
NATO加盟申請にみる危機意識― 歴史に学ぶフィンランドの人々 ―
筆者は今年の夏に、フィンランド国立のタンペレ大学から招聘されて、在外研究に赴いた。同国滞在中は、大統領府、外務省、国防省、それぞれの高官らとの間で、外交安全保障について、きわめて濃密な意見交換の機会を得た。
筆者は今年の夏に、フィンランド国立のタンペレ大学から招聘されて、在外研究に赴いた。同国滞在中は、大統領府、外務省、国防省、それぞれの高官らとの間で、外交安全保障について、きわめて濃密な意見交換の機会を得た。
今回は城下下市界隈を歩きます。 水戸駅から下市(しもいち)方面を走るバスに乗ります。柳町中央バス停で下車し戻ると柳町一丁目信号があるので、その信号を右折します。少し歩くと「水戸南年金事務所」を案内する看板が見えてきますので、その方へ右折します。
平泉澄博士が昭和四十五年、『少年日本史』を執筆・刊行された時の挨拶文の冒頭である。続けて、「禍(わざわい)なるかな、父祖の精神を曲げ、その行動をゆがめ、全体として之を軽んじ、之をふみにじるもの、そこには当然、思想の混迷と道徳の荒廃とが結果し、国運の衰退と民族の崩壊に脅かされるであろう」と述べられ、「今此の小著は、一千枚の原稿に、二千数百年を包括するもの。
第八十四代順徳天皇は承久の変に敗れ、鎌倉幕府執権北条義時により佐渡に配流せられた。 『小倉百人一首』の掉尾(ちょうび)を飾る、百敷(ももし)きや古き軒端(のきば)のしのぶにも なほ余りある昔なりけり はよく知られているところであるが、順徳天皇を知る人はきわめて少ないと思う。その御生涯については拙著『順徳天皇』で詳しく書いたつもりである。
これは一八五九年 十月七日のこと 景岳は二十六歳の 若さでした その翌年 井伊大老は 暗殺され さらに七年後の 一八六七年には 大政奉還となり 江戸幕府は 幕を閉じ 明治の時代と なりました その後も日本は 混迷に混迷を重ね 新政府に異議を唱える 者たちが結集し 一八七七年 西南戦争がおこりました
源頼朝(一一四七~九九年)は、義において明確な君臣(国体)観を持つてゐたが、情においては正常な親族(人間)観を欠いてゐたといはざるをえない。
今年は日本でもようやくコロナによる行動制限のない夏休みを過ごすことができました。「三年ぶり」の盆踊りや花火を満面の笑みで迎えるはずでしたが、七月に安倍晋三元首相が暗殺されたばかりであっただけに、どこかもの悲しさを拭えなかったのは私だけでしょうか。
皆さんは、今の天皇陛下が水問題の専門家でいらっしゃることを知っていますか? 陛下は学習院初等科の低学年の頃、お住いのあった赤坂御用地内に「奥州街道」と書かれた標識を偶然見つけられました。その標識についてお調べになったところ、鎌倉時代の街道が御用地内を通っていたことがわかり、「道」への関心をお持ちになりました。
日本は今ピンチの真只中だ。一寸やそつとではない。元首相が、白昼衆人の面前で狙撃され殺戮されても、誰も責を負はない。それで国葬だと言ふ。それほどの政治家を軽く扱つてよいのか。身辺警護はたるみ、治安は維持されてゐない。文明国なのか。
平泉澄博士には『革命論』(文部省、一九三四年)の著作がある。文部省(学生部)が発行する「思想問題小輯の六」として刊行されたものであるが、私の手元にあるその小冊子(四十頁)の見開きには昭和九年三月として「本小輯は思想問題に関し、教育関係者の参考に資することを目的として編輯したものである。