日本史上より見たる明治維新(一) ―一貫せる不易不滅の精神 ―

平 泉  澄
文学博士

かつて林鵞峰(がほう) は、歴史の変化運行に注意して、これを春夏秋冬の循環に比した。実に時代時代の変転は、自然界における四季の変化に劣らず顕著であつて、ある時は春風駘蕩(たいとう)、ある時は秋風落莫(らくばく)、これを比較して殆(ほと)んど世界を異にする観さへある。これ人の歴史における重大なる特質であり、人生の神秘不思議の一つである。予はかくのごとき時代の推移を理解することをもつて、史家の重大なる任務の一と考へ、従来いささか微力をこの方面に尽し来つた。而(しこう)して予の観る所によれば、日本の歴史は截然(さいぜん)として古代・上代・中世・近世・現代の五期に分れ、社会生活の上にも、精紳生活の上にも、乃至(ないし)経済生活の上にも、それぞれ格段の特色をもつて居るが、殊に注意すべき点は、それぞれの時代における文化価値の相違であつて、上代は美をもつて最高の価値とし、中世はひたすら聖を追求し、近世は専ら善を求め、現代は只(ただ)真を得ようとして居り、而してそれらに対して古代は純粋渾一(こんいつ)の文化であつたといつてよろしい。

然るに歴史の特性として、かくの如き変化推移の反面に、否、かくの如き変化推移を通じて、脱然としてそれを一貫する所の、不易不滅の精神が存しなければならない。もし自然現象の歴史であるならば、或は動物の歴史であるならば、只その変化推移のみで十分であらう。しかるにかかるものは、単なる出来事の時間的推移に止まり、歴史とよぶに価(あたい)しないものである。我等のいふ所の歴史は、かかる低劣無意味のものでなくて、実に人間精神の最高の発現であつて、人が人としての自覚に始まり、人格の伝統によつて継承せられ、開展してゆくものである。

歴史に於けるこの常住性を実現し、不易不滅の精神が、幾千年の歴史を一貫してゐるもの、世界ひろしといへども、我が日本の外にはない。歴史の本義より考へて、真に歴史と呼ぶに価ある所のものは、日本歴史の外には存しないのである。而してこの日本歴史に於ける常住性の実現、その不易不滅の精神の顕現は、明治維新の際を以て最も顕著なりとする。明治維新は、単に出来事として非常に大きな出来事であり、その関係する範囲もひろければ、これによつて惹起(じゃっき)された変化も深刻であつたが、しかしそれ以上に、この歴史の本質の実現といふ点に於いて、最も重大なる意味をもつものである。

明治維新は、新しき精神が、新に勢力を得て、古きものを破壊し去り、社会の面目を一新したものでは決してない。日本古来の精神が、時には弱まり、時には薄らぐ事があつても、幾千年を通じて、不易不滅である所の精神が、その本来の面目を明かにし、その本然の姿を顕現し来り、その必然の結果として、誤れる政治機関を倒し、誤れる社会組織を改めたものである。

日本人としての自覚から

明治維新の変革を促したもの、或は明治維新の成就を助けたものとして、外国の勢力があり、外国の文化があり、経済的事情があり、その他種々の事情を考へ得るとして、それより遥かに探刻なる、また遥かに根本的なる原動力としては、どうしても古き日本の研究によつて養はれ、古人の思慕憧憬によつて励まされた日本人の日本人としての自覚を第一としなければならない。

近世に於いて、日本人としての自覚を高唱し、これを白熱化せしめ、これを普遍化せしめたものに、その中心の流をなすものが三つ存する。

第一は国学者である。これはいふまでもなく荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(か ものまぶち)、本居宣長と相承(あいう)け、宣長の門人平田篤胤に至つて、宗教的熱狂にまで沸騰し、遂にその門下をして維新の大業に奔走せしめ、参与せしめ、翼賛せしめたものである。これは従来余りに熟知せられてゐる所である。

第二は歴史家である。水戸の徳川光圀を中心とし、またこれを開祖と仰ぐ所の、所謂水戸学派がこれである。彼等は二百年の長きにわたつて大日本史の大著述を成し、歴史を正す事によつて日本人の自覚を促がそうとした。而してその編纂者はこの大著述の傍(かたわら)、また種種の著述によつてこれを宣伝し、それらが世間一般の学者に影響した所は非常なものであり、やがて頼山陽の日本外史が現るるに及び、白熱して火を吐き、普及して一代を風靡するに至つた。

