楠公を祭る ― 大楠公六百年記念(昭和十年) ― 建武中興、第一の功臣 ―

平 泉  澄
文学博士

本日、大楠公(楠木正成)の六百年祭記念講演会に当りまして、この壇上に立つ機会を与へられましたことは、私のまことに光栄とする所であります。

楠公は言ふまでもなく建武中興第一の功臣であります。建武中興の事が出来ましたのは、全くこの楠公お一人の力と申しても過言ではないのであります。後醍醐天皇の幕府討伐、王政復古の御計画は、従来一般にいはれて居りましたよりは遥かに深刻なる御計画であり、深遠なる大理想を以て、多年にわたる御苦心の結果、あの大業が為されたのであります。

今簡単にその一点を申しますれば、後醍醐天皇が御践祚(せんそ)遊ばされましたその日において、その第一皇子護良(もりよし)親王を出家せしめられたといふことは、この時既に後醍醐天皇に重大なる御決意のあつたことを示すものであります。御践祚の時、既に非常な御決意を以て王政復古の第一歩を踏み出されたことと思はれます。それが度々失敗に終はりました。

第一回の御事挙げは正中元年(一三二四)でありますが、文保二年(一三一八)の御践祚の日より正中元年まで、正しく七年の歳月が流れて居ります。七年にわたる御苦心の結果、第一の御事挙げとなりましたのが、ご承知の通り失敗に終つて居る。正中二年より数へて七年目が、丁度、元弘元年(一三三一)に当つて居り、この時、第二回の御旗上げとなりましたが、これ亦失敗に終はりました。元弘二年における情勢を見ると、後醍醐天皇御自身は隠岐へ流されておしまひになり、天皇の帷幄(いあく)の重臣は殆ど全部殺されて居ります。日野資朝(すけとも)、日野俊基、烏丸(からすま)成輔、北畠具行、これといふ程の人は数を尽して殺されて居り、御践祚以来十余年の御苦心はここに至つて全く水泡に帰して、王政復古のことは再び企つべからざる有り様であつたのであります。

大業遂に頓挫して我が国は永久に幕府の逆威に依つて抑へられ、真に天日を仰ぐ機会はないかと思はれました時に、元弘二年の暮、大勢悉く非なる時において、独り義旗を翻(ひるがえ)して立たれましたのが大楠公、楠木正成であつて、千早の小城に拠つて全国に群がる賊軍を相手として、元弘二年の十一月より元弘三年の五月に至るまで半年の間、見事に賊軍と戦つて少しも屈しない。当時の記録を見ますと、しばしば楠公の勝たれたことが記されてあります。無論僅かの小勢であつて、直ちに大勢を決するに至らないまでも、幾十倍の大敵を引き受けて半年の間支へて少しも屈しない。屈しないばかりでなく、千早におきましてはしばしば勝つて居られるのであります。

この楠公が全国の賊軍を引き受けて半年の間戦つて少しも屈せられなかつたことが、やがて全国の義軍を奮起せしめる機会を与へたのでありまして、建武中興の成りましたのは、後醍醐天皇の御稜威(みいつ)に依ること申すまでもありませぬ。また大塔宮(おおとうのみや)護良親王の御力に依ること甚だ大きいのでありますが、臣下において人を求めるならば楠公その人を以て第一に推すべきであります。これは昔より歴史家の間におきまして議論一定して、未だ曽て異説を見ない所であります。

楠公の智略、勇気は大義に基く

(しか)しここに吾々の考へなければならぬことは、一人の力を以て全国を敵として半年を支へ得たその智略、その勇気に驚くと同時に、かくの如き智略、かくの如き勇気の由(よ)つて出づる所を明かにしなければならぬことであります。かくの如き智勇は何処から出て来るのであるか。これは全く道を守ることの厚き、道を知ることの明かなる、その一点より出て来るのである。楠公の智略、楠公の勇気の基く所は大義にあるのであります。それあつてこそ、初めて全国を敵として少しも屈することなく、半年の長き間、孤城を守つて少しも自ら疑ふ所がなかつたのであります。この楠公の勇気、智略の基く所が大義にあるといふことは、建武中興の成りました後の論功行賞の際において明瞭に現れて居ります。

