年号の意義― 日本は天皇を中心として、全国民が一つに結ばれている ―

平 泉  澄
文学博士

本日は、天皇陛下御生誕のお目出たい日、即ち天長節であります。皆様とご一緒にお喜び申し上げますと共に、この機会において講演させていただきますことは、私の光栄とする所であります。

先づ第一に、不思議な物をお目にかけます。これはイギリスの古文書でありますが、材質は紙ではありませぬ。羊の皮であります。羊皮紙といふ名は、皆さんご承知でありませうし、書物の表紙に用ゐた物は、見られた方もありませうが、これは契約の文書として使用した物であります。かういふ契約文書を、インデンチュア(Indenture)といひます。仮りに訳すれは、歯型または鋸型証書となりませうか。元は一枚の羊皮ですが、その左右に同文の契約を一通ずつ記入し、それを中央で切断するに当つて、直線に切らずに、ジグザグに切ります。従つて切口は、歯型になり、鋸状になります。問題が起れば、二通の切口を合わせて見ればよろしい。偽造した物では、切口が合ひませぬ。つまり巧妙なる割符(わりふ)であります。かやうな契約証書を、今より四十数年前に、イギリスで数多く見まして、そのうちの幾点かを買ひ求めて、持ち帰りました。

これがその一つでありますが、ご覧下さい。切口がジグザグと、大きく波打つてゐるでせう。また下に封蝋(ふうろう)があつて、その上に印が押してあるでせう。いづれも偽作を防ぐ有力なる方法であります。ところで、その年月を記す所を見ますと、どれもどれも、「この契約書は、イギリス王治世の何年、即ちキリスト紀元何年に作成せられた物である」と記されてをります。

今その一通をあげますと、これはキリスト紀元一六九二年の物でありますから、我が国では東山天皇の元禄五年に当ります。将軍は徳川綱吉、あたかもこの元禄五年に、水戸の義公(光圀)が、湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てられたことは、どなたもご承知のことであります。その元禄五年に当る西暦一六九二年に作られた契約証書インデンチュアに、年月日をどう記してあるかといひますと、神の恩寵(おんちょう)によつて最高至上の国王及び女王としてイングランド・スコットランド・アイルランドを統合し給ふウイリアム及びメアリー両陛下治世の第四年、即ちキリスト紀元一六九二年の十一月九日に之を契約し証書を作る。と書いてあるのであります。これは当時イギリスでも特異の事情がありまして、ウイリアムは初め国王としては迎へられず、主権者はジェームス王の王女メアリーであるとされましたが、ウイリアムは摂政となることを拒み、メアリーは夫君と一緒でなければ王位にはつかぬと主張せられたために、御夫婦そろつて国王といふことになりましたので、「ウイリアム及びメアリー両陛下治世の何年」といふ表現が用ゐられたのであります。ともかくも、国王の治世によつて年を規制して、王の何年といひ、国王が年代の基準になつてゐる点を御注意下さい。

西洋から転じて、次に東洋を見ませう。我々の先祖が、好んで読みました漢籍は、四書五経であります。その四書五経のうち、歴史書としては『春秋』であります。その『春秋』の解説として重要なものは、『左伝』(『春秋左氏伝』)であります。『左伝』は実に興味のある記事が満載せられてゐまして、読み出せば途中で止められない書物であります。その『春秋』、或いは『左伝』の記事は、「元年春王正月」といふ書き出しであります。元年は魯(ろ)の隠公(いんこう)の元年であります。もともと『春秋』は、魯の記録であります。当時の勢ひ、周の天下には違ひありませぬが、周の統括力衰へて、諸大名の勢力が強くなつてゐました。魯はそれら諸大名の一つであります。その魯の歴史を整理したものが『春秋』、それを解説したものが『左伝』であります。隠公の代から書き起して、隠公の元年(これは西暦紀元前七二二年に当るといひます)。次に「春」とある、これは春夏秋冬の春でありますから、天地自然の運行、政治とは離れたものであります。次に「王の正月」とあります。王は周の天下でありますから、周の王であります。

正月は春と同じく天地自然の運行によつて決まつてゐて、政治とは無関係であると思はれるかも知れませぬが、さうではありませぬ。一年の中の、どこを年の始めとし、正月とするかは、これは君主の大権に属する事であります。君主が替はり、国が違ひますと、正月が変更されるのであります。支那においては、夏(か)、殷(いん)、周、秦、漢といふ風に国が替りました。その夏の代には、後世の正月と同じでありましたが、殷になりますと、十二月を正月とし、周になつては十一月を正月としました。更に秦になりますと、『史記』の始皇本紀二十六年の条に、「年の始を改め、朝賀皆十月朔(さく)を用(もち)ふ」とあります。即ち十月を以て正月としたのであります。秦に取つて替つた漢の高祖は、やはり秦にならつて十月を以て歳首としてゐましたが、武帝の代になつて、暦を改めて一月を以て歳首としたと『史記』に見えてゐます。

