大東亜戦争と陸軍落下傘部隊― 二月十四日は「パレンバンデー」 ―

 奥本康大/「空の神兵」顕彰会 会長

日本は大東亜戦争において戦闘には敗れたが、戦争に勝ったと断言される著名な評論家がおられる。全くその通りである。何故なら大東亜戦争後、アジア諸国は植民地から解放され独立を果たしたのである。日本が撤廃を主張した人種差別も無くなった。これらの歴史を語り継がなくてはならない。また父祖たちが国を守るために命を賭けて戦った戦争の歴史を、正しくまた永遠に語り継がなくてはならない。

自分は父が遺した手記をもとに『なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男』(ハート出版)を二年前に上梓した。それ以降、依頼があれば講演会等の講師を務めているが、大東亜戦争を戦った父たちの想いを伝えることは自分の責務と考えている。

また可能な限り、戦時中の父の足跡を辿り、慰霊と顕彰をすることが自分に課せられた役割と考え、時間の許す限り、戦跡巡りをしている。

自分は、亡き父からは、殆ど戦争の体験談を聞く機会はなかった。しかし、父が遺した膨大な手記を読み、戦跡を巡り、また資料を調べて史実が見えてきた。

一 占領政策により自虐史観が定着

戦後のアメリカの占領政策(日本愚民化政策)により、多くの国民に自虐史観が定着してしまっているが、大東亜戦争は「聖戦」だったと声を大にして叫びたい。

日本は、日清・日露戦争に勝利し、短期間に大国としての地位を固めつつあった。その日本の台頭を許さなかった欧米列強。中でもアメリカは、欧州諸国と比較して海外進出に出遅れ、アジア諸国を対象として覇権拡大を狙っていた。日露戦争後にアメリカは、オレンジプランなるものを策定、日本を仮想敵国として戦略を練っていた。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本の提言は、アメリカを大いに刺激した。

この時、日本は戦勝国として、ドイツが統治していたマリアナ諸島等の南洋群島を統治することになった。日本は欧米列強とは違い人種平等の精神で、これらの島国を差別なく統治することに決めていた。

この講和会議では、第一次世界大戦の戦後処理だけでなく、今後の世界秩序についても議題として取り上げられた。席上、日本は人種差別撤廃を提言したのである。この時の決議は十一対五で賛成多数。しかし議長であったアメリカのウイルソン大統領が、「重要案件は、全会一致が原則」と却下した。この提言をした日本が疎ましくなったウイルソン大統領は、日本潰しの戦略検討を始めた。

資源を持たない日本が、貿易が出来なければ窮地に追い込まれることを百も承知で、アメリカは日本を追い詰めていったのである。最終的にはルーズベルト大統領による「日米通商航海条約破棄」「石油の禁輸」等により、日本は「自存・自衛」の戦争に立ち上がらざるをえなくなったのである。

これは、昭和天皇が苦渋の決断をされた「開戦の詔勅」からも理解できる。

二 大東亜戦争勃発

昭和十六年十二月八日、大東亜戦争の火ぶたが切って落とされた。あたかも日本が騙し討ちをしたように伝えられているが、これは事実と反する。当時、世界はブロック経済体制であり、経済封鎖をされたら日本は崩壊するしかなく、経済封鎖は事実上の宣戦布告でもある。

更にアメリカは、蒋介石軍を支援する為、義勇兵と称し正規兵と戦闘機を「航空戦力に関する援軍協定」に基づき貸与している。これが「フライングタイガース」と呼ばれていた飛行戦隊であり、この部隊が雲南省昆明(こんめい)の日本軍に攻撃を仕掛けた記録も残っている。昭和十六年十月のことであり、アメリカはこの事実を巧みに隠蔽した。

また、日本は勝算もなく、闇雲に戦争を決断したのではない。開戦の決断は、昭和十六年十一月十五日の大本営政府連絡会議で行なわれたが、その根拠が、「陸軍省戦争経済研究班」(秋丸機関)が作成した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」であり、この案に基づき日本軍は行動を起こしたのである。

詳しいことは割愛するが、この「陸軍省戦争経済研究班」が行った戦争開始後における各国の経済力の予想がある。詳細については、『日米開戦 陸軍の勝算―「秋丸機関」の最終報告書』(林千勝著)をご覧頂きたい。

大東亜戦争緒戦はこの腹案どおり、日本軍の快進撃であった。次々と要所を制圧しながら、南方の資源地帯を目指し進撃していった。

ここで注目すべきは、日本の石油備蓄量である。大東亜戦争前には七百七十万トン保有していた。当時の日本の石油消費量は五百万トンであったから、単純計算では、一年半で枯渇する計算である。しかし戦争においては大量の石油が必要であり、戦争の方法によっては一年も持たず底を突いたかも知れなかった。石油が枯渇すれば戦争継続は不可能である。戦わなければ、アメリカ及び連合国により、日本は解体され、植民地としての道を歩んだかも知れない。また白色人種支配による人種差別が続き、世界の植民地は今も残っていたかも知れない。

