マネジメント論と国際政治(一)― スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣」を手掛かりに ―

村上政俊/皇學館大学現代日本社会学部非常勤講師 元外交官

米国の著名な経営コンサルタントであるスティーブン・R・コヴィー(一九三二~二〇一二年)が著した『7つの習慣 人格主義の回復』(キングベアー出版)は、マネジメントを考える上では余りにも有名だろう。その副題が示す通り、この書は個人が如何に成功するかが根本的な命題だ。第二部で私的成功が論じられた上で、第三部で公的成功が語られているのもその表れだろう。多くのビジネスパーソンにとって魅力的な指針にもなっている。

その応用の範囲は、個人に止まらないのではないかというのが私の問題意識だ。私が専門とする国際政治においても、コヴィーが提示したモデルは十分な説得力を持ち得ると考えられる。もちろん国家を擬人化することは、議論を過度に単純化するおそれもあろう。だが現代の国際政治が、主権国家を単位として構成されるとするウェストファリア体制を基礎としている事実を直視すれば、こうした議論の進め方もあながち的外れとはいえないだろう。

さらに最新の情勢を考慮すれば、コヴィーの議論を国際政治に当てはめることは、より意義を有するものと思われる。経済、安全保障の両面において国際協調の機運が後退し、国家が前面に押し出された現況を考えれば、個人の成功の秘訣を説くコヴィーの考えと、国家を中心に据えた国際政治論を有機的に結ぶ意義は高まっているといえよう。以下ではコヴィーが編み出した七つの習慣の一つ一つに沿いながら、国際政治の解読を試みたい。

「第一の習慣」―主体的である

第一の習慣である「主体的である(Be proactive)」は、右のような現代国際政治の劇的な変化を考えれば、大変に重要である。最近の例では英国のEU離脱がそうだ。非効率で官僚主義的なEUから脱して、英国のことは英国で決めよう。EU本部が陣取るブリュッセルから英国議会が所在するウェストミンスターに主権を奪還しようというのが眼目だった註。多くの場面において全会一致を原則とするEUは、マネジメントの観点から考えても、機動的な判断や実行にはおよそ不向きな組織といえよう。

日本においては極右と表現される向きもある欧州での一連の動きも、主体性回復への飽くなき欲求の表出といえよう。EUの統合深化に伴って加盟国は主権を少しずつブリュッセルに委譲してきた。市場統合によって輸出が増えるといった明確な効果が実感できる間は利点のみに目が行くが、事態が逆回転し始めると一気に不満が噴出するのが道理だろう。移民の大量流入や財政金融問題に対して、主権を手放したことも相俟(あいま)って、迅速な対応策が講じられないとなれば、国家の主体性を取り戻して危機を乗り切りたいと考える人々が増えるのは、もっともだとも思える。

日本外交との直接的な関連といえるのが、第二次安倍晋三政権が発足してから掲げられた積極的平和主義だ。英訳としてProactive Contribution to Peace を用いていることから、第一の習慣との共通した問題意識が窺える。主体的であることの反対概念は「反応(reactive)」であるとコヴィーは指摘するが、積極的平和主義が打ち出された背景には、日本外交があまりにも反応的であったという反省があった。

冷戦終結後の湾岸戦争(Gulf War)への対応が、日本外交が悪い意味で反応的であったことの最たる例といえよう。日本は現行憲法第九条を楯に取って、湾岸戦争中の人的貢献には極めて消極的だった。一九七〇年代のベトナム戦争でも人員面での貢献はしなかったのだから、前例を踏襲したに過ぎないという思いも一部にはあったのかもしれない。

しかし、国際情勢が大きく変化していたのだった。冷戦終結によって東西対立が過去のものとなったからだ。独裁者サダム・フセインが率いるイラクに対して、常任理事国による拒否権発動なくして国連安保理がまとまり、武力行使を容認する決議六七八が採択されて、世界対イラクという構図が出来上がった。

当時(平成二年)の日本が世界全体のGDPに一割を超えるシェアを占めていたにもかかわらず、世界の一大事に反応的でしかいられなかったことは、日本外交に大きな傷を残したのだった。国際社会における地位に相応しい貢献を主体的にすべきだという考えは、湾岸戦争を契機として徐々に広がりを見せるようになっていった。カンボジアへの陸上自衛隊派遣(平成四年)は最初期の例であるし、平成十九年の自衛隊法改正によって、国際平和協力活動が付随的任務から本来任務に改められたのは、その一環といえよう。

