光格天皇の朝儀再興と朝幕関係 ― 明治維新の淵源と譲位の事例を探る ―

安見隆雄元茨城県高等学校長

平成二十八年八月、天皇陛下のビデオメッセージによる「おことば」の表明は、「譲位」(生前退位)のご意向と受け止められ、大きな社会的、政治的な課題となりました。そして今年四月三十日に退位され、五月一日に皇太子殿下が即位、新たな時代が始まります。また陛下は、その数年前に最後に譲位された光格天皇の事例についての調査を宮内庁に伝えられたということでした。それにはどのような歴史的意義があるのか、明治維新百五十年余の源流を探りながら改めて考えてみることにします。

一 江戸幕府初期の朝幕関係

幕府の陽尊陰抑策

光格天皇の朝儀再興の事績を述べる前に、江戸時代初期の幕府と朝廷の関係について触れておきます。なお、朝儀とは朝廷が行う儀式のことです。

百年余におよぶ戦乱の世をほぼ統一した織田信長は、本能寺の変により非業の死を遂げましたが、後を継いだ豊臣秀吉は朝廷を尊崇し、豊臣の姓を賜り、太政大臣に任命されました。その後、関が原の戦いに勝利した徳川家康は慶長八年(一六〇三)二月、征夷大将軍、右大臣に任命され、江戸に幕府を開きました。

徳川氏は大坂の冬・夏の両陣により豊臣氏を滅ぼし(元和元年・一六一五)、幕府は「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院諸法度」などを相次いで制定して幕藩体制を確立していきました。

特に朝廷に対しては厳しく規制を加えています。天皇には和歌を勧めて、政治思想の学問を禁じ、京都所司代や武家伝奏などの職制を定めて朝廷を監視、抑制しました。それは、かつての承久の変や建武の中興の再来を恐れたからでした。幕府は、表向きには朝廷を尊崇し、陰では抑圧策を用いました。

そして財政の上からも朝廷を抑制しました。全国およそ三千万石のうち皇室御料は三万石に過ぎず、公家料はすべて合わせて十万石ほどでした。

一方、徳川将軍家は直轄領が四百二十万石、旗本領が二百六十万石、合わせて六百八十万石。身内である御三家合わせて百五十余万石。その他、二百家以上の大名が、それぞれに領地と武力を持っていましたが、朝廷には武力が全くありませんでした。

二 光格天皇の朝儀再興

(一)閑院宮家から即位

百十九代の光格天皇(一七七一~一八四〇年)は明和八年(一七七一)に、東山天皇の皇孫である閑院宮家(かんいんのみやけ)の典仁(すけひと)親王の第六皇子として誕生されました。

この閑院宮家は宝永七年(一七一〇)に、新井白石の進言により、皇位継嗣の安定のために創設され、東山天皇の第六皇子の直仁親王を初代とし、その三代目が光格天皇です。

光格天皇は当初、閑院宮家から聖護院に入寺し、出家する予定でしたが、安永八年( 一七七九)、後桃園天皇が崩御された時に皇子がおられず、急ぎ養子として迎えられて践祚、翌年、九歳で即位され、二十四歳になり後桃園天皇の皇女、欣子内親王と結婚されました。その皇統が今の皇室に続いています。

江戸時代には、その他に伏見・桂・有栖川の宮家があり、徳川将軍家にも御三家(尾張・紀伊・水戸)、御三卿(田安・一橋・清水)などがありました。いずれも天皇、将軍の後嗣継続への配慮からでした。

 (二)天皇としての在るべき姿を探求

光格天皇は、閑院宮家から即位されたことから宮中では肩身の狭い思いをされたといわれますが、それを母親のような慈愛を持って支えられたのが、後桜町上皇(一七四〇~一八一三年)でした。

その後桜町上皇から光格天皇へ贈られた御書簡に対して、天皇より御返しの宸翰が残っています。それは寛政十一年(一七九九)七月二十八日付のもので、時に天皇は二十九歳、後桜町上皇は六十歳でした。その一文に、「尤も(上皇の)仰せの通り、人君は仁を本といたすべきことは、古今和漢の書物にも数々あります。仁は則ち孝忠、仁孝は百行の元で誠にこの上なき大切なことです。常に私も心に忘れぬ様にして、仁徳の事を第一と考えております」(意訳)とあり、続けて、「人は身勝手になりやすいものであるから、恕(じょ)という字の心得をもって、我が身をつねって人の痛さを知れという心持ちでありたい」、また「長いこと雨が降らない日々が続いているので、今朝も内侍所での拝礼の時、衆民のため偏えに降雨を願い祈り申し上げました」などと報告されています。これにより君徳修
養のための日々のご様子を窺うことができます。