昼が夜になり、夜明けて昼となるは、これは自然の現象であります。春が夏となり、秋が冬となるのも自然の法則であります。それは人力を以て如何ともすることの出来ない所であります。しかし一年の中の何時を一年の始めとし、正月元日とするかは、これは自然の決定では無く、人の世の定めであります。しかし誰でも勝手に決める事は出来ず、必ず君主の大権によつて決定し規制されるのであります。

以上、年を紀しますに、国王の治世によつて数へ、年の始めを決めますのに、国王の指示決定によつた事、西洋においても、東洋においても、昔から同様であつた事を述べました。

年号の初め――日本は「大化」

ところが、国王の何年と書く代りに、それを簡略にして、国王の定められた年号を用ゐる事が、便利な方法として行はれるやうになりました。その年号の初めて定められたのは、支那では漢の武帝の建元元年であります。西暦では紀元前一四〇年に当ります。漢の武帝の前にも、後元とか、中元とか、いはば年号に類似し、それを暗示するやうなものがありましたが、明白に年号の初めといつてよいものは、建元元年であります。ところが武帝は、建元を六年続けて、七年目に元光元年と改め、その元光が六年続いて、七年目に元朔と改め、次に元朔が六年、元狩が六年、元鼎が六年、元封が六年、そのあとは、太初が四年、天漢が四年、泰始が四年、征和が四年、次に後元が一年、これを以て武帝の治世が終るのでありますが、年号は十一の多数に上り、その初めの六つは六年づつ、終りの四つは四年づつで、それぞれ翌年の改元となつてゐます。

日本で年号が用ゐられましたのは、孝徳天皇の御代で、有名な「大化」といふ年号が、我が国最初のものであります。大化元年は、西暦六四五年になります。しかしその後、年号を用ゐられなかつた時もありますので、連綿として年号が用ゐられるやうになつたのは、文武天皇の「大宝」以来の事であります。大宝元年は西暦七〇一年でありますから、それよりこのかた今に至るまで、一千二百七十余年間、連綿と年号が続いて、中絶することは無かつたのであります。

ところが年号はまこと便利でありますが、数が多くなりますと、記憶も容易でありませぬ。漢の武帝一代の年号十余り、我が国では後醍醐天皇御一代の年号八つに上り、覚えるのに苦労をします。もつとも大抵代表的なものを採りまして、御一代を表現する例であります。たとへば、醍醐天皇の御代に、昌泰、延喜、延長と年号が三つありますが、延喜を代表的なものとして、醍醐天皇を延喜の御門(みかど)と申し上げ、村上天皇の御代に、天暦、天徳、応和、康保と、年号が四つありますが、天暦で全体を統括しまして、天暦の御門と申上げるならはしであります。

天皇御一代に一つの年号とす

そこで一歩を進めて、天皇御一代に年号を一つだけにするやうに改められましたのが、明治天皇の御英断であります。明治元年に岩倉具視が之を発議しますや、議定(ぎじょう)も参与も皆賛同しましたので、これを上奏して勅裁を経、一世一元の制を定められました。

明治といふ年号は、議定・松平慶永(春嶽)が勅命を蒙つて菅原家の勘文(かんもん)の中より佳い文字を選んで、天皇の御参考に供しましたところ、天皇はその中より明治の二字を御採用になつたといふことであります。かやうにして、慶応四年(一八六八)九月八日、年号を明治と改め、天皇御一代の間、この年号を続けて改められず、天皇崩御遊ばされ、大正天皇後を御継ぎになりますと、大正と改まり、次に今上陛下御継ぎになりますと、昭和と御改めになりましたこと、どなたもご承知の通りであります。

これは実に名案であり、明断でありまして、年号の立てかたが、君主の大権によるものである事も明らかになれは、君主の御諡(おくりな)と年号とが一致して、記憶にも極めて都合がよく、本義と便益との両面ならび立つて、鮮やかであります。

西暦に統一することの問題点

しかるに世間には、年号を過去の因襲に過ぎないものと考へて、この際それから離脱して、一気に西暦に統一してしまふのが進歩的であり、世界的であるとする意見があり、そして手紙にも西暦を書き、暦や日記帳にも、年号はやめて、西暦ばかり印刷してゐるものが段々出てゐます。

