唱歌の散歩道(十二)―  「四十七士」

中 山 エイ子金沢工業大学職
国産のオルガンとバイオリン

西洋音楽や唱歌の普及・発展に見逃せないのは、楽器の国産化や出版事業の働きです。

紀州徳川藩士山葉(やまは)孝之助の子で、医療機器修理工であった山葉寅楠(とらくす )(1851~1916年)は、明治二十 年(1887)、浜松高等小学校のオルガンを修理した のをきっかけに、オルガン(風琴)の製造を決意しまし た。同年八月、試作品を完成させ、翌年三月に山葉風 琴製造所を設立、九月に大阪市心斎橋の「三木」(三木 佐助書店)と販売契約を結びました。

文政八年(1825)の創業以来、書籍と籐(とう)製品の 店を営んでいた「三木」は、経営危機の脱出に手腕を 振るった四代目三木佐助(1852~1926年)が代 表を務めていました。佐助は西洋楽器の普及の兆しを 見込んで、西日本における山葉オルガンの販売を一手に 引き受け、翌二十二年からは、名古屋の鈴木政吉が製 造に成功(同二十年)したバイオリンの取扱いも始めました。

佐助は、楽器の売り上げの公算を念頭に、演奏方法 を知る教員を増やそうと考え、東京音楽学校の卒業生 六名(酒井良忠・楠美恩三郎・奥山朝恭ほか)を教師 として、同二十三年八月に大阪尋常師範学校で一ヶ月 間の「関西音楽講習会」を企画・開催しています。

大阪や近隣の府県から、オルガンとバイオリンの志 願者(学校教員・保母など)、合計百五名が参加し、そ の後の講習会の実施や楽器の売り上げにつながった充実した勉強会だったそうです。

「鉄道唱歌」の大流行

「三木」は、楽器の販売に力を入れる一方で、バイオ リンの人気、軍歌の流行、教育熱の高まりなどの時流 に乗った出版事業を展開し、二十年代後半には、『図解 ヴワイヲリン指南』や『新編帝国軍歌』『新編教育唱歌 集』などがベストセラーとなり、山葉ピアノが誕生した 三十三年(1900)に、大々的に売り出した『鉄道唱歌』は、爆発的なヒット商品となりました。

既に、二十二年には新橋・神戸間の東海道線が全通 したように、日本の鉄道網の発達は目覚ましく、鉄道 旅行は人々の憧れとなっていたのです。佐助はこのこと に目を着け、東海道沿線の名所や旧跡、特産物を歌い 込んだ唱歌を世に広めようと、作詞(作歌)を大和田建樹(たてき)に、作曲を上真行(うえさねみち)と 多梅稚(おおのうめわか)に頼み、「地理教育」 と銘打って『鉄道唱歌』第一集を出版しました。「好きな方の曲で歌ってください」と、二人の楽譜を掲載した こと自体、目を引きますが、出版後の売り込み方も斬 新でした。主要な駅で、アコーディオンや笛、太鼓、 ラッパの音楽隊が演奏し、三人の女学生姿の歌手が二 曲とも歌って宣伝、その場で『鉄道唱歌』を売りさばく、というもので、その大盛況の中で本は飛ぶように 売れ、「汽笛一声新橋を」と歌い出し、神戸までの六十 六番もある長い歌はたちまち有名になりました。大阪 師範学校教諭の 多梅稚の曲に人 気が集中し、今 日でもこの曲だけが知られています。

三木版『鉄道唱歌』の直後から、いろいろな人が手掛けた各地の「鉄道唱歌」が続々と登場しました。音楽教育の先駆者の 田村虎蔵は、口語唱歌と鉄道唱歌が出現した明治三十年代を、「我国民の脳裏に唱歌を根強く植えつけた時代であった」と、唱歌の歴史を振り返っています(『音楽 教育の思潮と研究』昭和八年)

大和田建樹の「四十七士」

国文学者の大和田建樹(1857~1910年)は、 第五集までの『鉄道唱歌』を始め、『世界唱歌』『航海 唱歌』『花鳥唱歌』『散歩唱歌』『忠勇唱歌』などのベス トセラーを書いた、「三木」にとってのヒットメーカー でした。それでは、十二月ということで、この中から 『忠勇唱歌』第二集(明治三十四年)の「四十七士」を 開いてみましょう。長編ですので、第二章以降は割愛 いたします。

