佐久間艇長の遺言と夏目漱石、与謝野晶子

袴田茂樹新潟県立大学教授・青山学院大学名誉教授

私が、明治の末に開発中だった小型潜水艇(第六潜水艇)の沈没事故(明治四十三年四月十五日)で亡くなった佐久間勉艇長のことを知ったきっかけは、今でははっきりとは思い出せない。おそらく二十年余り前に発行され、その当時読んだ江藤淳著『漱石とその時代』(新潮選書、平成八年十月)かもしれない。この本には夏目漱石が当時、東京朝日新聞に掲載した「文芸とヒロイツク」(明治四十三年七月十九日)の紹介とその解説があり、佐久間艇長の遺書全文も掲載されている。(資料一 江藤淳の著書では、事件当時当局により軍事技術情報ゆえ一部伏せられた遺書が紹介されているが、その部分は他の資料により補完した)

漱石は艇長の遺書を読んで日記に感想を記し、少し後に文学論としてその文を書いた。さらに東京朝日の翌日の紙面にも、彼は「艇長の遺書と中佐の詩」と題する文を載せている。「昨日は佐久間艇長の遺書を表して名文と云つた。艇長の遺書と前後してあらはれた広瀬中佐の詩が、此の遺書に比して甚だ月並みなのは……」と、この遺書を旅順口(港)封鎖の際に亡くなった広瀬武夫の詩と比べて、前者を高く評価している。

与謝野晶子も、後述のように『精神修養』(明治四十四年五月発行の号)に「佐久間大尉を傷む歌」として、佐久間たちを称え悼む歌を十五首載せている。

この内の十三首は明治四十五年の一月発行の歌集『青海波』に収められた(資料二)。この歌集では、その佐久間艇長を悼む後の歌として明治四十四年七月に「いつしかと若き心にまかせたる身は三十(み そじ)になりぬあさまし」と歌っている。これは晶子の自分自身のことに関するものだが、同じく三十歳で亡くなった佐久間艇長のこともどこか頭の片隅にあったのではなかろうか。

戦後教育を受けた私は、学校教育ではもちろん、一般書などでもこの事件や艇長のことは長い間全く知らなかった。戦前に、艇長の死や彼の遺書が国を挙げて称(たた)えられ、修身の教科書、頌歌や軍歌などで広く知られたので、戦後は国家主義のシンボルとして、軍国主義批判の観点から伏せられたのであろう。

私はこの遺書を読んで、またその後はインターネットや佐久間に関する著書などで、窒息死する寸前の極限状態で手帖になぐり書きされた、しかも簡にして要を得た遺書の写真を見て、明治時代の日本人の驚嘆すべき精神や彼らの生きざまを知り、言葉では簡単には表せない衝撃を受けた。

もちろん、これは軍国主義精神云々とは全く別次元の、人間の在り方の根本を問うものとして様々なことを考えさせられたのである。これは私の個人的な心情ではなく、この事件が報じられたときに世界の人々が感じたことと同じものだということを知った。だからこそ後述のように、米国国会議事堂に人類の最も高貴な精神の実例として独立宣言と並べて佐久間艇長の遺書が展示されたのである。戦後の日本教育では全く無視されたが。私にとっては、戦後教育の在り方を考えるきっかけともなった。

漱石の佐久間艇長遺書への感慨

夏目漱石や与謝野晶子、その他当時の日本の知識人や国民も同様の衝撃受け、それを文章や歌にして残している。以下は、強い衝撃を受け感動した漱石が、それを文学論の問題として述べたものである。

当時は泉鏡花『高野聖』(明治三十三年)などのロマン主義に対し、島崎藤村の『破戒』(同三十九年)を始め国木田独歩、田山花袋、石川啄木などの私小説的な自然主義が全盛だった。身近な生活を、その美醜を問わずありのまま描くのが真の文学、という考えである。漱石はそれに対して、佐久間艇長の遺書を例に、次のように反撃したのである。