第三は漢学者、特に崎門、即ち山崎闇斎の学派である。この一流は闇斎より浅見絅斎(けいさい)へ、絅斎より若林強斎へ、強斎より西依成斎(にしよりせいさい)へ、次第に相承して勤王の精神を鼓舞し、幾多の志士をその門下より輩出蹶起(けっき)せしめた。

楠木正成、北畠親房への感激

凡そこれらの三つは、その精神の確乎不抜なる点において、またその師資相承して流風の長く伝はつた点において、従つてその門下末流の全国に瀰漫(びまん)した点において、近世における国民的自覚運動の中心を為し、明治維新の原動力の中心をなしたのである。しかしながらその現状を非としてこれを打破せんとする所の破壊力は、漢学を第一とし、史学を第二とし、国学は尤も弱かつた。漢学は直接的であり、国学は理想的であり、史学者はその中間にあつた。而してその直接的なるものは、先づその最初の契機を所謂南朝の史実に対する感慨、南朝の忠臣に対する感激に発した。殊に楠木正成の忠烈や、北畠親房の著はした神皇正統記の大義名分論は、彼等の感激措(お)く能はざる所であつた。

今歴史派に於いてこれを見れば、光圀は大日本史に於いて南朝を正統とし、また元禄五年に湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立て、その裏面には朱舜水の賛を刻した。この賛文は、「忠孝天下に著(あら)はれ、日月天に麗(うるわ)し。天地、日月無ければ、則ち晦蒙否塞(かいもうひそく)す。人心、忠孝を廃すれば、則ち乱賊相(あい)(つ)ぎ、乾坤反覆す」(原漢文)云々といふ有名なものであるが、これはこの時光圀の建碑の為に舜水が作つたものではなく、これより二十二年前(寛文十年)に前田綱利即ち松雲公の求により狩野探幽のかいた、「桜井駅訣別の図」上に賛したものであるといふ。

これは近世の初めに於いては南朝の忠臣に対する感激が一般にひろまつてゐた事を示すものであつて、現に舜水のこの賛文の中にも、「今に至り王公大人より、以て里巷の士に及び、口を交へてこれを誦説して衰へず」(原漢文)といつてゐるのである。墓についていへば、早く万治三年に松平光通は越前燈明寺畷(なわて)に新田義貞の墓を立て、寛文二年に越前平泉寺に存する楠木正成の墓を修理し、またその頃尼崎城主青山幸利は楠木正成の墓を立てたのであり、書物についていへばこの前後楠木正成伝、太平記評判、太平記大全、楠公桜井書、桜雲記、南方紀伝、吉野拾遺等数多く作られたのであつて、南朝に対する思慕は当時の風潮を成して居つたのであつた。光圀はこの風潮に乗じたものであつたが、同時にこの風潮を決定し、これに確乎不抜の基礎を置き根抵を与へたものであつた。

次にさらに熱烈なる漢学派について之を見れば、山崎闇斎は「楠正成庭訓図」に賛して、

植々楠丈夫、庭訓吐丹腸、籌略曽無敵、長年英気香、(植々たり楠丈夫、庭訓丹腸を        吐く、籌略(ちゅうりゃく)曾て敵なし、長年英気香し)

といひ、絅斎は別号を望楠楼と号し、強斎以後その塾を継承して望楠書院と称した。

しからば今明治維新に功績のあつた人々に於いて、南朝の思慕はいかに現れてゐるかといふに、藤田東湖は、楠公の画像に題して、

大廈誰知一木支、中興成否繋南枝、勤王義結金剛塁、逆賊肝寒菊水旗、(中略)空余一 片精忠気、凛烈長為百世師、(大厦(たいか)誰か知る一木の支ふるを、中興の成否は南枝に繋る、勤王、義は結ぶ金剛の塁、逆賊肝は寒し菊水の旗、(中略)空しく余す一片精忠の気、凜烈長へに百世の師となる)

と謳(うた)ひ、また「詠古雑詩」三十首のうち、その二十四に、

我慕楠夫子、謀略古今無、誓建回天業、感激忘其軀、廟堂常少算、乾坤忠義孤、空余一片気、涼涼不可誣、(我れ慕ふ楠夫子、謀略古今無し、誓つて建つ回天の業、感激其の軀を忘る、廟堂常に算少なく、乾坤忠義孤なり、空しく余す一片の気、涼涼誣(し)ふ可からず)

