講談 歌で綴る日本の歩み(七) ― 日本流行歌の黎明 ―

桜林美佐防衛問題研究家

海軍の広瀬武夫中佐と陸軍の橘周太中佐が、日露戦争における「軍神」とされましたが、総力戦であった日露戦争では影の軍神と言っていい人々もたくさんおりました。とりわけ、見えない所で活躍したのが情報収集や工作にあたったインテリジェンス(知性)の達人たちでした。その先駆けと言えるのが福島安正大将です。

明治二十五年(一八九二)、ベルリン武官の任を終えた福島少佐は、帰国を前に「冒険旅行」という名目で、ドイツ~ロシア~シベリアを乗馬で横断する計画を立てました。

あまりの無謀さに公使館から止められながらも、二月十一日の紀元節にベルリンを出発し、これを決行するのです。そして約一万八千キロの行程を一年四か月かけて馬で横断し、実地調査を行ったのです。

出発三日後に日本人として初めて足を踏み入れた旧ポーランド。その光景が歌われたのが『波蘭懐古(ポーランド懐古)』です。

一日二日(ひとひふたひ)は晴れたれど 三日四日五日は雨に風
道の悪(あ)しさに乗る駒も 踏み煩(わずら)いぬ野路山路

福島少佐が訪れた時、ポーランドはドイツとロシアによって分割されていました。ここで、これから戦うことになるかもしれないロシアという国の脅威を実感したのです。こうした弾圧に苦しむ国々を支援して帝政ロシアを攪乱(かくらん)することを発意し、後にそれを実行したのが明石元二郎大佐だったのです。

シベリア横断は零下三十度という極寒の下で続けられ、途中、氷上に落馬して頭部を負傷して、しばらく農家で療養をしたり、また、風土病に罹り半月以上も昏睡状態に陥ったこともありましたが、とうとうこれを成し遂げたのです。明治天皇は福島少佐が三頭の馬を東京まで連れて帰って来たことに感銘を受け、この三頭の馬は明治天皇の御沙汰により上野動物園で余生を送ることになりました。

日露戦争が始まったのは、この十一年後のこと。福島少佐の、この壮大な横断旅行で得た情報がなければ、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

また、この時に得られたのはロシアに関する情報のみならず、この地で多くの国のスパイが活動している事実だったといいます。一般住民に入り込み、方言も使いこなし、中には親子二代にわたっての工作員もいたのだとか。そうした驚愕の実態を報告することも、実は知られざる使命だったのです。

日露戦争の最も有名な曲と言っていいのが「水師営(すいしえい)の会見」でしょう。明治三十八年一月十五日、乃木希典(まれすけ)大将とロシアのステッセル中将(旅順要塞司令官)との歴史的な会談を描いたものです。旅順は、ロシアがアジアの重要拠点として十年の歳月を経て築き上げた難攻不落の要塞。日本軍は明治三十七年の第一回総攻撃から百三十七日間、十三万人もの兵力を投入して肉弾戦を繰り広げ、ようやくロシア軍を降伏せしめたのでした。我が軍の死傷者は五万九千人にのぼり、乃木大将には国民からの厳しい目が向けられる一方、ステッセル司令官には帰国後の軍事裁判が待ち受けている、そんな二人による「水師営の会見」でした。

一、 旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ水師営

乃木大将は自らの長男と次男も旅順攻撃において相次いで失いました。しかし、この水師営で交わされたのは、憎しみも悲しみも超越した、戦の庭に立つ者同士の深い共鳴だったのです。歌は次のように続きます。

四、 昨日の敵は今日の友 語ることばもうちとけて
我はたたえつかの防備 かれは称えつわが武勇
五、 かたち正して言い出でぬ 此の方面の戦闘に
二子(にし)を失い給いつる 閣下の心如何にぞと
六、 二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり
これぞ武門(もんぶ)の面目(めんぼく)と 大将答(こたえ)力あり

明治天皇は、敗戦の将とはいえ祖国のために最後まで勇戦奮闘したステッセルを尊重し、武士の面目を保つように遇することを望まれました。ロシア皇帝はステッセルを処刑しようとしましたが、乃木大将らが助命嘆願し、禁固刑に減刑されています。また、乃木大将がステッセルの残された家族に、密かに毎月仕送りをしていたことも分かっています。

日露戦争は勝ち戦にはなったものの、家族や友人を失った悲しみにも包まれました。その終戦の年の秋に作られたのが有名な「戦友」です。

一、 ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の
赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
二、 思へば悲し昨日まで 真っ先かけて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか

先述の乃木大将が凱旋将軍として帰国後、長野の師範学校で講演を求められた際のエピソードがあります。乃木大将は演壇に上がらず、その場に立ち「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と、ひとこと言った後に絶句し、止めどもなく涙を流したといいます。乃木大将もまた、「戦友」の旋律に涙した一人なのではないでしょうか。

戦後は、戦死した部下の遺族一人一人を訪ねて回ることに余暇の時間を費やし、私財を投じて腕を失った兵士のための義手を自ら設計しましたが、実は乃木さん自身も片目を失明し、片腕、片足が不自由だったことはあまり知られていません。

味方のみならず敵の将兵にまで、全ての戦友のために捧げられた慈愛。それは「武士道」や「ヒューマニズム」など色々な言葉で語られています。しかし、どんな難しい言葉よりも当時の歌をほんの少し口ずさむだけで、容易に想像できるようになるのかもしれません。

(つづく)