「自然主義を口にする人はヒロイツクを描かない。実際そんな形容のつく行為は二十世紀には無い筈だと頭から極めてかゝつてゐる。尤もである。……然し滅多に無いからと云ふ言辞のもとにヒロイツクを軽蔑するのは論理の昏乱である。此派の人々は現実を描くと云ふ。……客観の真相に着目して主観の苦悩を覚ゆると云ふ。さうして現実曝露の悲哀を感ずるといふ。客観の真相に着して主観の苦悶を覚ゆるといふ。一々賛成である。……彼等にしてもし現実中に此行為(佐久間艇長の遺書)を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭ひ去(さる)を得べきである。況や彼等の軽蔑や虚偽呼はりをやである。

余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によつて、器械的の社会の中に赫(かく)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君子に此文字の、今日の日本に於いて猶真個の声明あるを事実の上に於いて証拠立て得たるを賀するものである。彼等の脳中よりヒロイツクを描く事の憚りと恐れとを取り去つて、随意に此方面に手を着けしむるの保証と安心とを与へたるを慶するものである。

往時英国の潜航艇に同様不幸の事のあつた時、艇員は争つて死を免れんとするの一念から、一所にかたまつて水明かりの漏れる窓の下に折り重なつたまゝ死んでゐたといふ。本能の如何に義務心より強いかを証明するに足るべき有力な出来事である。……自然派の作家は、一方に於て佐久間艇長と其部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。……獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議の行為があると云ふことを知る必要がある。」(「文芸とヒロイツク」より)

漱石は文学論として、人間の動物的とも言える自然な感情や行動を美醜にかかわらずありのまま描くのが「真実」の描写だと主張して、現実にはあり得ないヒロイズムとか理想主義、ロマン主義を否定するのが自然主義だとした。これに対して、義務とか使命のためには本能的、自然的な感情をも抑制し得る人間の精神力を認め、その行動や表現を「ヒロイツク」とした。そしてこの両者を対比し、後者をより高く評価しているのである。またその実例として、彼はまさに明治四十三年四月の潜水艇沈没事件の際の佐久間勉艇長の遺書を、絶好の例として取り上げているのだ。

その死ではなくその古武士的なるに泣けるなり

佐久間艇長は遺書の最後の方に、二人の恩師の名を挙げて彼らに感謝している。その一人、成田鋼太郎福井県立小浜中学校教諭が初めて遺書を読んだときの言葉は感動的だ。その一部を抜粋する。

「……新聞紙上には雄々しき最後等、続々報道すれど、その雄々しき最後といへるは、……死に至るまで職務に忠実なりしは軍人の本領を発揮して余りあるといへるに過ぎず。予は甚だ物足らぬ心地せり。……十九日午後九時、飛電(至急電報)江田島より来る。『サクマシセンコノビダンヲノコセリアンイコフ、コマ』、是れ海軍兵学校教官海軍大尉駒林次郎君の発信にして、『佐久間氏千古の(永遠の)美談を遺せり安意乞ふ、駒』と読まれり。嗚呼これあるかな。これあるかな。……二十一日、その全文を読みて、予は感極まりて泣けり。今泣くものは、其の死を悲しめるにあらざるなり。其の最期の立派なりしに泣けるなり。その死状の、真に我が古武士的なるに泣けるなり。」(足立倫行『死生天命――佐久間艇長の遺書』資料編、ウェッジ刊 平成二十三年)

恩師成田のこの文を現代人として読んで驚くことがある。それは第一に、潜水艇が沈んで「死に至るまで職務に忠実なりしは」、つまりパニックに陥り苦しみもがきのた打ち回っていないのは、軍人の本領を発揮しただけであってそれだけでは甚だ物足りない、と述べていることだ。夏目漱石も記していることだが、当時、イギリスでもフランスでも潜水艇の事故が続き、その時の状況と比べると、窒息死の極限状況に至るまで従容として(もちろん肉体的、精神的苦しみの限界にありながら)職務に就いていたという明治の日本人の精神の在り方は国際基準から見ても、何か特別のものとして強い感銘を受けざるを得ない。