と咏じた。また橋本景岳は、新田義貞の墓に詣でて、

嗚呼成敗論人自古然、何知死生皆係天、丕哉吾公承前烈、厳禁樵采勿狼籍、歳時粛祀挙曠典、児童走卒識順逆、(中略)公也雖忠如天何、嗚呼公也雖忠如天何、(嗚呼、成敗人を論ず古より然り、何ぞ知らん死生皆天に係るを、丕(さいわい)なるかな吾が公前烈を承け、厳しく樵采(しょうさい)を禁ず狼藉(ろうぜき)する勿れと、歳時粛祀曠典を挙げ、児童走卒順逆を識る、(中略)公也忠なりと雖も天を如何せん、嗚呼公や忠なりと雖も天を如何せん)

と歎じ、横井小楠は北畠親房の神皇正統記を読んで、

嗚呼南山雖偏神器之所存、正統天子万乗尊、今世仮令飜黒白、天定万世有公論、憤悲述作正統記、字々渾見血涙痕、厳然大義匹春秋、読之千秋声空呑、( 嗚呼(ああ)南山偏なりと雖も神器の存する所、正統の天子万乗の尊、今世仮令(たとえ)黒白を翻すとも、天定まり万世に公論あり、憤悲述作す正統記、字字渾(すべ)て血涙の痕を見る、厳然たる大義春秋に匹(なら)び、之を読めば千秋、声空しく呑む)

といひ、また「楠公父子訣別図」に題して、

古今殉国士如林、心事茫茫不可尋、君自天成好男子、爰曾一点愛名心(古今殉国の士林の如く、心事茫々として尋ぬ可からず、君自ずから天成の好男子、爰曾(えんそう)は一点名心を愛す)

と歌つた。

吉田松陰は元弘建武の昔にならつて叡山遷幸論をなし、その論は愚論、時勢論、時義略論等に見えてゐるが、今時勢論を引用すれば、

「勿体ナケレドモ後醍醐天皇隠岐ノ出マシアレバコソ、天下ノ義兵一同ニ起リタリ、加(しかのみならず)是ヨリ先後鳥羽、順徳、土御門ノ三天皇ノ御苦難モ有ラセラレタリ、サレバ建武ノ御中興中々一朝一夕ノ事ニハ非ズ、某(それがし)(さき)ニ屡(しばしば)叡山遷幸ノ事ヲ議ス、今前説ノ如ク行ハレバ、遷幸ナキモ亦可也、確乎トシテ桓武以来ノ帝都御持守遊サレ、幕府ヨリ何程逆焔ヲ震(ふる)ヒ惇慢(じゅんまん)ノ処置アリトモ御頓着ナク、後鳥羽、後醍醐両天皇ヲ目的トシテ御覚悟定メラレバ、正成、義貞、高徳、武重ノ如キ者累々継出デンハ必然ナリ」(幽室文稿)

と論じてゐる。この吉田松陰は長州の指導者であつたが、次に薩州の代表者として西郷南洲を見るに、楠公については、

奇策名籌不可模、正勤王事是真儒、憶君一死七生語、抱此忠魂今在無、(奇策名籌模す可からず、勤王の事を正すは是れ真儒、君を憶ひ一死七生の語、此の忠魂を抱く今在りや無しや)

と歌ひ、また、

道風雪難相会、金剛山下臥龍蟠、天皇一夜蒙塵夢、南木繁辺御枕安、( 道(い)ふ莫れ風雪は相会し難しと、金剛山下臥龍蟠す、天皇一夜蒙塵の夢、南木の繁辺御枕安し)

と咏じ、桜井駅を主題としては、

慇懃遺訓涙盈顔、千載芳名在此間、花謝花開桜井駅、幽香猶逗旧南山、(慇懃なる遺訓涙顔に盈(み)つ、千載の芳名此の間に在り、花は謝し花は開く桜井の駅、幽香猶ほ旧南山に逗(とどま)る)

と咏じてゐる。

これによつてこれを観れば、幕末の人傑志を立て衆を率ゐ時代を麾(さしまね)いたものは、皆南朝に対する感激によつて覚悟せしめられ、鼓舞せられたものである。

(漢字を常用漢字に、漢文等を読み下し文に改め、一部にルビを振った)
(東京帝国大学・史学会編『明治維新史研究』、昭和四年、冨山房から)