山崎闇斎先生の生誕四百年を迎えて

西岡和彦國學院大學教授
略 伝

山崎闇斎先生(元和四年・一六一九~天和二年・八二)は京都の人である。母は夢の中で日吉(ひえ)の神のお告げを賜(たまわ)って彼を産んだという。つまり、闇斎先生は「日吉の神の申し子」として育てられたのである。

山崎家は代々高い教養をもって大名の木下氏に仕えてきた。闇斎先生も祖母のすすめで幼少より書物に親しみ、「三社託宣」(天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神の教誨)を通して、父からは「正直」を厳しくしつけられた。

闇斎先生は幼少より才気に溢あふれていたが、一方でわんぱく坊主でもあったという。そこで日吉の神が鎮座する比叡山の延暦寺で修行させたところ、非常な才能を発揮した。その評判を知った臨済宗の本山妙心寺は、彼を招き入れ、経蔵(きょうぞう)を管理させて絶蔵主(ぜつぞうす)と命名した。

ある日、土佐領主山内氏の菩提寺吸江寺(ぎゅうこうじ)の継承者候補を探すため、家老の野中兼山(けんざん)が訪ねてきた。そこで一人の聡明な青年僧を見出す。それが闇斎先生であった。当時、土佐には「南学(なんがく)」と称す谷時中(じちゅう)らによる朱子学の研究会があった。闇斎先生は兼山の紹介で入会すると、たちまち頭角を現し、誰もが彼の禅僧であることを惜しんだという。

禅僧は開悟(かいご)のため出家し、坐禅ばかりでなく、日常生活すべてを修行とする。出家とは、単に隠遁(いんとん)して僧侶になることではない。字の如く、親子兄弟を捨てて家を出ることである。煩悩(ぼんのう)を去るために、この非情さに耐えなくては、「身心脱落(しんしんだつらく)」(道元禅師『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』)、すなわち開悟などできるものではないからである。

それに対し、朱子学では仏教で言う俗世間での行いを重んじる。そのため、家族を捨てる行為は「不孝」に当たり、道に反する行為であると教えた。しかも、朱子学とは「聖人の道」を講ずる学問である。それは道義、すなわち正しい人としての生き方を体得することを目的とした。

闇斎先生は朱子学を学ぶ中で、次第に自身の立場が不安になってきた。その時、実家から祖母の危篤が伝えられた。闇斎先生が非常な才能を発揮するきっかけを作ってくれたのは、祖母である。その祖母を看取ることも許されない出家の身に、闇斎先生は疑念を感じたに相違ない。

ひとり思い悩む闇斎先生を見た兼山は、自身の立場を省みず、彼を強引に還俗(げんぞく)させ、護衛の侍を付けて帰京させた。兼山には先見の明があったからである。

その後の闇斎先生の活躍はめざましく、幕府の寺社奉行井上正利の師となり、さらに四代将軍家綱の後見役であった会津領主保科正之の賓師(ひんし)(仕官はせず待遇は家老並み)にまで上りつめ、天下にその名を知らぬ者のない大儒になった。そればかりか、従来の神道説を集大成した垂加神道(すいかしんとう)を通して、神代(かみよ)から続くわが国の名分(めいぶん)、すなわち国体を明らかにし、日本人としての生きる道、日本人の名分を正されたのである。

山崎闇斎先生座像と伊藤善韶

山崎家は播磨国宍粟(しそう)郡山崎村、現在の兵庫県宍粟市山崎町の出で、大名の木下氏に仕えると、同氏とともに移転し、父浄因(じょういん)の代で京都に移った。よって闇斎先生自身は山崎村の出身ではない。だが、地元では昭和十五年、皇紀二千六百年を記念して闇斎神社が建てられ、いまも市民から闇斎先生は顕彰されている。

