雑誌『日本』一覧

巻頭言

神武天皇は、大和を目指して日向を出発されたが、途中兄の五瀬命(いつせのみこと)など三兄弟を失ふなどの苦難を乗り越え、長なが髓すね彦ひこなどの抵抗を退けて、大和を平定され、辛かのと酉とり年のとし春正月庚かのえたつのついたち辰朔に橿かし原はらの宮みやに即位されたのである。

プーチンのウクライナ侵略が教えたこと

ロシアが一方的にウクライナのクリミアを奪った二〇一四年。それまでのウクライナは、今の日本人と同じ感覚でした。「戦争なんか起こるはずはない」と。 そして私が思い出すのは、ウクライナの人が当時を振り返りながら「今の日本を見ていると、そのときのうちの国みたいだ」と一生懸命に語っていた姿です。

先人たちが学んだ日本の歴史(八)

太宰府といえば、第六十八代後一条天皇の御代に、ここの役人であった藤原隆家が、九州に攻め寄せた刀伊という外敵を打ち払って、大きなてがらを立てたことがあります。都は、藤原氏全盛のころで、頼通が関白に任じられ、父道長のために、法成寺(ほうじょうじ)というりっぱな住居を建てました。

巻頭言

必要あつて『後醍醐天皇奉賛論文集』を再読した。論文集は建武義会(有馬良橘会長)の編纂で、昭和十四年九月、至文堂の発刊であり、平泉澄博士を含めて十二名の研究者が分担執筆されてゐる。

新春に想ふ

令和五年の新年を迎へた。ウクライナの戦況、台湾海峡の動向に気を揉みながら、宮中参賀、氏子総代の神社も遙拝で終はる始末。配達された新聞も何部かに分かれる広告の多さに嫌気が差し、何か書物でも読むかと想ふ八十半ばの老人。脳裏に浮かぶのは、橘曙覧大人(たちばなあけみうし)の、

建 武 中 興(一)

「建武中興(けんむのちゅうこう)」或いは「建武親政」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「建武」は西暦一三三四年~一三三六年の時代のことです。「親政」とは、天皇自らが政治を司り、国を治めることをいいます。

巻頭言

今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、北条義時の辣腕を見せ付けた反面、敗者への哀悼が薄いといはざるをえない。この点、「判官(源義経)主従を偲び、その純情を慕ひ、その節義を仰」いだのが松尾芭蕉にほかならない。と看破して昭和二十七年(一九五二)講和独立直後に『芭蕉の俤』(日本書院)を公刊されたのは平泉澄博士(五十七歳)である。

ようこそ水戸学の地へ(十二=完)― 下市界隈 ―

今回は城下下市界隈を歩きます。 水戸駅から下市(しもいち)方面を走るバスに乗ります。柳町中央バス停で下車し戻ると柳町一丁目信号があるので、その信号を右折します。少し歩くと「水戸南年金事務所」を案内する看板が見えてきますので、その方へ右折します。

巻頭言

平泉澄博士が昭和四十五年、『少年日本史』を執筆・刊行された時の挨拶文の冒頭である。続けて、「禍(わざわい)なるかな、父祖の精神を曲げ、その行動をゆがめ、全体として之を軽んじ、之をふみにじるもの、そこには当然、思想の混迷と道徳の荒廃とが結果し、国運の衰退と民族の崩壊に脅かされるであろう」と述べられ、「今此の小著は、一千枚の原稿に、二千数百年を包括するもの。