四十七士(作歌  大和田建樹  作曲   小山作之助作歌)
(やいば)の血
一 君(きみ)の 恵(めぐみ)にくらぶれば  ふじの高嶺(たかね)も高からず
   髪の毛よりも軽き身は  捨(す)つとも何か惜(お)しからん
二   恨(うら)みはつもる雪の夜(よ)に  主君のあだをかえしたる
四十七士(しじゆうしちし)の物語   聞くも勇ましいざ来(きた)
三   歴史に残る忠と義の   名は高輪(たかなわ)の泉岳寺(せんがくじ)
ならぶ石碑(せきひ)にむす苔(こけ)の   昔かたらん人々よ
四   頃(ころ)は元禄(げんろく)十四年   勅使(ちょくし)幕府に参向(さんこう)
大礼(たいれい)ありて接待の   役目は伊達(だて)と浅野氏(うじ)
五   浅野内匠(たくみ)は思わずも  吉良上野(きらこうずけ)のあなどりを
受けて 蒙(こうむ)る身の恥辱(ちじょく)   悔(くや)めどかいもあらばこそ
六   早(は)や堪忍(かんにん)も是(これ)までと   吉良をめがけて切(きり)つくる
(やいば)ひたいをきずつけて   血は殿中(でんちゅう)に流れたり
七   吉良は諸人(しょにん)に救われて   其場(そのば)はのがれ得たれども
のがれぬ罪は浅野にて   はかなく死をぞ賜(たま)いける

以下、「会議の庭」(八番)、「城の名残」(三番)、「山科村」(四番)、「天のあたえ」(三番)、「月待つ夜」(三番)、「雪の夜風」(十二番)と続く、四十番までの 物語唱歌です。

森岡常蔵の「赤穂義士」

元禄十五年(1702)十二月十四日の、赤穂浪士の 吉良邸討ち入りの唱歌を、もう一曲ご紹介いたします。 作詞した森岡常蔵(1871~1944年)は、福井県 出身、東京高等師範学校を卒業、後年、同校の校長を務めました。作曲した鈴木米次郎(よねじろう) (1868~1940 年)は、東京音楽学校卒業、明治音楽会を創設、明治 四十年に東洋音楽学校を創立し、校長を務め多くの音楽家を育てました。

赤穂義士(作歌 森岡常蔵 作曲 鈴木米次郎)
(にわか)にとよむ 人の声
(よ)(ふか)き夢を 破(やぶ)りけり
折しも寒月(かんげつ)  色さえて
くまなき庭の 雪あかり
(け)(やぶ)る門 のり越(こ)す塀(へい)
太刀(たち)をかざし 槍(やり)をしごき
寄手(よせて)の猛士(もうし) 四十七(しじゅうしち)
(よそ) いも同じ 鉄石心(てつせきしん)
不倶戴天(ふぐたいてん)の 仇(あだ)は皆
(うらみ)の刃(やいば)に 貫(つらぬ)きぬ
みだりし跡(あと)  狂いしわざ
なりをやつし 恥を忍び
二年(ふたとせ)待ちし 千秋(せんしゅう)
恨は晴(は)るる 身は晴(は)るる
浮世(うきよ)にかかる 雲もなく
さし出(ず)る旭(あさひ) すがすがし
『尋常小学唱歌』(明治三十九年)
伊沢修二の唱歌教育への思い

明治天皇は、学制発布(明治五年)後の学校の教育 現場の視察を通して、日本古来の道徳が蔑(ないがし)ろにされていると痛感し、開明的な文教政策に強い危機感を抱かれました。そこで明治十二年、西洋風に偏った教育の在り方を批判し、仁義・忠孝を教育の要かなめ とする教育方 針を説いた「教学大旨」を、文部卿・内務卿に示されました。同十四年に制定された「小学校教則綱領」では、天皇のご意向を反映して、忠孝精神を重んじる「修身」が最重視され、また、初等科の科目に、ようやく目処(めど)がついた「唱歌」を挙げています。

唱歌教育の開始に向けて、伊沢修二(1851~1917年)を長とする音楽取調掛では、『小学唱歌集』を編纂( へんさん)しますが、これは「徳性の涵養(かんよう) 」を目的に作られ たものです。西洋の名曲を数多く採用していますが、個々の歌詞の内容からは、人を敬い、 誠を尽くす、凜(りん)とした日本人の姿を思い描くことができます。

音楽取調掛は、同二十年十月に東京音楽学校と改称、 翌年一月に伊沢は文部省編輯(へんしゅう)局長の立場で、初代校長を兼任します。この年、自分のことを「歌ずきのじじ」 と称して、教育雑誌『少年園』の中で、「是から先の子供たちを、よい歌ずきの若者にしたて、その身の為ためにもお国の為にもなるようにしたい」と述べています。学校教育によって唱歌を隆盛にし、歌を歌うことがお国の為にもなるようにしたい。これが伊沢の念願であり、 理想であったと思います。唱歌は、学校教育の要である徳育に最も資するものだと確信していたからです。 唱歌の力を借りて、各人の忠君愛国の元気(精神)を養成し、振作させ、それを集めて一国の元気と成して、 日本を道義的に興そうと努めた第一人者が、伊沢修二 だったと言えるでしょう。

一年間、「唱歌の散歩道」にお付 き合いいただき、ありがとうござ いました。締括(しめくく)りに際しまして、 唱歌教育の創始者に思いを馳せた次第です。 (完)