている。その意味で、大手メディアやソーシャル・メディアには「自由」と合わせて「公共性」という観点が重要であることを、やはり強調し続ける必要があるだろう。