「平成」の誕生 年号とは何か

清水 節/金沢工業大学准教授

新しい年を迎え、平成三十一年(西暦2019年)となりました。日本では年の数え方として、古くから「年号」(元号)が使われてきました。この「平成」がスタートしたのが、今から三十年前の一月八日なのです。今回は、年号についてお話ししたいと思います。

そもそも、年を数える方法(紀年法)は、世界に様々なものが存在します。例えば、キリストの生誕を基準とするキリスト紀元(西暦)、釈迦(しゃか)の歿年を基準とする仏滅紀元、イスラム教預言者のムハンマド(マホメット)がメッカからメディナへ移った(聖遷(せいせん))したのを基準とするヒジュラ紀元、ユダヤ教において神が世界を創世した年を基準とする創世紀元、そして日本では初代の神武(じんむ)天皇が即位し建国された年を基準とする皇紀(こうき)があります。これらは、「紀元」といわれる紀年法の一種で、時の流れの中で、ある特定の出来事が起きた年を元年とし、経過した年を数えるものです。

一方、「年号」は、君主の即位や様々な出来事を契機に、年の名称を改め、それに従って年数もリセットするというものです。年号の歴史は、キリスト紀元よりも古く、前漢・武帝の時代に創始されました(紀元前二世紀)。当時において強大な先進国であった中国(支那)は、周辺諸国に対して臣下の礼を尽くすことを求め、中国王朝の年号を使用するよう求めました。そうした中、邪馬台国「やまたいこく」や倭(わ)の五王といわれる時代の日本では、独自の年号を持つことが難しく、外交の場面で中国の年号を用いていたと考えられます。また、国内においては干支(かんし)(十干・十二支の組み合わせ)が主流だったようです。

『日本書記』によれば、公式に日本独自の年号が登場するのは、皇極(こうぎょく)天皇から孝徳天皇へ譲位が行われた際に定められた「大化」(645年)からです。その背景として、中大兄皇子、中臣鎌足が中心となって蘇我氏を討伐するという一大政変が起き、政治の刷新が行われたことがあげられます。新たな国づくりを高らかに宣言するものとして「大きな変化」を表わす「大化」が採用されたと考えられています。その後、制度として年号が定められたのは「大宝」からになります。

これは、大宝律令(701年)という法的基盤が整えられたことと連動しており、律令国家体制の誕生を祝うものであったと思われます。これ以後、日本の公文書には干支ではなく、年号を用いることが定められました。このように、年号自体は、中国から学んだものですが、古代の日本人はあくまで自国独自の年号を用いようと努めました。そこには、独立国家としての気概(きがい)が表れていると言えるでしょう。

年号が代ることを改元といいます。改元は、本来天皇の御代替わりの際に行われるものです。しかし、今の天皇陛下が初代の神武天皇から一二五代目であるのに対し、元号は大化から平成までで二四七も存在します。それは明治時代まで、おめでたい事象が起きたときや、疫病や地震、津波といった天変地異、あるいは内乱が続発したときなど、様々な理由により改元がなされたためです。それほど昔の人々は、年号の漢字二字(四字)を替えることで世の中のムードや運気が変えられると考えていたのです。年号は、天皇のご意向を受けて、学者が漢籍(かんせき)(中国の歴史・哲学・文学の古典)の中から案をいくつか挙げ、朝廷内で慎重な審議を経て、最終案について天皇の承認を得るという形で決められました。時代によって、時の権力者の意向が反映されたりしましたが、年号は天皇陛下による勅定(ちょくじょう)とされてきました。

江戸時代中期から後期にかけて、国学や水戸学の隆盛に伴って、年号に関する関心も高まります。そうした中で、水戸の歴史学者であった藤田幽谷(ゆうこく)から、天皇一代の間に何度も改元されることは改めるべきであるとの意見が提唱されました。明治時代になって、一人の天皇の時代には一つの年号という「一世一元」の制が定められ、現在に至っています。

日本人は年号に様々な思いを込めて、時代を受け止めてきました。「応仁の乱」、「貞観(じょうがん)地震」、「延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治」、「元禄(げんろく)文化」というように、戦乱や災害といった波乱の時代だけでなく、平和で文化の咲き誇る豊かな時代についても、後世の歴史家や国民の間で元号とともに記憶され、語り継がれてきたのです。

国際社会と繋(つな)がっている現代において、西暦の方が便利な場面はあります。

しかし、今や世界の中で年号を有しているのは日本だけです。そうした独自の時間軸を持っていることの意義についてよく考えておきたいものです。