第二に、佐久間艇長がこの状況で世界が驚くような遺書を残したことについて、成田が「今泣くものは、其の死を悲しめるにあらざるなり。其の最期の立派なりしに泣けるなり」と述べ、それを「千古の美談」と評価し、「古武士的」と述べていることである。

佐久間艇長がそのとき行おうとしていた初期潜水艇の実験的な潜航は、まだ許可されていなかった違法なものだとか、その無許可の実験的潜航に対する専門家の批判的な研究や艇長の責任論なども私は読んでいる。それらが全て事実であったとしても、佐久間艇長と十三名の部下に対する世界の讃嘆は、その法律論とはまったく別次元の事柄と言うべきだ。三十歳の佐久間艇長や二十歳代の若い部下十三人が当時の最優秀の人材だったことは、遺言だけでなく他の資料でも知られている。もし事故に遭わず彼らが生存していたならば、彼等だけでなく、彼等の将来の家族たちも日本社会、あるいは世界社会への大きな貢献をしたと想像される。彼等が、この状況の中でなぜ「古武士的」態度をとり得たのか。艇長は遺書に次のように記している。

「一、潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す。かかるときに困る故。幸に本艇員は皆よく其職を尽くせり。満足に思ふ。我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に引出の中にあり」

これを読んで、軍国主義教育で死を覚悟させられていたから、と言うのは浅はかであろう。それは盲目的な軍国主義よりも、むしろ米大統領が賞賛した「武士道」に近い。

潜水艇事件に対する世界の反応

つぎに、与謝野晶子のこの事件に対する実際の反応や、第二次世界大戦中に息子を南アジアの戦場に送り出す彼女の歌と、戦後日本で広く知られている「反戦歌人」としての与謝野晶子のイメージのギャップについて、少し考えてみたいのであるが、その前に、佐久間艇長の潜水艇事件が生じた時の国際的な反応を記しておきたい。戦前だけでなく戦後も含めて米国や英国など国際的に影響を与えたこの出来事を、戦後のわれわれ日本人がほとんど知らないことの不自然さを考えるためである。

この事件と佐久間の遺書は世界の報道機関が、人間の極限状況における驚嘆すべき行為として伝えた。

米国では、人類の偉大な行動、文化、モラルの実例として国会議事堂の大広間に、「独立宣言」などと並べて佐久間艇長の遺書の写しとその英訳が展示された。米国人にとって独立宣言は国を支える精神のシンボル、というよりも人類全体が目標とし民主主義の鑑とすべき精神であり、最も神聖なものである。それは単なる理念や理想主義ではなく、それは独立戦争で流された多くの命と血とが引き換えとなった大義でもある。欧米人が、それまでは「高貴なモラルや精神性と無関係な後進的な黄色い猿」と蔑視していたアジア人の無名の一青年の生きざまが、米国の独立宣言と対等の扱いを受けて国会議事堂に「祀られた」こと自体が、驚くべきことである。

新渡戸稲造の『武士道』に感激し日露戦争の仲介役もしたセオドア・ルーズベルト大統領も、米国国立図書館の前に佐久間艇長の遺言を刻んだ銅板を設置し、それは昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃の後も撤去されなかったと言う(足立倫行『死生天命――佐久間艇長の遺書』)。ちなみに、真珠湾攻撃をフランクリン・ルーズベルト大統領など当時の米指導部は「ジャップの卑怯な行為」として、米国民統合のために最大限利用した。

佐久間艇長の行為が、たとえ彼が軍人であったとしても、また軍人としての使命感を持っていたとしても、軍国主義とは些(いささ)かの関連もない人類史上の稀有(けう)の出来事であったということは、米国のこれらの事実を見ても分かる。

次に、ロシアの反応を記そう。事件が起きたのは日露戦争後まだ五年経っただけであったが、ロシアでもロイター通信が報じたこの事件の情報が各新聞に掲載され、多くの人々が佐久間艇長やその部下たち日本人の行動とその精神力に感嘆した。モスクワの日本大使館の駐在武官は、「我潜水艇不幸に対する露国紳士の感想に関する件」として、次のような公電を日本に送っている。