「石油備蓄量の少ない状態での開戦」という苦渋の選択であったが、神様は日本を見捨てることは無かった。資源の宝庫、蘭領東インド(インドネシア)を早期に制圧することによって、三年八ケ月もの間、戦争を続けることが出来たのである。その転機となった戦闘が陸軍落下傘部隊によるスマトラ島パレンバン奇襲攻撃であった。

また、己を顧みない日本軍の戦い方が、アメリカをはじめ連合国軍を震撼(しんかん)させたのである。唯一、日本では沖縄が戦場となったが、本土決戦に至らなかったのは、日本軍将兵の国の為に命を惜しまない戦いぶりが、日本を守ったと言っても過言ではない。

三 誤った歴史認識の蔓延

戦後の日本では戦争の歴史を語られることが少なく、また日本は「侵略戦争」をした悪い国として、反日的なメディアにより喧伝されている。

国の為に戦った英雄が、侵略戦争に加担した悪者として扱われることも多い。果たして真実はどうなのか。前述のとおり欧米列強により日本が貶(おとし)められた歴史を振り返れば解ることであるが、その手順を踏まないお花畑の日本人があまりにも多い。また、命を賭して戦った国の英雄を讃えない風潮があることも否定できない。

日本の戦争の歴史を語る上で一番大切な国の英霊をお祀りしている靖国神社に、国の指導者たちが参拝するかしないかを、近隣諸国の顔色を窺っているようでは国家再興は難しい。

拙著(共著)『なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男』及び『大東亜戦争 失われた真実』(ハート出版)等にも述べておいたが、日本は大東亜共栄圏を構築し、アジア諸国の独立を目指したのである。この事実も戦後教育では封じ込められている。また、戦前生まれの人は殆ど知っていた「空の神兵」と讃えられた落下傘部隊の存在を知る人も少ない。

南方地域は鉱物資源の宝庫であり、オランダをはじめフランス、スペイン等の宗主国は、武力でアジアの国々を隷属させ、自分たちの国を繁栄させていた。アジアで植民地でない国は日本とタイだけであった(タイは英仏の緩衝地帯的な存在であった)。

羅針盤が発明され、大航海時代を迎えるが、大航海時代と聞くと、若者たちが新天地を求め、勇ましく大海原に向かって旅立つ姿を想像するが、実態はそんな綺麗ごとではない。オランダ、スペイン、イギリスといった領土の狭い国々が、農産物や鉱物資源を求めて、未開の地を探し、船を漕ぎ出したに過ぎない。

自国の勢力を拡大させる航海であり、欲望を満たすのが目的なので、武力による掠奪行為が日常茶飯事であった。その背景には、白色人種は自らが優れた人種という思い上がりから、有色人種を下等動物のように扱い、隷属させたことがある。特にオランダは三百五十年もの間、宗主国としてインドネシアから搾取をしていた。パリ講和会議の席上、日本が人種差別撤廃を提唱したのは実に的を射た提言であった。更には、大東亜共栄圏の構築、東南アジアの解放を目指したが、貪欲な欧米列強には腹立たしい提言であった。

長い世界の歴史を学べば、「侵略国家」は西洋諸国であり、アジアの解放を目指した日本を「侵略国家」と位置付けしたのは、アメリカはじめ西洋諸国のご都合主義に他ならないことが分かる。特にアメリカは、大東亜戦争で行った悪事(民間人への無差別攻撃、広島・長崎への原爆投下)を隠蔽する目的で、日本を「侵略国家」だと位置づけたに過ぎない。

今、日本人が覚醒しなければ、これが事実として定着して取り返しのつかない事になる。

四 「空の神兵」の奇跡的偉業

昭和十七年二月十四日に、パレンバンへの落下傘奇襲攻撃が敢行されたが、この戦闘は神憑(かみがか)り的な大勝利を収めた。

約三百四十名の落下傘部隊の将兵が約三倍(約千百名)のオランダ軍が守備するパレンバンを奇襲、僅か二十四時間ほどの戦闘で、飛行場及び二か所の製油所を制圧したのである(目的はジャワ島進撃に向けた制空権、製油所設備の確保)。

