巻頭言

10月号巻頭言「貞明皇太后御歌」解説
市 村 真 一 / 京都大学名誉教授 

御歌は、大陸での戦火が激しさを増した昭和十四年、従軍看護婦への兵士の感謝を偲ばれたもの、靖国神社は今秋、大祭にこの歌を掲げた。「白衣の天使」の戦死者も多いからであらう。

皇太后の生きられた明治、大正、昭和三代は、我が史上稀に見る国難の連続で、大勝利、大敗北、大復興を一挙に体験した波乱万丈の時代だつた。それを克服した奮闘努力は、真に世界の偉観と誇つてよい。しかし同時に、我が国は内に深刻な悩みも抱へてゐた。明治天皇のお後継(あとつ)ぎ問題である。皇后にお子様がなく、側室の御子、十五人の中、十人は死産か病気で夭折、成人された男子は、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)殿下(後の大正天皇)ただお一人、しかもご病弱だつた。女子の四人は、竹田宮家・北白川宮家・朝香宮家・東久邇宮家に降嫁され、皇統の存続は、一に嘉仁殿下と御伴侶の双肩にかかつてゐた。

明治の中葉、事の重大さに気づき、それを明治天皇に申し上げたのは、伊藤博文公であつた。天皇は、貴族院議員で、政治問題の話し相手であつた九条通孝公爵に相談された。貞明皇后は実にその九条公爵の第四子、元九条節子(さだこ)さんである。明治十七年六月、東京・神田に生れ、翌月、現在の杉並区高円寺の豪農大河原家に里子に預けられ、農家の子同然に逞しく育たれ「九条の黒姫」と愛称された。

また氷川神社(杉並区高円寺)の氏子の同家両親の神仏を敬ふ家風が黒姫様の心を養つた。この心身の健全さが我が皇室の危機を救つたのである。

明治二十三年、華族女学校初等科入学後は九条家に戻られ、二十八年に中学科進学、三十三年二月十一日、数へ十七歳で、五歳年上の皇太子嘉仁親王と御婚約、妃殿下となられた。その頃、殿下も御健康で左記四人の男子に恵まれ、国民も心より慶祝した。
⑴迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王…昭和天皇 ⑵淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王…秩父宮⑶光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王…高松宮  ⑷澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王…三笠宮

やがて明治天皇崩御、皇后に冊立(さくりつ)後の約六年は大正天皇の健康に問題なく政務も進み、朝鮮や国内各地に行幸啓された。次第に国事多端となり、同十年に摂政(裕仁親王)が置かれた。天皇の病状も次第に悪化、同十五年十二月二十五日崩御され、貞明皇太后となられた。その間、皇太后は病身の天皇を補佐され、また皇宮の監督やハンセン病療養や身障者病院への支援等大活躍された。占領軍の旧宮家の臣籍降下の強制の結果、現在の皇族は、大正天皇・貞明両陛下の御子孫のみとなり、再び皇統継承の困難に直面してゐる。昭和二十六年五月十七日、皇太后が崩御。六十六歳。もし皇太后が生き返られれば、何と仰せられるだらうか。