祖父母が学んだ修身教科書(七)

小 川 裕 好
薬剤師・薬局自営

「修身」の教科書に、江戸時代初期の儒学者で、近江聖人(おうみせいじん)と称せられた中江藤樹(なかえとうじゅ)が「徳行」の題名で掲載されています。本文は原文のままとし、常用漢字、現代仮名遣いに改め、適宜ルビを付けました。

徳行

中江藤樹は近江の小川村の人であります。幼い時から祖父の家に養われ、其の後をついで、伊予の大洲侯(おおずこう)に仕えていましたが、故郷の母を養うために、役をやめて、小川村へ帰りました。

藤樹は貧しい中で年よった母に事(つか)えて孝行を尽くし、又熱心に学問に励んだので、とうとう徳の高い学者となりました。そこで、藤樹をしたって、遠い所からはるばる教えを受けに来る者も多く、馬子(まご)のような、学問しない者までも、其の徳に感化されました。それで世間の人が皆、藤樹を敬(うやま)って近江聖人といいました。藤樹がなくなってから、長い年月がたっているが、村の人たちは今でも其の徳をしたって、年々の祭りをしています。

或る年、一人の武士が小川村の近くを通るついでに、藤樹の墓をたずねようと思って、畑を耕している農夫に道をききました。農夫は自分が案内しようといって、先に立って行ったが、途中で自分の家に立ちよって、着物をきかえ、羽織まで着て来ました。武士は心の中で、自分を敬って、かようにしたのだろうと思っていました。藤樹の墓についた時、農夫は垣(かき)の戸をあけて、武士を其の中にはいらせ、自分は戸の外にうやうやしくひざまずいて拝みました。武士はそこではじめて、さきに農夫が着物をきかえたのは、全く藤樹を敬うためであったと気がついて、深く感心して、ていねいに墓を拝みました。

(『尋常小学修身書 巻五』昭和二年発行)

[解説]

中江藤樹(一六〇八~一六四八年)は江戸時代初期の儒学者で、特に王陽明(おうようめい)の学説を広めたので、日本陽明学の祖ともいわれます。

慶長十三年、近江国小川村(現滋賀県高島市)に生まれました。九歳の時、米子(よなご)
藩に仕えていた祖父に引き取られ、翌年、藩主加藤貞泰の伊予国(愛媛県)大洲転封(おおずてんぽう)に伴い大洲に移り、祖父亡き後、その後を継いで藩に出仕しました。

十七歳の時、藤樹は京都から来た一人の禅僧による『論語』の講義を聴いて非常に感動しました。当時の武士が専ら武芸のみを励み、学問に心寄せる者の甚だ少なかった中、独り藤樹は一か月余り熱心に聴講しました。また『大学』『中庸』を始めとする儒学の聖典を読んで、聖賢の尊い教えに触れると、それからは、ただ一筋に学問に邁進したのでした。

十八歳の時、父もまた亡くなり、小川村には老母一人となりました。孝心厚い藤樹は、母を大洲に迎えようとしますが、母はどうしても故郷を離れようとはしません。藤樹は悩んだ末、辞職を藩に願い出ましたが、藤樹の徳行は藩主も重んじており、これも許しが出ません。そこで藤樹は意を決し、敢然として武士の身分を捨てて近江の母の許へ帰ったのでした。

時に二十七歳、帰郷した藤樹は、刀を売って小さな酒屋を営み、生活の道を立てて母に孝養を尽くし、また里人を集め学問を教えました。その徳行は自ずから近隣の村人を教化し、「近江聖人」の名は遠近に広まりました。

旧主加藤侯も再び藩に迎えようとしますが、これも固辞し、また江戸に参勤する諸大名の中にも、道すがら藤樹を訪ね、教えを聞くものも多かったといわれます。

修身教科書に掲載の内容は『先哲叢談(せんてつそうだん)』という書物に出ています。また、次のようなエピソードも記載されています。

それは、熊沢蕃山(ばんざん)が、京都で同宿した人から聞いた話であります。その人が主人から二百両のお金を預かって近江に来た時、乗ってきた馬に、その大金を結び付けたまま忘れてしまいます。夜中に気がついて、最早死んでお詫びするしかないと覚悟した時、驚いたことに昼間の馬子がお金を届けに来ました。喜んだその人が、お礼をしようとしたが、馬子はどうしても受け取らない。よくよく聞いてみると、この馬子は小川村の者で、日頃から深く藤樹の教えに心服している者であったという話でした。これを聞いた蕃山は、馬子をも感化する中江という人は余程偉い人に違いないと思い、直ちに小川村に藤樹を訪ねたということです。

おわりに、藤樹の和歌を一首載せます。「近江聖人」が到達したその境地に、現代の人たちもまた深く思いを致したいものです。

ちはやぶる 神のやしろは 月なれや

参る心の うちにうつろふ