その境内に、ひときわ目立つ「山崎闇斎先生祖考(そこう)之碑」(明治神宮宮司有馬良橘(りょうきつ)海軍大将書、碑陰(ひいん)内田周平翁記)がある。祖考とは祖父浄泉を指す。碑陰によると「山崎神社」創建のため、京都下御霊(しもごりょう)神社の垂加社より旧邸内跡に遷座したとある。

 闇斎神社から少し離れたところに市立図書館がある。その二階の山崎歴史郷土館には、歴史小説家の吉川英治氏から昭和三十八年(文化勲章受章の年)に寄贈された、木造の「山崎闇斎先生座像」(宍粟市指定文化財)が、ガラスケースの中に展示されている。これは箱書きによると、「伊藤善韶(よしつぐ)先生遺愛」の品であったとある。

伊藤善韶(享保十五年・一七三〇~文化元年・一八〇四)とは、伊藤仁斎の長男東涯(とうがい)の三男(二人の兄は早世)で、善韶は諱(いみな)、東所(とうしょ)と号した。彼は七歳の時に父東涯を失うが、叔父の蘭嵎(らんぐう)が後見人となって彼を育てた。その甲斐もあって、祖父仁斎が開いた塾「古義堂(こぎどう)」を継承している。

古義堂は京都の堀川べりにあり、その対岸(西側)に闇斎先生の邸宅(葭屋町通下立売上(よしやまちどおりしもたちうりあが)ル)があった。善韶がいた頃は、まだ闇斎邸は残っており、安芸国竹原の垂加神道家唐崎士愛 (ことちか)がそれを買い戻し、崎門学のセンターにする計画を立てていた頃と同時代である。よって、学問を異にするといえども、彼は闇斎邸を眺めては闇斎先生に一種の憧れを抱いていたのかもしれない。

次に、その仮説の傍証となる事例を二点あげてみよう。

伊藤梅宇の闇斎観

一点目が仁斎の次男、梅宇(ばいう)の随筆『見聞談叢』に見える闇斎の評価である。

そのなかに、「本朝(わが国)学風の一洗(いっせん)して堅き経学(けいがく)になれるは闇斎の功なり」「闇斎以来の学者、徒然草などを个様(かよう)に熟読して詮議(せんぎ)するようなるちょろき事はなし」とある。

すなわち、藤原惺窩(せいか)や林羅山などの頃は博覧強記を自慢するため、経書以外の書をも熟読玩味したが、闇斎先生がそうした学風を一掃してからは、そのようななまぬるいことはなくなった、と評価しているのである。

また、闇斎邸が堀川の対岸にあったことについて、「闇斎の宅と先人(仁斎)の家と漸(ようや)く河を一つ隔てあり。闇斎の死去は先人の逝(ゆき)したもうより二十余年前なるか(仁斎は宝永二年・一七〇五歿)。闇斎老人になれる刻(とき)、先子(仁斎) 甚(はなはだ)しく道を唱えたもう。闇斎、佐藤(直方)・浅見(絅斎)の二人へ言えるは、源佐(仁斎の通称)は文に骨を折り秀(ひい)でたる故、両人ともに源佐へ問にゆきて文学の筋を聞けとありて、両人とも、一年余も見えける」と伝えている。

ここは、儒学における堅実な学風を築いた闇斎先生が、父仁斎を高く評価したことを、梅宇が誇りに感じていたことを物語っているといえよう。

伊藤蘭嵎の気性

傍証の二点目は、江戸時代の儒学者伝記集『先哲叢談(せんてつそうだん)』が語る蘭嵎の人物像である。仁斎には男子が五人おり、蘭嵎は末弟であったが、長兄東涯とならんで最も有名であったとある。

ある日、紀伊領主徳川氏の前で初めて聖賢の書を講義するに際し、彼は一向に講義を始めようとしない。誰もが不安を覚えたとき、ひとり徳川氏が敷物の上に座しているのを見て、それでは「聖人の書を講ずべからず」と注意した。すぐさま敷物を取らせると、ようやく講義を始めたとある。その講義は、「音吐(おんと)朗暢(ろうちょう)、弁論(べんろん)明備(めいび)なり。座者皆嘆賞(たんしょう) して曰(いわ)く、真の儒者なり」と伝えている。これは仁斎ではなく、あきらかに闇斎先生に近い姿である。