当時、楠公が千早の孤城に拠つて半年の間、幕軍を悩まされるのを見て、天下の武士は初めて幕府に疑ひを持ち、恐らくこれは王政復古の時期が来たのではないかといふ考へから、遽(にわか)に官軍になりました者が多いのでありましたが、それ等の輩におきましては、建武中興の事成ると同時に、猛烈なる恩賞の運動を試みて居ります。自分は斯々(かくかく)の手柄を致しました、これだけの働きを致しました、どうかこれに対して十分の恩賞を賜りたい。これが、当時の武士の猛烈なる運動であつたのであります。

然るに楠公はどうであつたか。楠公は何人が見ましても建武中興第一の功臣であり、その功勲赫々(かくかく)たるものがあるに拘はらず、論功行賞の日におきましては真先に進み出て陛下に奏上して曰く、「この度中興の大業が成就したにつきましては、功労のあります者は多々ございますけれども、何れも生き長らへて居る者ばかりであります。真に陛下の御為に命を捧げました者は肥後の菊池武時入道であります。どうぞこの武時入道を以て、第一位の功労者として十分の恩賞を賜はりたうございます」。これが、楠公の切に後醍醐天皇に御願ひされた所であります。この言葉の中に、楠公が僅かの小城に拠つて全国を敵として少しも屈しない精神が、はつきり窺ふことが出来るのであります。楠公の起たれたのは功名手柄の為ではない。己(おのれ)の家を起さんが為ではない。唯一途(いちず)に陛下の為に起たれたのであつて、自分自身、自分一家がどうならうとも問題ではない。ここに楠公のあの驚くべき勇気、尽くる所なき智略が出て来るのであります。

大西郷の精神は大楠公に通じる

これにつきまして想ひ起しますのは、大西郷(西郷隆盛)であります。大西郷の末路の惜しむべきは今しばらく之を論ぜず、その非常に偉大なる人物でありましたことは天下周知のことであります。併しこの大西郷につきまして、それほど世間に知られて居ない事柄であつて、私共のこれを読んで実に涙なき能(あた)はないものが幾つかあります。例へば大西郷は橋本左内先生と肝胆相照らした知己であります。その橋本先生の手紙が、大西郷が城山において自害された後に、その遺骸の傍らに残されて居りました鞄の中から発見されたことがある。橋本先生は安政六年(一八五九)の十月七日に二十六歳を以て殺された人である。大西郷のなくなりました明治十年(一八七七)までには十八年の歳月が流れて居ります。十八年前に亡くなつた友達の手紙を、十八年後に至るまで絶えず身辺から離さず持つて居り、ただ身辺身を離さずにこれを持つて居るといふに止まらず、非常な窮境に陥つて腹を切らなければならないといふ時まで、なほこれを手離さなかつた。天下何れの処にか、その知己に対する友情の懇篤なる大西郷のごとき者があるか。この一事を見て、大西郷の為に薩隅の青年が喜んで命を投げ捨てたことの偶然でないことを見るのであります。

また、大西郷についてなほ言ふならば、水戸の武田耕雲斎が大義の宣揚を目指して、事(こと)志と違ひ、遂に越前の敦賀において殺されました時、その時の大西郷の態度こそは実に見事だつたのであります。初め武田耕雲斎の一行が降参しますと、幕府軍総督田沼意尊(おきたか)は命じてその三百五十人を斬り、その残りを流罪に処することとして、その中の三十五人を薩摩へ預けることにし、薩摩へ引き取り方を命じたのでありました。その薩摩の藩を代表してこの交渉に当つたのが大西郷でありましたが、幕府の命令に対して明確にこれを拒絶して言ふのに、「古より今に至るまで、降参をした者を残酷に取り扱ふといふことは、我が国の武士道において絶えてない所である。武田耕雲斎の一行が降参をした以上は、武士道を以てこれを遇せらるべきであるに拘はらず、その三百五十人を斬り、その余を流罪に処せられるといふことは、実に残酷なる御処置と思ふ。薩摩藩においては武士道の手前、かくのごとき御命令に従ふことは出来かねる。どうしてもこれを流罪に処しようとされるならば、宜しく他の藩に命ぜられたが宜い」といふことを言はれたのであります。これは薩摩を代表してではありますが、蓋し大西郷その人の腹から出て来た言葉であると思ひます。この言葉の中にまた、大西郷の実に偉大なる魂を見るのであります。