日本を欧米列強の包囲網から解放する為に、神様が味方したとしか考えられない。この大勝利が三年八ケ月の戦争を継続せしめ、アメリカ及び連合国に厭戦気分を抱かせることに繋がり、本土上陸作戦を躊躇させることに繋がった。結果論ではあるが、日本が滅びずに、国体も維持できて、今日の日本があるのは「パレンバンの大勝利」があったからだと力説したい。

当時のパレンバン地区の石油生産量は年間約三百万トン、当時の日本の消費量の六割を、このパレンバン奇襲攻撃で獲得したのである。

余談になるが、パレンバン製油所や近隣の油田地帯に派遣された石油部隊(石油技術者で編成された部隊)により、設備改善と増強がおこなわれ、年間約六百万トン以上の石油を供給出来るまでになったと記録にある。他の南方地域で獲得した基地を含めると年間約八百万トン以上の石油を日本軍が手中に収めた。

私の父はこのパレンバン奇襲攻撃に参戦した。作戦時、弱冠二十一歳の中尉であったが、飛行場制圧部隊の第四中隊第三小隊長としての重責を担った。

繰り返しになるが、欧米列強による経済封鎖により、石油をはじめ多くの資源が枯渇することが明確であり、蘭印東インド地域には喉から手が出るほどの豊かな資源があった。開戦前から欧米諸国と戦争することを想定して、真っ先に攻撃するのは何処かも決めていた。それがパレンバンであったことは言うまでもない。

秋丸機関が作成した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」にもパレンバンを制圧することは最重要作戦とされており、大東亜戦争の命運を賭けた戦いが、パレンバン奇襲作戦であった。

話を戻すが、父たちを乗せた輸送機はパレンバン飛行場と製油所の二手に分かれて降下したが、オランダ防衛軍からの高射砲弾や機関銃弾が飛び交う中、勇猛果敢に輸送機から飛び出した。早く飛び出さなければ輸送機もろとも撃墜されてしまう危険性もあり、まさに特攻とも言える戦闘手段でもあった。

この作戦で父は神憑り的な殊勲をあげた。輸送機が高射砲攻撃から避ける航路を選択した為、降下場所はジャングル地帯であった。偶々四名の部下と集結できたところに、約百五十名もの敵兵の車列と遭遇した。二度におよぶ戦闘を繰り返し、これらの敵部隊を壊滅させ、飛行場占領に大きく貢献した。

この功績(殊勲甲)により父は個人感状を授与され、畏れ多くも宮中に召され、昭和天皇に単独拝謁の栄誉を賜った(一昨年刊行された『昭和天皇実録』に「昭和十八年二月十九日のご公務」の記載がある)。

千葉県習志野にある陸上自衛隊第一空挺団は、戦前の落下傘部隊を引き継ぐ精鋭部隊である。敷地内には「空挺館」と称する落下傘部隊の資料館がある。

建物の二階に上がると、「挺身赴難」との四文字が目に飛び込んでくる。これは「身を挺して難事に赴く」という空挺精神を示したものだが、落下傘部隊の精神は戦後の自衛隊員にも引継がれている。

色々な説があるが、「特攻」とは、生還することは考えず身を捨て任務を果たすこととされている。自分は父たちの「空挺部隊」は「特攻隊」と同じ使命の部隊であったと解釈している。

何故なら、作戦前夜、父は日の丸に「本日ノ給養ハ靖国ニ於テス」と揮毫し、その周りには部下の隊員たちが寄せ書きし、その日の丸を首に巻いてパレンバンに舞い降りたのである。決死の覚悟が窺える。

パレンバン奇襲攻撃では、昼間(十一時三十分頃)に、堂々と敵の真っ只中に舞い降りたのである。当然、地上から雨嵐の如く機関銃の弾丸が飛んでくる、また高射砲の水平射撃もあったと記録にある。そんな地獄のような戦場に、勇んで輸送機から天降ったのである。

当時のドイツやロシアの落下傘部隊では、五~六割の戦死者を出したようである。当然、その数値を父たちは知っており、部下たちと「靖國で会おうと」と覚悟を決めていたのだ。しかし、パレンバンでは奇跡が起きたのである。なんとパレンバンでは地上戦と同じ位の戦死者でしかなかった(約一割強、三十九名が散華(さんげ))。まさに奇跡的な勝利だったのである。

父たちが大勝利を遂げたのも「挺身赴難」の精神があったからに他ならない。

当時の若者は、国の情勢、与えられた任務、戦場の状況を判断した上で、無謀とも思えるオランダ軍との戦闘に果敢に挑んだのである。

今の若者にそのような気概があるだろうか。日教組教育による個人主義が蔓延(はびこ)り、国の為に命を賭して戦うなど考えられない状況に陥っている。我々は、戦前、戦中の若者の気概と勇気を学ぶべきではなかろうか。