時代は遡るが、岸信介による日米安保条約の改定(昭和三十五年)も、主体性回復に向けた取り組みだったと評価できよう。サンフランシスコ講和条約と同時に吉田茂によって署名された旧安保条約は、日本を自由主義陣営に明確に位置付けたことは評価できるが、米国の対日防衛義務が曖昧だった点は問題だった。日本から米国への基地提供に見合う形で、義務を明確化(新条約五条)したところに改定の要諦があった。岸による第一の習慣に沿った行動だったといえよう。

「第二の習慣」―終わりを思い描くことから

第二の習慣「終わりを思い描くことから始める(Begin with the end in mind)」を身に付けるためには、信条あるいは理念を表明したミッション・ステートメント(個人的な憲法)を書くことが最も効果的だとコヴィーは述べている。国際政治においても現実的な利益だけでなく理念や理想に力点を置かれることがあり、現実主(realism)と理想主義(idealism)という二つの考え方が対置されて論じられることが多い。

リアリズムの立場に立てば、勢力均衡(balance ofpower)を考えて行動するのが何よりも重要となろう。十九世紀の欧州において、ナポレオン後の秩序を話し合ったウィーン会議とそれを主導したオーストリア外相(のちに宰相)メッテルニヒは、勢力均衡を拠り所とする典型だろう。だが、たとえリアリズムの立場を採るにしても、実力のみで事態を収拾し続けることは困難であり、理念の重要性に思いが至るだろう。

以上の議論がよく当てはまるのはアメリカ外交だろう。急激な中国の追い上げがあるとはいえ、現在も米国は押しも押されもせぬ覇権国だ。軍事経済両面において世界トップの実力を誇っているが、必要と判断すれば躊躇(ためら)わず実力行使に踏み切るという現実主義が覇権国としての地位を支えているといえよう。それと同時にアメリカの対外政策は、理念的な色彩も帯びている。

歴史にその淵源を求めれば、新大陸に新たな国家を築いた建国の物語に辿り着き、民主主義の擁護者としての顔を覗(のぞ)かせる。

東アジアにおける政策展開においても、理念重視は顕著だ。米国は中国大陸と国交を正常化すると同時に台湾とは断交したが、いまなお台湾関係法によって台湾防衛の義務を負っている。北京が台湾海峡を越えて押し寄せた場合に米国が台湾を守るのは、台湾という地政学的要衝を維持することに国益を見出しているからではあるが、台湾が李登輝時代に始まった民主化プロセスを完成させて民主主義を社会に根付かせていることも見逃せない。米台にあるのは現実主義における利益の共有だけではなく理念の共有だ。

その米国が、「第二の習慣」とは反対に終わりを描き切れなかったのが、ベトナム戦争だろう。ベトナムへの戦力の逐次投入によって米国は、インドシナ半島での泥沼に嵌(は)まり込んでいったが、そこに欠けていたのは出口戦略(exit strategy)だったといえよう。所は変われど中東におけるイラク戦争(平成十五年)の際にも、出口戦略が議論の的になった。

「第三の習慣」―最優先事項を優先

第三の習慣「最優先事項を優先する(Put first thingsfirst)」を日本外交に当てはめれば、日米同盟を優先する方針を採るか否かということになろう。昭和三十三年に発行された初めての外交青書では、日本外交の三本柱として「自由主義諸国との協調」「国連中心主義」「アジアの一員としての立場の堅持」が挙げられたが、「第三の習慣」に従えば、最初に掲げられている自由主義国なかんずく唯一の同盟国である米国との関係が優先されるという認識に至るだろう。小泉純一郎が、日米関係が良ければ良いほど、中国、韓国、アジア諸国をはじめ世界各国と良好な関係を築けると述べたのは、その典型といえよう。

安倍外交においてもこうした傾向は顕著だ。令和の御代の最初の国賓としてトランプ大統領を迎えたのは、その象徴といえよう。トランプ当選直後、ニューヨークのトランプタワーに駆け付けて会談した(平成二十八年十一月)のは、「第三の習慣」の実践だった。まだ大統領就任前というタイミングは、プロトコール(外交儀礼)を考えれば水面下で会談の可能性を探りつつ、実際にはまだ会わない段階だが、新大統領との個人的関係を世界の首脳に先駆けて構築するという最優先事項を優先した格好だった。トランプとの五回にわたるゴルフは、第三の習慣で得た成果を維持しようという努力の表れだ。