 (三)石清水八幡宮、上賀茂・下鴨社の臨時祭を再興

光格天皇は、傍系から即位したことを神恩として、天皇の在り方について真剣に考えられ、多くの神事を再興されます。その一つが文化十年(一八一三)に再興された石清水(いわしみず)八幡宮の臨時祭です。これは、かつて承平・天慶の乱(平将門、藤原純友の乱)を平定するため天慶五年(九四二)に勅使を派遣したことに始まりますが、永享四年(一四三二)以後は中絶していたものを三百八十一年ぶりに再興されました。

次いで、翌十一年に上賀茂・下鴨社の臨時祭を再興されました。これは、宇多天皇の寛
平(かんぴょう)八年(八八九)に、神託により藤原時平(ときひら)を勅使として派遣したことに始まり、応仁の乱(一四六七~)の後、中絶していたものを三百四十余年ぶりに再興されました。

臨時祭とは、平安時代中期に編纂された律令の施行細則である『延喜式』に定められた「恒例祭」以外の臨時の祭をいいます。この祭は、遷宮、即位、行幸、国家的危機の時などに実施され、勝利の祈願、事始めの神事といわれています。

後年、幕末非常の時、文久三年(一八六三)三月十一日に、孝明天皇が攘夷祈願のため将軍以下を従えて両社に祈願されたことは、時代を大きく転換させる契機となりました。

臨時祭での天皇の行幸は、寛永三年(一六二六)に後水尾天皇の二条城行幸以来、二百三十余年ぶりとなり、その盛儀を拝観した市民に大きな感動を与え、朝廷の権威を高める機運となりました。

 (四)公家のための学校創建を計画

光格天皇は、将来の朝廷を担うべき若手の公家を育てるために学校の創建を企画されますが、在位中には実現できず、その遺旨を受けた仁孝天皇が尽力して幕府の了承と資金を得て開設するまでに至りましたが、直前に崩御されました。次の孝明天皇が御所の建春門外に公家講学所を設立され、下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と命名されました。明治十年(一八七七)に設立された学習院の前身です。

三 光格天皇の譲位と大嘗祭

光格天皇は数々の朝儀の再興に尽力されました。しかし大嘗祭だけは、天皇の地位に在っては挙行できないため、在位三十九年、四十七歳の文化十四年(一八一七)三月、皇太子恵仁(あやひと)親王(仁孝天皇)に譲位されます。恵仁親王は九月に即位され、翌年の文政元年(一八一八)十一月に大嘗祭を挙行しました。

その大嘗祭の盛儀の様子は、今に残る「光格天皇御譲位 桜町殿行幸図」によって、その一端を窺うことができます。(『近代の御大礼と宮廷文化』所収)

その後、上皇として二十三年の間、世の推移を見届けられ、天保十一年(一八四〇)十一月十九日、七十歳をもって崩御されました。

 「天皇」号の復活

この「光格天皇」の称号は、崩御後に贈られた諡号(しごう)(贈り名)です。江戸時代には、天皇を「主上」「禁裏」などと称し、「天皇」は馴染みのない称号でした。第六十三代の「冷泉院」(九六七~九六八年)から先代の「後桃園院」(一七五八~一七七九年)までは「院」を付けるのが慣例であり、この「天皇」という漢風諡号の復活は、五十七代、八百七十五年ぶりのことでした。

「天皇」の称号の復活には、水戸の烈公(九代藩主徳川斉昭)の尽力もありました。それまで仏式で執り行われていた御葬儀を古来の神道式に復し、山陵を造営して祀るべきであること、天皇以外の人でも用いられる院号を廃して、古制の天皇の諡号を復活すべきことなどの意見を呈上しました。

一方、公家の間からも、「故典・旧儀を復興せられ、公事の再興も少なからず、御仁愛深く、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え、謐号を贈るべしとの意見が興り、幕府へ強く要望が出されました。幕府は、山陵造営は承認しませんでしたが、諡号は認めたので、ここに「光格天皇」という諡号が復活しました。朝廷の伝統と権威の復活に捧げられた光格天皇の御生涯を飾るにふさわしい称号でした。

