『日本』平成30年8月号

日本の人口減少とその影響

仲田昭一/那珂市歴史民俗資料館長

人口増加策の転換

 GHQは、日本を民主化しなければならないとして、これまでの日本の良風美俗の伝統破壊に努めた。個人の権利と独立を強調して「家の制度・家族の解体」を進めた。日本国憲法第二十四条で「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」と定めたことにより、「結婚しない自由」も与えた。産業経済の発展に伴い、豊かな生活を求める傾向が強まると、夫婦共働きが常態化し、「子供より自分」との風潮が若者の間に広まった。子供を産み育てる喜びよりも、子育てを苦労として避け、自分の生活をより楽しむことを優先し出した。少子化の始まりである。

 その一方で、労働力の減少から、「女性の力を職場へ」と男女共同参画事業が推進される。本来、家庭の主婦の「子育て」も重要な役割・職業の一つと考えられるはずである。問題は、子育てが終わった後、どのような職業に就けるかであり、そこは知恵が求められるところである。いずれにしろ、子育てしながらの仕事は難しい現状にあると考えられている。今の働き方改革は、仕事に応じた報酬の平準化であって、少子化の解決法になるのであろうか。意識改革にまで踏み込んだ抜本的な少子化対策が求められる。

伝統文化の衰頽

 企業の地方分散は早くから叫ばれていたが、一向に改善されないまま都市部に集中し続け、それに伴い労働人口も都市部に集中した。人口減少は、第一次産業を主とする農山村部に激しくなり、高齢化も進んで過疎集落・限界集落・老人集落と言われる地域が増え出した。これらの地域では、生活の不便さはもちろん、永く守られてきた伝統的行事を担う若者も少なくなり、数年にして貴重な歴史的な民俗遺産が消えようとしている。これは、単に行事や祭事が続かなくなることではなく、父祖の血を受け継いできた貴重な歴史の断絶を招くことになる。

 茨城県では、常陸国二の宮である静(しず)神社の周辺の村々の鎮守を含む一大神事「磯降(いそお)り」が、それを担ってきた第一次産業、ことに水産業の衰退による資金難と人不足から昭和二十七年を最後として行われていない。各市町村には、鎮守の祭事や関連する伝統行事がある。しかし、最近ではその担い手が少なくなり、やむなく中止となっている地域も目立ってきた。神社との触れあいの機会も少なくなり、住民の中に「敬神崇祖」の念が薄れつつある。日本遺産・世界遺産への登録をと、賑わいを見せてはいるが、それらの保存継承は容易なことではない。

山野の荒廃

 かつては、「国破れて山河あり」といわれた「ふるさと」は心の支えでもあった。しかし、今ではこれが死語になりつつある。山林を管理する人間がいないのである。平地林や丘陵山地の樹木の多くは用材に適さず、輸入材に押されて放棄されたままである。山が荒れれば、河川が荒れ、海の魚類にも悪影響を与え、自然災害にも弱くなる。自然界の好循環が狂って、人間生活にも大きなマイナスを与える。

 田畑においても同様である。耕作放棄地はますます拡大しつつある。定年後、農村に入って農業を楽しもうとする程度では、とても解決できる問題ではない。数少ない大規模農業経営者が借地して耕作するにしても、大型農業機械が入らない山間農地はその恩恵にあずかることなく荒れて行く。このような山林・農地に目を付けたのが、太陽光発電のパネル設置である。現在、茨城県内には猛烈な勢いでこのパネル設置が拡大している。パネルの耐用年数は約二十年と言われるが、その後の環境回復についての保障は定かではない。文化財への配慮はなされつつも、樹木は伐採され、丘陵は崩され、史跡の破壊も見られる。地球温暖化も進むことであろう。福島県の原発事故以降の電力不足を補う事業として期待され、急速に設置が拡大している。

 不思議なことがある。原子力発電が停止しても電力は十分に供給されているのである。昭和四十八年(一九七三)のオイルショックの時には、物不足の騒動が起こり、深夜放送や町のネオンが消えた。今回は、そんな心配も無く通常の生活が続けられている。石化ガス発電で代用されているといっても、フロンガスや地球温暖化の増大を懸念する声は高く上がらない。電気代が高騰しているとの嘆き声も余り聞かれない。「油断」の危険性をはらんではいるが、平和が続き石油・石炭が供給され続けば原子力発電は不用なのではないかと思われるが、雇用問題を含めて、現状を多方面から分析・検討を加えた上での「再開は必要」との丁寧な説明がどこからも聞こえてこない。原発は諸刃の剣ではあるが、太陽光発電の問題点を解決しつつ、さらなる代替エネルギーの開発に人間の英知を傾けなければならない。

集落の回復は不可能

 少子化により各地に廃校が増加している。学校はその地域の拠点の一つであり、地域交流・活性の原点であり、安らぎの場でもあった。その学校が無くなることは、もう住民が増えないことを意味する。「学校の無い所に親は子供を連れて戻らないだろう」と、ある親が悲痛な声を上げていた。定年後の高齢者が趣味を活かしに移住するのは一時的なものである。このような所は、自由に住宅が建設できない市街化調整地域となっていることが多い。調整地域に指定された時点で、新住民の移入が困難になる。現在は、その指定の効果が徐々に現れて来て地域は過疎化が進みつつあるのだ。遠い将来を展望した地域作りが描かれず、当面する問題解決にのみ走ってきた結果である。

少子化対策は遅れている

 高齢者福祉の充実、健康長寿の実現が盛んに唱えられている。非常に大切なことではある。国会議員が遠大な政策を打ち出せないのは選挙権を持つ高齢者が多いことからともいわれる。高齢者への感謝の念は失ってはならないが、問題は今後を担う世代を増やす少子化対策への高邁な政策立案である。現在の子供対策ばかりでなく、子供誕生前のいわば結婚観から始まらなければならない。出産拡大のために治療を受けている若夫婦への補助の増大も必要であろう。第三子以降には大幅な祝意増加も考えられる。子育てに経費がかかると言われるが、子育て支援も、保育所・幼稚園対策ばかりでなく、家庭で育児に専念する主婦にも手厚い補助を考える必要があろう。家庭の存在を守るためにも。

 国家百年の大計のためにも、「結婚したい」「子供を産み育てたい」との気持ちを高めて行くために、若者の新鮮・大胆な発想力を求め、そこから打ち出される施策を実行に移すという思い切った発想の転換がなければ、少子化問題の解決は難しい。それとも、この少人口化を前提とした国家戦略で、将来の日本を構築し世界に伍して行くのか、または既に欧米諸国の深刻な悩みとなってはいるが、多くの移民を受け入れて現水準を維持して行くのか、国民各自が覚悟を定める時期に来ているのではないか。