巻頭言

6月号巻頭言「楠子論」解説
市 村 真 一 / 京都大学名誉教授 

関西の春の楠公祭と秋の崎門祭は、例年殆ど欠かさず大阪の住吉大社と京都の八坂神社で斎行されてきた。その楠公祭の精神を学ぶため平泉澄先生が教示されたのが「楠子論」である。それは真木和泉守が文久元年水田の幽室にあつて、遺書として記された『何傷録(かしょうろく)』の巻頭に掲げられた。先生の御講義は『先哲を仰ぐ』(錦正社)にある。ここでは「楠子論」の後半を掲げ、「何故に、大楠公が湊川で身命を賭(と)して七生報国を決断されたか」の理由を和泉守が説明された貴重な歴史論を学ぶ。

君主制は「皇統の存続」を要する。武力で皇位を奪取する逆賊を鎮圧できねば、万事休する。承久の変の時は、その一歩手前であつた。幸ひ建武の中興は一旦成立したが、足利高氏が後醍醐天皇の統治の方針に従はず、「利」にさとい諸氏族を吸引した。一度は敗れても京都を奪還した。

大楠公は、この長期戦に勝利するには、我が子々孫々の忠誠によつて、子孫と国民の奮起を促し、且つ敵方も皇統を捜索して継ぐ精神を忘れぬように身命を賭し、以て万世の道を示されたのである。ただ「一楠氏の世に遺(のこ)る無し」(楠子論)は、正しくないのではないか。楠公の子孫は「四条畷(しじょうなわて)に遺りて三牧(みまき)となり、京に入りて四手井(しでい)となり」等と言はれ、私は両家とも存じ上げてゐる。