四 朝幕関係の逆転

(一) 天明の大飢饉と救済の申し入れ

天明七年(一七八七)の夏、数年来の諸国の飢饉で、米の相場が高くなり、京都の市中でも餓死者が多く出ました。市民は京都所司代や町奉行所に対策を求めましたが全く反応がなかったため、これを見限った老若男女数百人が御所の築地塀(ついじべい)を回り、門から賽銭を投げ込み、「御所千度参り」を始めました。十六歳になられていた光格天皇は、関白鷹司輔平、武家伝奏を通して京都所司代に、「関東から救い米を差し出して貧窮を救うことはできないか」と申し込まれました。

これは朝廷が幕政に介入することであり、朝廷も非常な覚悟を持っての決断でしたが、京都所司代はこれを受け入れて千五百石のお救い米を支給しました。当時は、すべて前例が重視される時代でしたが、天皇の民を慈しむ勇気ある行動が、この慣例を破り朝廷が幕政に関与する道が開けました。

この時、御製に籠めて、国民の安寧と為政者の仁政を促すお気持ちを表明されました。

みのかひはなにいのるべき朝な夕な
民やすかれとおもふばかりを
たみ草に露のなさけをかけよかし
世をもまもりの国のつかさは

この一件は、飢饉に対して手をこまねいて市民の打ち壊しに見舞われた幕府に対して、ひたすらに万民の安寧を祈り、幕府に救済を要請する天皇(朝廷)の姿とが鮮明な対比となって、万民の目の前に明らかにされました。

 (二)御所を古制に復して再建

天明八年(一七八八)一月に発生した京都の大火で御所も焼失し、幕府はその再建を老中松平定信に命じました。定信は裏松光世(うらまつみつよ)(固禅)の『大内裏考証』を参考にして再建しようとしましたが、幕府の財政難と大飢饉での民衆の救済を理由に、かつての壮麗な御所の再建には反対しました。光格天皇は定信と掛け合い、承明門・紫宸殿・清涼殿などの一郭を平安時代の様式で再建することができました。

 (三)尊号の一件で朝幕関係が緊張

このように朝廷と幕府の関係は良好に進んできましたが、これに亀裂を生じさせる事件が起こりました。

寛政元年(一七八九)、光格天皇が父・典仁親王に、一般的には皇位に即(つ)いた人に贈られる太上天皇号を贈ろうとされた尊号一件といわれる事件です。

「禁中並公家諸法度」では、親王の席次が摂関家よりも低いことに、天皇は不満を抱いておられました。この時、松平定信は、この法度は徳川家康以来の祖法であり、その改正は幕府の威厳を損うとして、「皇位に即いたことのない者に贈るのは先例がない」と拒否しました。

これに対して天皇は、徳川時代以前の古例があるとし、定信と学問的論争に発展していきました。遂に天皇は、朝臣による会議を開き、尊号宣下を強行することに決定しました。その事態を憂慮した鷹司輔平(前関白で典仁親王の実弟。天皇の叔父にあたる)が、定信に尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を求め、天皇もまた輔平と後桜町上皇に説得され、止むなく断念されました。

この騒動が落ち着くまでに六年の歳月を要し、その後も尾を引き、幕末に盛んになる尊王思想を助長する火種になりました。

 (四)ロシア軍艦の来襲を朝廷へ報告

十八世紀後半になると外国船の接近・来航が増え、幕政を揺るがす大きな問題となってきました。寛政四年(一七九二)、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航して通商を要求したが幕府は拒否しました。その時に幕府が与えた信書を携えて、文化元年(一八〇四)に、レザノフが長崎に来航しましたが、幕府の全面的な通商拒否回答を憤り、その帰途に樺太、択捉(えとろふ)、利尻などの日本の施設、船舶を攻撃する暴挙を行いました。幕府は東北諸大名に蝦夷地出兵を命ずるなど、軍事的緊張が一気に高まったため、万が一の事態を憂慮して、朝廷に報告しました。

これが先例となって、外国に関する事案は朝廷に報告することとなり、後年、幕府が外国と条約を結ぶ際には、朝廷の勅許を必要とする論拠となりました。孝明天皇時代における条約勅許問題はここから始まります。これらの外的要因が、士民の泰平の眠りを醒まし、幕府を動揺させ、朝廷の権威を高めることなります。

五 大政委任論と大政返上論

(一) 天皇の大権と国体の自覚

江戸時代において、天皇の大権として、官位の授与、暦の制定、元号の制定の三件が留保されていました。将軍は朝廷から征夷大将軍、従一位、右大臣などに任じられ、また諸大名以下の武家も朝廷から位階と官職を授与されていました。ただ、武家の位官は、公家とは別のものとされ、例えば右大臣や大納言に任命されても、朝廷に仕えることはなく、名誉的なものでした。