五 昭和天皇と落下傘部隊の絆

大東亜戦争の緒戦において、喉から手の出る程の「石油」を大量に手に入れたことで、昭和天皇は安堵され、殊の外、喜ばれたご様子であった。

昭和天皇は昭和二十一年、「大東亜戦争は石油で始まり石油で終わった」と述懐されているが、「石油」は日本の生命線であり、断腸の思いで開戦を決意されたのである。

終生、落下傘部隊をお忘れになることは無かったと思える。これを裏付ける事実は、昭和十七年七月二十一日に行われた、宇都宮演習場での異例の落下傘部隊単独の特別天覧演習である。この演習にはパレンバンで手柄を挙げた挺身第二連隊ではなく、兄貴分の挺身第一連隊が名誉ある役割を果たした。

挺身第一連隊は弟分の挺身第二連隊に手柄を横取りされた不運な連隊であるが、昭和天皇に演習展示をしたことで、少しは溜飲を下げた。

その理由は、大東亜戦争開戦後、直ぐに落下傘部隊に出撃命令が下り、海路パレンバンを目指したのは、挺身第一連隊であった。しかし、博多から出撃した同連隊は、海南島沖(現在のベトナムの手前)で輸送船が謎の火災事故を起こし、海に投げ出された。そこで急遽、訓練中の練習生を集め、挺身第二連隊が組織され、パレンバンに向かったのである。奇跡的にも、この俄か仕立ての連隊が大手柄を挙げたのだから、運命とは不思議なものである。

更に昭和天皇の落下傘部隊に対する深いお気持ちを知ることが出来るエピソードがある。

宮崎県川南町唐瀬原(かわみなみからせばる)は落下傘部隊の発祥の地である。戦後は演習場を酪農地帯にすべく入植者を募集した。昭和天皇は、戦後復興に取り組む国民を励ます為、昭和二十一年から昭和二十九年までに各都道府県を御巡幸された。宮崎県では昭和二十四年六月四日から七日の四日間、県民を激励された。

昭和二十四年と言えばアメリカの占領時代であり、川南は草深い田舎の村だった。宮崎県は大きな県であり、経済復興を目指す重要な市町村は数多くあった筈だが、敢えて川南の唐瀬原をお選びになられた。現在、唐瀬原には「御巡幸記念」と刻まれた大きな石碑が立っているが、その場所にお立ちになり陸軍落下傘部隊の訓練の様子を思い浮かべられたに違いない。

昭和天皇にとって、「パレンバン」という地名と「石油」「落下傘部隊」「奥本中尉」の四つの言葉は終生お忘れになることは無かったと信じている。

自分はこの史実を知る一人として、後世に伝える責務を強く感じている。

六 英霊を二度死なせるな

パレンバン奇襲攻撃により、大量の石油を確保出来たことで、大東亜戦争中の日本は、事実上アメリカのブロック経済圏から独立を果たしたと考えるべきであり、この勝利で悪くても講和が結べる下地が出来た筈である。前述の「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」では、南方の資源確保の次は、西進して在インドのイギリス軍と戦い撃破するはずだった。しかし海軍によるミッドウェー、ガタルカナルへの進出により、守勢に転ずることになり形勢は一挙に逆転した。戦う場所を間違ったのである。「戦力は距離の二乗に反比例する」との原則を無視したことにより、制海権、制空権を奪われては勝ち目が無くなったのも当然である。パレンバンで得られた石油も、輸送中、南シナ海でアメリカの潜水艦の餌食となり、貴重な石油も海に流出してしまった。

連合国にとって、緒戦の戦闘でパレンバンを失ったことは屈辱的な出来事であった。前述のとおり、パレンバン奇襲作戦は昭和十七年二月十四日に敢行された。戦後、この大東亜戦争で最も重要な日が「バレンタインデー」として、チョコレートをプレゼントする記念日となってしまった。バブル時代のような盛り上がりは無くなったが、商業政策の一環として巧みに利用されていると考えている。日本人にとって忘れてはならない重要な日をバレンタインデーとして騒ぐのではなく、大東亜戦争中、経済的独立を果たした記念日である「パレンバンデー」として、毎年顕彰しなければならない。今年も憲政記念館で第三回目の「パレンバンデーの集い」を開催した。

戦後七十年以上が過ぎ、戦争の歴史が風化し、英霊は悲しまれているに違いない。今の時代を生きる我々の責務は、慰霊・顕彰活動を国民的行事として復活させることである。英霊を二度死なせてはならない。一度は肉体の死、二度目は記憶からの消滅である。祖国を守るため命を賭して守っていただいた英霊を顕彰する活動を絶やすことのないよう、微力ではあるが尽力していきたい。