講談 歌で綴る日本の歩み(三) ― 日本流行歌の黎明 ―

桜林美佐防衛問題研究家

時は移ろいまして、明治二十七年(一八九四)八月。日清戦争が勃発しますが、その数年前から様々な歌が生まれていました。

日清談判破裂して      品川乗り出す吾妻(あずま)
続いて金剛 浪速(なにわ)艦  国旗堂々翻し
西郷死するも彼がため    大久保殺すも彼がため
遺恨重なるチャンチャン坊主
日本男児の村田銃      剣の切っさき味わえと
我が兵各地に進撃す     難無く支那共打ち倒し
万里の長城乗っ取って    一里半行きゃ北京城よ
城下の盟いを結ぶ      実に満足慶賀の至り
欽慕(きんぼ) 欽慕
愉快 愉快 大勝利

何という歌でしょう。これは「日清談判」とも「欣舞節」とも呼ばれています。この元になっているのは、当時流行していた「読売演歌」=「壮士流行歌」でした。口から口、人から人へ伝播していく方式で、色々な事件報道を目的とし、七五調の歌詞に節をつけて、怒鳴りながら歌ったため「演説ではなく、歌で説く」という意味で「演歌」と呼ばれました。聴衆に「自由民権思想」を浸透させることに、この「演歌」は大きな役割を果たしたのでございます。

そんな明治二十年代、日本と清国との間に幾たびかの外交上の衝突が生じます。自由民権運動の高まりとともに、清国を仮想敵国に仕立てる。そんな歌が次々に出現したのです。

「敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ」の歌い出しで知られる「敵は幾万」では、三番の歌詞に戦いの庭における日本人の精神性がよく表れているように感じます。

敗れて逃ぐるは国の恥           進みて死ぬるは身の誉れ
瓦となりて残るより          玉となりつつ碎けよや
疊の上にて死ぬ事は          武士の為すべき道ならず
(むくろ)を馬蹄(ばてい)に懸(か)けられつ  身を野晒(のざら)しになしてこそ
世にもののふの義といはめ        などて恐るる事やある
などてたゆたふ                             事やある

また、この頃の最も有名な一曲は、なんといっても「元寇」でございます。

(し)百余州を挙(こぞ)る  十万余騎の敵
国難ここに見る     弘安四年夏の頃
なんぞ怖(おそ)れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名      一喝(いっかつ)して世に示す

この頃すでに歴史上の出来事であった「元寇」を思い出し、このように人々に歌わせた背景には、清国に対する憤りの感情がありました。日本国民を怒らせることになったきっかけとも言える事件が明治十九年(一八八六)に、長崎で起きていたのです。

清国のにわか作りの海軍・北洋艦隊が日本へやって来ます。「定遠(ていえん)」「鎮遠(ちんえん)」そのほか二隻で編成される艦隊が、何の予告もなく無許可で長崎に入港したのが八月一日、まさに元寇を彷彿とさせる夏の頃でした。

「修理・補給のため」などというのは表向き、実際には日本を威嚇するための来航です。五百人もの水兵が無許可で市内に入り、集団で遊郭に入ろうとして断られ、建物をめちゃくちゃに破壊したのです。長崎県知事と清国領事との間で話し合いがもたれ事態は落ち着いたか……と思いきや、その翌日にまた三百人もの水兵らが再び長崎に繰り出し、各所で警官を刀で襲います。傍若無人の狼藉に我慢しかねた市民との間で大乱闘となり、清国水兵にも死者が出ましたが、長崎の警官や市民が殺害されました。この事件は長崎の人々の記憶に深く残ることになります。

それから五年後の明治二十四年、丁汝昌(ていじょしょう)のひきいる北洋艦隊が、再び、今度は正式に日本を訪れます。「何のために来たんだ、みせびらかしか」といった声は新聞でも連日で報じられたようですが、わが国としては歓待をします。

しかし、「定遠」などに招かれて艦内を見て回った東郷平八郎は、艦砲に洗濯物が吊るしてあるのを見つけ、どの程度の海軍なのか改めて確信したと言われております。また、同じように視察した政府の要人は、わが海軍の軍艦があまりに見劣りするということで危機感を高め、艦艇建造に予算をつぎ込むことになったといいますが、日本側にはこれに抗する軍事力もなく、先の長崎での出来事もあり、恐怖感は否(いな)めず、とにかく怒らせないように受け入れるしかなかったのです。

石光真清(いしみつまきよ)の『曠野(こうや)の花』には、当時の様子が描かれております。市民は戸を固く閉ざしてふるえあがり、一日も早く艦隊の去ることのみを祈った……と。

かくして北洋艦隊は神戸、横浜、呉などで歓迎を受けますが、最後に入港した長崎では、さすがに五年前のひどい経験から、歓迎どころか彼等が上陸したら復讐(ふくしゅう)をしてやるという声が出たのは当然のことでした。

それを見た上泉徳弥海軍少尉(当時)が、「折角、親善を標ぼうして来朝してくる者を遇する道ではない」と彼等が日本を去る際に、資金を自ら奔走して集め、長崎遊郭で大接待をしたといいます。

とにかく、これですっかり気を良くした丁汝昌は余裕綽々(しゃくしゃく)で帰国し、油断をしたに違いありません。一方で、対等に話すこともできない弱小国であることは、いかに市民生活を脅かすのか身をもって知り、怒りに震えた日本人が、日清戦争開戦を迎えるまでにそう長くはかかりませんでした。

最初にご紹介した威勢のいい歌、ちょっと過激な歌も、これらが生まれる背景にはそれなりの辛い経験があったのでございます。