「第六潜水艇の不幸はロイター通信のロンドン電報により直ちに当地に伝わり、各新聞これを掲載ししかば一般に知れ渡り、海軍軍人と否とに区別なくいずれも口を極めて乗員最期の勇壮なる行為を称賛し、中にはこの精神がため日本人は強きなりとまで語る紳士あり」。また、他の大使館員たちも、ロシア人からしばしば賞賛の辞を聞くことが多かったとの報告もある。(足立倫行、同前)

ロシアにおいても、海軍軍人だった佐久間とその部下たちの行為が、恩師成田が述べているように「軍人の本領として当たり前」と見られているのではない。佐久間の遺書が、「海軍軍人と否とに区別なく」、すなわち軍国主義精神とは関係なく、極限的な状況における人間性の象徴として称賛されているのだ。

英国の海軍軍人が佐久間艇長を称え、海軍の教本になっていること、ロンドン南部の「ゴスポート王室潜水艦資料館」には佐久間艇長のコーナーが設けられていること、一九八七年以来、駐日英国大使館付海軍武官が二年おきに、日本各地(呉市、岩国市、若狭町など)の慰霊祭に参列してスピーチをしていることなどは、今ではインターネットなどでも簡単に調べられるので、ここでは深入りしない。

また事件当時、佐久間艇長の遺書に強い感銘を受け、ドイツやトルコの皇帝、イタリアの大臣など多くの各国代表が続々と弔意を表した。

与謝野晶子と佐久間艇長

日露戦争に出征し旅順港包囲軍にいた弟を嘆いて「あゝおとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、……旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、なにごとぞ……すめらみことは、戦ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獣の道に死ねよとは」と歌った与謝野晶子については、戦後の私たちは反戦歌人として教科書でも学び、周知のこととなっている。

ただ、この歌を反戦歌と見るのが不自然なことは既に専門家たちによって論じられている。(三枝昂之『昭和短歌の精神史』、本阿弥書店、平成十七年)この歌は、直情的で嘘を言えない、自己を偽って時代に迎合することはできない彼女が、弟を思い、家庭や家業を思い、素直にその気持ちを歌っただけである。

彼女は、この五年後に潜水艇事故が起きると、佐久間艇長や部下たちを悼む歌を十五首歌っている(資料二)。彼女がどれだけ深い感銘を受け心を揺さぶられたがが伺える。ただ、この歌が載っている『定本與謝野晶子全集 二』(講談社、昭和五十五年)には、佐久間艇長についての説明は一切ない。戦後の読者は、何の歌か分からないだろう。

彼女が大正デモクラシーの平和主義の中で、反戦思想を抱いたのは事実だ。大正七年の彼女の「戦争に関する雑感」(『定本與謝野晶子全集 十六』)がその典型で、戦争を男の行為として厳しく批判している。同時に彼女は、防衛戦争は否定しておらず、戦争の「効用」にも触れている。

そして、最晩年の日米開戦後には四男を戦争に送り出す歌を次のように歌っている。
水軍の大尉(だいい)となりて我が四郎 み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ
(『短歌研究』、改造社、昭和十七年一月号)

これも軍国主義云々というより、彼女の性格から見て、その当時の偽らざる真情だろう。
本稿では佐久間艇長のことを中心に取り上げたが、私が特に問題としたいことは戦後の日本国民が、公正で客観的な歴史認識を持つ機会を奪われていることだ。

資料一 佐久間艇長遺言(原文は漢字、片仮名)

小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す、誠に申し訳無し。

されど艇員一同死に至るまで、皆よくその職を守り沈着に事を処せり。

我れ等は国家の為め職に斃(たお)れしと雖も唯々(ただただ)遺憾とする所は天下の士は之を誤り以て将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。

(こいねがわ)くは諸君益々勉励以て、此の誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。さすれば我れ等一(いささか)も遺憾とする所なし。