『先哲叢談』は、闇斎先生の講義の様子も伝えているが、それは「天性峭厳(しょうげん)、師弟の間、(げん)として君臣の如し。教を受くる者、貴卿(きけい)巨子(きょし)と雖(いえど)もこれを眼底に置かず。その書を講ずるや、音吐、鐘の如く、面容(めんよう)怒るが如し。聴徒(ちょうと)凜然 (りんぜん)として敢(あえ)て仰ぎ見ることなし」とある。すなわち、闇斎先生も師弟関係は君臣関係のように厳格で、たとえ受講生に身分の高い者がいようとも構わず堂々と講義し、その凄(すご)みにおびえて誰一人として顔を上げて受講する者は無かったという。

一方、同書によると、仁斎は激論が交わされる場にあっても、終始「坦夷(たんい)温厚(おんこう)」、すなわち穏やかで落ち着いていたという。それは長兄であり善韶の父である東涯も同じく「温厚の長者」で、博識さは荻生徂徠(おぎゅうそらい)なみだが、「性は謙譲に過ぎて智は施設に乏し。学は衆美を包(か)ねて、才は教誨 (きょうかい)に短なり」とある。すなわち、謙遜するあまり自著が少なく、優れた研究はするが、人の道を教え諭(さと)すことにおいては消極的であったという。つまり、「聖人の書を講ず」る神聖な場において不正があったとしても、蘭嵎のようにすぐさま正させたり、教え諭したりするようなことはなかったのであろう。

そうすると伊藤家にあって蘭嵎は、いかにも珍しい気性であり、道学者(どうがくしゃ)(ぜん)としていたことがわかる。その蘭嵎に幼少から師事した善韶が、闇斎先生座像を所持していたとは、はなはだ興味深いことである。

伊藤善韶の闇斎先生像銘文

その木造座像の背中には、善韶の銘が記されている。それを直接拝見することは叶(かな)わなかったが、幸いにも闇斎神社にそれを模した銅像があり、その石台にその銘が記されている。読点を付して左に示そう。__

「略伝、播州宍粟郡山崎村人、京師移住、初妙心寺僧也、絶蔵主云、後土佐住、谷時中学、爰至髪復儒成、故土佐去、又京師住、晩年神道帰、
余、深愛此像、
伊藤善韶所蔵」

略伝の最後に、闇斎先生はまた京師(けいし)(京都)に住み、晩年は神道に帰す、とある。ここに神道家の闇斎先生を批判する様子は見えない。それどころか善韶は、この像を深く愛す、と記して筆をおいている。

実際、この闇斎先生像には、『先哲叢談』が伝えるような厳格さよりも優しさがみなぎっている。この慈愛に満ちた表情に、彼は惜しみなく敬愛の念を抱いたのではないだろうか。

高弟浅見絅斎と闇斎先生

闇斎先生の高弟(こうてい)は数多く、幕府天文方(てんもんかた)の渋川春海(はるみ)、土佐の郷士谷秦山(じんざん)、下御霊神社累代の社家出雲路(いずもじ)信直など枚挙に暇(いとま)ないが、やはり浅見絅斎(けいさい)を第一にあげるべきであろう。

絅斎はある複数の問題が原因で闇斎先生と絶交したが、その後血涙(けつるい)を流して反省し、残りの生涯を闇斎先生の「落ち穂拾い」に徹した処士である。それを受け継いだのが若林強斎。彼の塾、望楠軒(ぼうなんけん)は幕末まで続き、その塾から天皇の侍講(じこう)や京都学習院の講師など数多くの俊秀を輩出し、幅広い分野に闇斎先生の精神を伝えた。