世の中が落ち着いてくると、色々な学問が盛んになってきました。中でも『大日本史』など歴史の編纂により我が国古来の国柄、すなわち建国以来、天皇が統治されてきたという国体が明らかになってきます。やがて朝廷の存在と幕府の在り方に疑念が生まれ、その中から現実の幕府の存在を是認した上で、朝廷との関係を理論的に説明しようとする試みが出てきました。それらを大政委任論といいますが、その主な説を紹介してみます。

山鹿素行(一六二二~八五年)は、江戸前期の儒学者・兵学者で、古学を提唱し、山鹿流兵学の祖となりました。その『武家事紀』で、「朝廷は禁裏である。辱(かたじけな)くも天照大神の御子孫として、万々世にわたり統治されてきた。この故に武将が政権を握り、天下の政務・武事を支配しているとしても、なお、朝廷に代わり万機の事を執り行っているに過ぎない」(意訳)と述べています。

同じような委任論を述べた学者に、町人学者の西川如見(一六四八~一七二四年)、また山崎闇斎門下の浅見絅斎(一六五二~一七一二年)、そして復古思想を説いた国学者の本居宣長(一七三〇~一八〇一年)などがいました。

 (二)幽谷の摂政論と徂徠の危惧

特に水戸学の立場から尊王攘夷思想を説いた藤田幽谷(一七七四~一八二六年)は、十八歳の時 に著した「正名論」の中で、国体の上から幕府政治を論じています。

「我が国は建国以来、歴代の天皇が天下を治められてきた。しかるに武家が天下の政権を担うに至って久しいが、それは時の勢いであり、にわかには変じ難い。従って現実の幕府は天皇を尊崇した上で、天皇に代わって政治を摂するものということができる」という幕府摂政論を述べています。

これは見方によれば、いずれ時が至れば天皇に政権を返上すべきであるとする大政返上論(奉還論)に通じる思想であり、他の現状是認の委任論とは一線を画するものといえます。

この幽谷の思想の根底には、水戸義公(二代藩主光圀)の『大日本史』の精神や湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」建立の事跡などがあったことはいうまでもありません。

それとは別に注目すべきは、荻生徂徠(一六六六~一七二八年)の説です。その『政談』の中で、幕府儒官の立場からその将来を危惧しています。

「天下の諸大名は、皆々将軍家の御家来であるが、官位は朝廷より綸旨(りんじ)・位記を下される故に、本心には天皇を誠の君と思っている者もある。当分は、ただ将軍の御威勢に恐れて、御家来に成っているだけであると考えているならば、世の末になった時には、安心できない」と述べています。この徂徠の憂慮の背景には、次のような思想が広まっていたからです。

例えば、尾張藩四代藩主の徳川吉通(一六八九~一七一三年)の家訓「円覚院様御伝十五箇条」に、「今日の位官は、朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、これ朝廷の臣なり。されば水戸の西山殿(光圀)は、我らが主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりとの給ひし由」とあります。これは水戸義公の伝記『桃源遺事』の記述に基づくものですが、このような考えが世上に広まっていたことを示しています。

この尊王思想は、君臣の関係を正す大義名分論ともいわれます。幕末から維新期にかけてこの大義名分論が全国の大名や家臣、一般市民の中に浸透していきます。やがて大政奉還となり、王政復古を経て、明治維新への道筋を形成していきました。

そして明治新政府による版籍奉還や廃藩置県の命令に際し、旧藩主らはすべての土地・人民を国に返納しました。世界の奇跡といわれた大改革が実行できたのは、この大義名分論が底流にあったからです。

このように、明治維新の淵源には、光格天皇の朝儀復興への使命感と御努力がありました。それは天皇としての自覚に基づき、国民への仁慈の精神と幕府に対する決然とした行動が、朝廷の権威を高め、幕府創立以来の朝廷と幕府の関係を逆転させる契機となり、その後の歴史の変転に大きな影響を及ぼしていくことなりました。

一方、士民の間には、国体の自覚による尊王思想と外国に対処するための攘夷思想が起り、それが相まって、尊王攘夷思想が盛んになってきます。水戸の学者、会沢正志斎は『新論』を著し、我が国の存亡に関わる内外の危機に対処するためには、国内を統一し、民心を統合する必要性を力説しました。その統一の象徴として朝廷への期待が高まってきたのです。

そのような歴史的展開の背景には、朝廷のご努力と士民の命懸けの救国運動があり、それが上下一体となって明治維新を生み出していったといえるでありましょう。