それらの逸話と同時に、吾々のこれを読んで感激に堪へないのは、明治戊辰(ぼしん)の役の後においてその論功行賞のありました際の大西郷の態度であります。当時、朝廷におかれましては大西郷の功績を賞して二千石の賞典禄を賜はりました。大西郷は僅かと雖もこれを自ら頂戴せずして、集義塾といふ塾を建てまして、賜りました賞典禄全部を集義塾に寄付して居ります。

その塾の趣意書にかういふことが書かれてあります。「明治維新の大業が出来たのは命を捨てて忠義を尽した者があるからである。然るに今日その功を賞せられて、それぞれ恩賞を賜はつたことではあるが、今日生き残つて居る者のごときはその功労を論ずるならば第二等にある者であつて、命を陛下に奉つた者を以て第一等の功勲とすべきである。生残つて居る第二等の吾々が、それ故に御厚き恩賞を頂戴するといふことは、到底忍び得ないことである。それ故にこの戴きましたものは全部これを塾に寄付する。塾に寄付して国家有用の人材を養成しようと思ふ。塾生に対して臨む所は、煩瑣(はんさ)なる規則ではない。唯一つ忠死を以て念とせんこと希望する。忠義の為に死ぬ、陛下の御為に命を捨てるといふことである。徒らに法則を以て人を責むることを欲せず、唯忠死の心を以て志とし、人々自ら責めんことを希ふ」と、かう言はれて居ります。古今凡(あら)ゆる学校の規則と照らし合せて見て、これほど見事な趣意書は私共の曽て見い出さない所であります。煩瑣なる規則を以て拘束することを欲せず、ただ忠死の心を以て自ら責めんことを希(こいねが)ふ。実に素晴しい趣意書であります。

而してこの大西郷の集義塾建設の趣意書に現れて居る所の、この精神こそは遥かに大楠公が建武中興の直後において、後醍醐天皇に奏上せられました言葉と、その精神相通じて居ります。ここに大楠公が僅かの小城に拠つて全国を敵として少しも恐れず、少しも疑はれなかつた根本の精神が明かになるのであります。即ち大楠公は己の名を現(あらわ)さんが為に、己の家を栄えしめんが為に立つたのではない。

己の家を栄えしめんが為にと特に断りましたのは、足利高氏は己の家を栄えしめんが為に立つたからであります。高氏の丹波において官軍に寝返りを打ちました時の願文の中に明瞭に現はれて居ります。

「我家再び栄えば」といふことが書いてあります。この高氏を始めとして、当時多くの武士は己の名利の為に、家の利益の為に動いたのでありますが、大楠公に至つてはただ大義の為に動いて、その他の一切を顧みられなかつたのであります。従つてこの精神であつたればこそ、半年の間、全国を敵として屈しなかつたのであります。この精神であつたればこそ、再び賊勢猖獗(しょうけつ)を極め、足利高氏次第に勢力を得て、大勢再び非なる時において、一族を挙げて悉く戦死して少しも顧みられなかつたのであります。

今日、楠公の六百年祭が各地において盛大に行はれたに拘らず、楠公の子孫として世に現るる者のないのはご同様実に痛歎に堪へない所であります。楠公はその一族を挙げて王事に倒れてしまはれたのでありまして、その子、その子孫悉く王事に命を捨て、大義の為に倒れて一人も生残つて居られないのであります。

(昭和十年六月十三日、東京帝国大学に於ける大楠公六百年祭記念講演)