元禄十二年(一六九九)、江戸の多田亀運(きうん)という儒者が絅斎を訪ねた。その時の絅斎語録が「浅見先生学談」である。絅斎は当時四十八歳、『靖献遺言(せいけんいげん)』を著し、闇斎先生の学問を継承するに相応(ふさわ)しい人物になっていた。

亀運が訪ねた六月、絅斎は四日に妻を亡くしていた。にもかかわらず、「聖人の道を示し、学問の心を説き教えたもう」たのは、亀運の学問に対する真剣な姿勢に感じ入ったからである。語録には、闇斎先生のことが多く語られていることから、亀運は絅斎を通じて闇斎先生の学問の神髄をうかがうために訪ねたのかもしれない。それを承知の上で絅斎は、次のように語った。

(闇斎先生は)「道は近く教え、近く心に知るでなければ、道とは言われぬぞ。聖人の意味気象を知らねば、学問とは言われぬぞ」(と教えた。だが)それを知った者は異国にも少なし。日本にはなお開闢(かいびゃく)よりこのかた無いぞ。山崎嘉右衛門殿ならでは無いぞ。それで聖人をよう知った名誉な人ぞ。(闇斎先生の)常々のたまう処、ただ右の意ぞ。 (近藤啓吾・金本正孝編『浅見絅斎集』)

「山崎嘉右衛門殿」とは山崎闇斎先生のことである。「聖人の意味気象」とは、聖人の真意や立ち居振る舞いや息づかいをさすのであろう。闇斎先生はそこまで知らなければ学問とはいえない、と考えたのである。ただし、そこまで知った者は聖人が生まれ育った支那でも少なく、ましてわが国では天地開闢以来、すなわちわが国誕生以来、闇斎先生お一人である、と絅斎はいう。

その「聖人の意味気象を知る」とは、聖人の言葉を正確に訳すだけの訓詁(くんこ)学を意味するのではない。聖人の心奥(しんおう)、すなわち精神を明らかにし、それを体得実践することにあるといえよう。闇斎先生が、常日頃から「道は近く教え、近く心に知るでなければ、道とは言われぬぞ」と語っていたのも、そこが眼目だからである。

つまり、聖人の道は時に高尚ではあるが、それを高尚なまま教えたのならば、初学者は実感できず、とうてい体得することはできない。たとえ高尚な教えといえども、身近なことから噛み砕いて教えてこそ、実感できるのであり、さらにその教えを体得実践する道が開けるのである。

知行合一

また、いかに博識であっても正しい行動ができなければ、その知識は何一つ得たことにならない。中でも出処進退(しゅっしょしんたい)を誤らない生き方ができるようになって、初めて学問が身につき、道を修得することができた、と言えるのである。林羅山は博覧強記を誇ったが、幕府に仕えるため髪を剃り法体(ほったい)になった。それを厳しく批判したのが、中江藤樹と闇斎先生である。「知行合一(ちこうごういつ)」とは、朱子学にも陽明学にもある教えである。ただし、「心即理(しんそくり)」といって、思いついたら見境無く行動に走ることではない。北宋の大儒程明道(ていめいどう) は、「慷慨(こうがい)して死に赴くは易(やす)く、従容(しょうよう)に義に就くは難(かた)し」(『靖献遺言』謝枋得(しゃぼうとく))と注意した。すなわち、激昂(げきこう)して死ぬことは容易だが、冷静にして正しい行いをすることはさらに難しいことなのである。闇斎先生の「敬(つつしみ)」の教えもそこにある。

すなわち、「敬」とは、いつどこにいても、また自分がどの立場にあり、どの状態にあったとしても、言動の選択を誤らず、かつ日本人として正しく生きることを、常日頃から意識し、それを体得することを目的とした修養を意味したのである。