沈没の原因

瓦素林(ガソリン)潜航の際、過度深入せし為め「スルイスバルブ」を締めんとせしも、途中「チエン」きれ、依(よっ)て手にて之をしめたるも後れ、後部に満水せり。約二五度の傾斜にて沈降せり。

沈据(ちんきょ)後の状況
一、傾斜約仰角十三度位。
一、配電盤つかりたる為め電燈消え、電纜(でんらん)燃え悪瓦斯(ガス)を発生、呼吸に困難を感ぜり。

十四日午前十時頃沈没す。

この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。

一、 沈下と共に「メンタンク」を排水せり。

(あかり)消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し終れるものと認む。

電流は全く使用する能(あた)はず。

電液は溢(あふ)るも少々、海水は入らず。

唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。

「クロリン」ガス発生せず、残気は五〇〇磅(ポンド)位なり。

「ツリム」は安全の為め予備浮量六〇〇(モーターのときは二〇〇位)とせり。

(右、十一時四十五分、司令塔の明りにて記す)

溢入の水に浸され乗員大部衣湿(うるお)ふ、寒冷を感ず。

余は常に潜水艇員は沈着細心の注意を要すると共に大胆に行動せざれば、その発展を望む可からず。

細心の余り畏縮せざらん事を戒めたり。

世の人はこの失敗を以て或は嘲笑するものあらん。

されど我は前言の誤りなきを確信す。

一、司令塔の深度計は五十二を示し、排水に勉めども十二時迄は底止して動かず。この辺深度は十尋(ひろ)位なれば正しきものならん。

一、潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す。かかるときに困る故。

幸に本艇員は皆よく其職を尽くせり。満足に思ふ。

我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり。

(之れ但し私事に関する事、言ふ必要なし。田口、浅見兄よ、之れを愚父に致されよ)

公遺言

謹んで

陛下に白(もう)す。我部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はらん事を。我が念頭に懸かるもの之あるのみ。

左の諸君に宜敷(順序不同)。一、斎藤大臣 一、島村中将 一、藤井中将 一、名和少将 一、山下少将一、成田少将 一、(気圧高まり鼓まくを破らるる如き感あり)

一、小栗大佐 一、井出大佐 一、松村中佐(純一)

一、松村大佐(龍) 一、松村少佐(菊)(小生の兄なり) 一、船越大佐

一、成田鋼太郎先生 一、生田小金次先生。

十二時三十分、呼吸非常にくるしい。

瓦素林をブローアウトせし積りなれども、ガソリンによふた。

一、中野大佐、

十二時四十分なり。

資料二 佐久間大尉を傷む歌 全集第二巻 「青海波」より
(『定本與謝野晶子全集』、講談社、昭和五十五年)

ひんがしの国のならひに死ぬことを

誉むるは悲し誉めざれば悪し

勇ましき佐久間大尉とその部下は

海国(うみぐに)の子にたがはずて死ぬ

瓦斯(ガス)に酔ひ息ぐるしとも記しおく

沈みし艇(ふね)の司令塔にて

大君の潜航艇をかなしみぬ

十尋(とひろ)の底の臨終(い まわ)にも猶

武夫(なおもののふ)のこころ放たず海底の

船にありても事とりて死ぬ

海底の水の明かりに認(したた)めし

永き別れのますら男の文(ふみ)

水漬(つ)きつつ電燈きえぬ真黒なる

十尋の底の海の冷たさ

海底に死は今せまる夜の零時

船の武夫(もののふ) ころも湿(うるお)

大君の御名は呼べどもあな苦し

沈みし船に悪しき瓦斯吸ふ

いたましき艇長の文(ふみ)ますら男の

むくろ載せたる船あがりきぬ

やごとなき大和だましひある人は

夜の海底に書置を書く

海に入り帰りこぬ人十四人

いまも悲しき武夫 (もののふ)の道

髪白き生田小金次先生は

佐久間を語り春の日も泣く

全集第二巻 「拾遺 明治四十四年」より

桜さく弥生も海のできごとは

いたましきかな沈む武夫(もののふ)

ますら男は笑みて死にけめ聞く我は

たおやめなれば取乱し泣く