これに対して、日米同盟最優先ではないという受け止めが広がったのが民主党の鳩山由紀夫内閣だった。最低でも県外と言及したことで、沖縄の普天間基地移設問題が暗礁に乗り上げて日米関係が拗(ねじ)れただけでなく、胡錦濤(こきんとう)国家主席との日中首脳会談で東アジア共同体構想を提案したことは、米国に対して誤ったサインを送ることとなった。鳩山が九か月足らずで退陣を余儀なくされたのは、「第三の習慣」を実践できなかったことに大きな原因があったのだろう。

現在の韓国も第三の習慣を見失っている状況だ。文在寅大統領は米国と北朝鮮の仲介役を自任していたが、今年二月、ハノイでの第二回米朝首脳会談が物別れに終わったことで、その限界がいよいよ露呈した。そもそも韓国は、米韓相互防衛条約を結ぶ米国の同盟国であり、北朝鮮は現実的な安全保障上の脅威だ。それにもかかわらず両者の中間に立とうとすること自体が「第三の習慣」に反しており、いずれ行き詰ることは目に見えていたといえよう。海外メディアからも文在寅は金正恩の事実上の報道官(de facto spokesman)だという評価が出ているというのだから事態は深刻だ。

他分野への影響を顧みずに対米関係を優先する姿勢を時として示すのは、何も日本に限ったことではない。例えば英国であれば、労働党のトニー・ブレア政権を挙げることができるだろう。イラク戦争の開戦過程では湾岸戦争のそれと違って、国際社会の一致団結がなかなか実現しなかった。英国と異なりドイツ、フランスは後ろ向きで、欧州主要国の間でも対応が分かれる結果となった。ブレアは国内世論の反対や独仏との関係悪化というリスクを冒しながら、米国を支持する姿勢を優先しただけでなく地上軍投入に踏み切った。その行動は「第三の習慣」に則(のっと)っていたと評価できよう。

「第四の習慣」―ウィンウィンを考える

第四の習慣「ウィンウィンを考える(Think Win/Win)」は、外交を進める上でとても重要な考え方だ。これを一語で表現すれば、「互恵的な(reciprocal)」となろう。双方が得(ウィン)をする考え方である。いま物品貿易協定(Trade Agreement on Goods, TAG)を巡って進行中である日米交渉においても、キーワードだ。メディアでも日米双方がウィンウィンの結果を求めていると評されているし、そもそもトランプ自身からも提起されている。安倍総理は平成三十一年四月に訪米して首脳会談に臨んだが、その際にもトランプは互恵的な日米貿易を実現すると述べている。

日本外交の難所である対中関係においても、ウィンウィンはキー概念といえよう。第一次安倍政権で打ち出された戦略的互恵関係だ。小泉政権下で日中関係は悪化していたが、その後を継いだ安倍は平成十八年十月、初の外遊先として中国を選択し、内外に意外な印象を与えた。日本の総理が同盟国である米国以外にまず訪れるという異例さのみならず、保守派と知られる新総理が中国を最初の訪問先に選んだからだった。

安倍訪中に際しての日中共同記者発表に初登場したのが、戦略的互恵関係という用語だった。平成二十年五月、胡錦濤の国賓訪問に併せて、戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明が発せられ、この語がポスト小泉時代における日中関係のキーワードであることが確定したといえよう。

コヴィーはwin-win 以外に、win-lose、lose-win 等五つのパラダイム(枠組み)を提示して人間関係を分析している。外交の世界で指摘されるのが、win-win以外のパラダイムの不安定性だ。「七つの習慣」が対象とする一般的な人間関係と国際政治の大きな違いの一つは、国際政治には地球が丸ごと滅びでもしない限り、終わりが存在しないという関係の永続性だろう。永遠に続く外交においては、過度な勝利よりも五一対四九の勝利の方が長期的には安定をもたらす。

第一次世界大戦後の対独講和を例にとれば、パリ講和会議(大正七年)においてドイツに対して懲罰的な講和条件が決定され、ドイツの再起を困難とすることで欧州の安定が図られたかにみえた。だが実際には、却ってドイツでの反発が生まれて短期間のうちに次なる世界大戦が勃発したのだった。外交交渉においては、「第四の習慣」に沿わないような一方的な結果は、将来に禍根を残すということを示していよう。サンフランシスコ講和条約では、日本に対して賠償金や軍備制限は求められず、パリとの比較においては寛大な講和となったのは、こうした反省を踏まえてのことだろう。講和もwin-win でなければ報復への誘惑に駆られるということだ。

詳しい分析は村上政俊「イギリスのEU離脱で沈むのはEUだ」『文藝春秋オピニオン 2017年の論点100』文藝春秋、平成二十九年一月