これは一面からいへば、西暦の本質を知らず、他面からいへば、世界の実情を知らないものといはねばなりませぬ。先づ西暦の本質は何かといひますに、名は我が国では西暦と称してゐますものの、実はキリストの降誕を記念して、それを元年として数へるのでありますから、キリスト教信者にとつては意味がありますが、キリスト教の信者で無い人には意味が無く、もしこれを強制すれば、信教の自由を拘束することになる筈であります。

且つまたキリストの生誕が果して紀元元年であつたかといひますと、実は違ふというのであります。元はキリストの生誕を元年と決めたのでありますが、段々と調べてゆくと違つてゐたといふので、いろいろの説が出てゐます。即ち、ある人は、紀元前二年といひ、ある人は紀元前四年とし、又五年とし、六年とし、七年とし、諸説紛々たる有様で、決定しかねるのであります。

次に世界には、キリスト教以外に、宗教がいろいろあります。仏教、ユダヤ教、回教(イスラム教)等が有力でせう。仏教では、釈迦の入滅を紀元とし、仏滅何年とかぞへます。回教ではヘヂラ紀元を用ゐます。ヘヂラ紀元では、今年、昭和五十年は、千三百五十四年であります。ユダヤ紀元では、五千七百三十四年であります。フリーメーソン紀元では、五千九百七十五年であります。世界はキリスト教一つにまとまつてゐるので無く、紀元はキリスト紀元一つに統一せられてゐるのではありませぬ。

紀元のみに止まりませぬ。正月もさうです。私は昭和五年の夏から秋へかけて、ベルリンに滞在してゐました。たまたま九月二十二日、意外な風景を見ました。人々多く礼装して、店は多く閉ざされてゐます。人々は仕事をせず、ベンチに腰掛けてのんびりしてゐます。今日は何かお祭りですかと尋ねましたところ、いや今日はユダヤ暦の大晦日ですと答へてくれました。九月二十二日が大晦日で、一夜あければ正月元日だといふのであります。前に申しましたやうに、正月の立てかた、国によつて違ひます。

秦では十月、周では十一月、殷では十二月、夏では一月。そして漢は、初めは十月を歳首とし、武帝の代に改めて一月を歳首としたのでありました。それは昔の事でありますが、今日もユダヤの人々は、九月を歳首としてゐるのであります。そして紀元をかぞへては、五千七百三十四年といふのであります。それは、ひとりベルリンに限りませぬ。パリでも、ニューヨークでも、ユダヤの人々は、自らの紀元、自らの暦日を固守してゐるのであります。

ここにおいて、いはゆる西暦が、どういふ性質のものであるか、お分りいただけたと思ひます。それは今日、世界の交流の上に便利であり、参考として使用してよろしい。しかし基本とすべきは年号であります。年の立てかた、暦日の決定、それは昔から、どの国でも、君主の大権に属する事であります。日本国の秩序は、これよつて立ち、これによつて保たれてゐるのであります。我々はこれを大切にしなければなりませぬ。これを破り、これを棄てる時、日本国の秩序は乱れ、歴史は破られるのであります。皆さん、昭和の年号を大切にして下さい。それは実は秩序の根本を守る事に外ならぬのであります。

次に明日の問題に移ります。昭和は只今五十年、即ち今上天皇の御治世は、すでに五十年続きました。まことにお目出たく、うれしい事であります。我々は、それがもつと続いて、昭和六十年となり、昭和八十年となり、昭和百年となる事を希望いたします。しかし、それは実際は容易でありますまい。永久に昭和が続くことは不可能でありませう。従つて、やがては皇太子殿下が御代を御継ぎになりませう。問題はその時、すぐに新しい年号をお立て願ふやう、今から準備しておかなければならない、その準備はよいのか、といふ点にあります。

 明治三十年に、二十九歳にして日本に来り、その国勢の見事に伸びゆく姿を見た印度の哲人ヴィヴエーカーナンダ(一八六三~一九〇二年)は、帰国の後、印度の人々が、「印度も亦日本の如くに興隆する事が出来ませうか」と尋ねたのに答へて、「それは不可能でせう、日本は天皇を中心として、全国民が一つに結ばれてゐます。これに反して印度では、人々テンデンバラバラであつて、一致結束してゐない、印度が日本のやうに興隆しようとしても、それは無理でせう」と答へたといひます。

正にその通り、明治の興隆は、当時の国民三千数百万人が、上御一人、明治天皇を仰ぎまつり、天皇を中心として、全国民が手をつないで進み、勤倹努力した結果であります。我々も亦その偉大なる先例にならひ、天皇の大権の下に一致団結しようではありませぬか。

( 昭和五十年四月二十九日、天皇陛下御誕生日と御即位五十年奉祝会に際して福井県民会館での講演)