日本人の名分

では、日本人として正しく生きる、とはどういったことなのか。絅斎は次のように説明する。

(闇斎先生は)「学問は名分(めいぶん)がたたねば君臣の大義(たいぎ)を失う」とのたまうぞ。この意を世人に知らせんと思うて、俺(絅斎)が『靖献遺言』の書を著し出したぞ。この書をよく見よ、聖人の大道、嘉右衛門殿の心、この書にあり。
(中略)日本に生まれて今太平の時に逢(お)うて、上(かみ)の御恩で心安く居り、生命を養う。異国の贔屓(ひいき)するは大きな異端。今でも異国の君命(くんめい)を蒙(こうむ)りて孔子・朱子の日本を攻めに来(きた)らんには、吾まず先へ進んで、鉄砲を以て孔子・朱子の首を打ちひしぐべし。道が尊きとて、異国人へ降参し、あるいはその家臣となるは、大いなる不忠者ぞ。ここが君臣の大義と云うものぞ。『靖献遺言』、ただこの意を述ぶるぞ。
(中略)孔子・朱子を鉄砲で撃ち殺すが、孔子・朱子の喜びたもう処ぞ。尊信して従いつかば、却って不忠と思いたもうべきぞ。

「名分」とは、君は君である道理を体得しなければ、君としての本分を尽くそうとしてもできないし、臣も臣である道理を体得しなければ、臣としての本分を尽くそうとしてもできるものではない。そのことをいう。その名分が明らかになって、初めて君臣の大義が現れる。しかし、それだけでは俗儒(ぞくじゅ)(一般の儒者)とあまり大差がない。それに加えて日本人である、という名分が加わって、初めて闇斎先生の学問になるのである。

義勇

『先哲叢談』には、孔子と孟子が大将・副将となってわが国を攻めてきたらどうするのかとあり、「学談」では孟子ではなく朱子とあるが、いずれにせよ道学者にとって神様以上の方々であることに違いない。その神様以上の方々がわが母国を攻めてきた時にとる行動に、常日頃から学問を正しく体得してきたか否か、すなわちその人の真価が問われるのである。

泰平の世にそのようなことはあり得ない、と言って世間では闇斎先生の質問を嘲笑(あざわら)うが、果たして馬鹿にしてよいものであろうか。世の中には起こりえないことが起こりうる。それが現実であることは、繰り返し歴史が明らかにしてきた。「一旦緩急(かんきゅう)あれば義勇(ぎゆう) (こう)に奉ず」(「教育勅語」)ることができるのか、すなわち激昂するのではなく、冷静にしてかつ正しい道に則った勇気をもって、敵から母国を守り、かつ不正から身を守ることができるのか、それが問われているのである。

だが、平素の読書だけでそうした行動に移せるのか、と言えば、それは極めて難しい。実際、南宋の大儒真西山(しんせいざん)(徳秀(とくしゅう))ですら大義無く即位した理宗(りそう)皇帝に仕えるという過ちを犯していたからである。絅斎は『靖献遺言講義』でそれを批判し、『論語師説』(顔淵第十二)でも、

名分というが孔子の教、春秋の道ぞ。聖人の吟味は、道を尽すなれども、なんであろうとも、そでない者がする筈(はず)でないという。ここが一つの目当ての処、「遺言(いげん)」(『靖献遺言』)に載せる真西山の吟味それぞ。理宗は何であろうと天下を盗んだものぞ。 (木南卓一『論語集注私新抄』)

と指摘したのである。

闇斎先生の真面目

闇斎先生は門人等を驚かすために先の質問をしたのではない。大義名分とは何か、それをしっかり考えさせることで、彼らの学問姿勢を根本から矯正し、日本人の道義を体得させるために行ったのである。その点に気付かなければ、経書(けいしょ)はかえってわが国に害毒をもたらすものになろう。

闇斎先生は平素より名分の大切さを意識させ、わが国の将来において誤った選択がなされないよう注意した。だからこそ、国体を明らかにするべく、神代からわが国の歴史を精査し、神道を徹底的に研究したのである。それが垂加神道であり、闇斎先生の真面目(しんめんもく)、すなわち精神なのであった。