橋本景岳先生『啓発録』

清水 節金沢工業大学准教授

橋本景岳とその時代

『啓発録(けいはつろく)』は、嘉永元年(一八四八)に、十五歳の 少年だった橋本景岳(左内)によって書かれました。 景岳の生涯は、わずか二十六年で、国家の大事に参画 奔走したのは一年に満たない期間でしかありません。 しかも最期は、幕府の弾圧により、斬刑に処せられる という悲劇的結末に終わりました。したがって、功績 として何か華やかなものがあるわけではないのです。 しかし、多くの 偉人を輩出した 幕末期にあっ て、その人格や 見識は、群を抜 いて優れていた 人物でした。

後に、明治維新で活躍した西郷隆盛は、景岳よりも 七歳年上でしたが「学問や人物において、自分はとて も及ばない」と敬服し、西南戦争で自刃する最期の時 まで、景岳からの手紙を肌身離さず大事にしていまし た。景岳亡き後でも、心の同志と見ていたのでしょう。

また、開明派の幕臣であった川路聖謨(としあきら)は、景岳と 初めて会見した際に、「その議論は実に深刻切実であっ て、自分は半身を斬りとられたような感じがした。一 生の間に多くの人にあったが、これほど卓越した人物 はいまだ見たことがない」と語っています。当時、彼 の存在がいかに大きかったのかがうかがえます。

景岳の卓見

後の時代から見ても、景岳の見識は時代の推移を正 しく見抜いていたと言えます。欧米列強による東アジ ア侵攻が、いよいよ日本に迫ってきた幕末の動乱期、幕府までがどのように時代の変化に対応したらよいの か慌 あわ てふためいている中にあって、景岳は数十年後の 世界と日本の行き先を正しく予測し、開国の必要や富 国強兵、合議政治、有能な人材の登用、和魂洋才といっ た日本の近代化のあり方をいち早く提言していました。

さらに、日本の独立を維持するためには、朝鮮半島 や満洲の併合を必要とするが、当今はそれが困難であ るので、英国またはロシアと同盟国になった方が得策 であること、世界の覇権争いが一段落した暁には、国 際連盟のような組織が出現するであろうといったこと も予見しています。景岳の政治・外交の構想が、明治 以降、そのとおりの展開になったことを考えると、も し早世していなければ、近代日本の中心的な人物に なったに違いありません。

こうした抜群の見識と偉大な精神は、どのように形 成されたのでしょうか。その原点にあるのが『啓発録』 なのです。同書は、彼の人生を貫いた志操が、どのよ うにして堅固なものへと鍛錬されたのかをうかがい知 ることのできるものです。

根本精神を涵養した崎門学

橋本景岳は、天保五年(一八三四)、越前福井藩の 藩医の家に生まれました。名を綱紀(つな のり) 、通称左内と言い、宋の岳飛を慕って景岳と号しました。十二歳のときに 藩儒の吉田東 とう 篁 こう のもとで五年間学びました。景岳の精 神を涵 かん 養 よう する上で、東篁との出会いが重要な意味を持 ちました。東篁は、山崎闇斎(あんさい)の学問を継いだ「崎門 (きもん) 学派」でした。

崎門学の特徴は、儒学で是認されていた易 えき 姓 せい 革命を 否定し、君主に対する臣下としての絶対的な忠義を説 いたことや、空理空論ではなく、現実的で実践を重視 するというものです。景岳は、闇斎の高弟である浅見 絅 けい 斎 さい の『靖 せい 献 けん 遺 い 言 げん 』を愛読書として、日常においても 手放さなかったことから、彼の精神や言行に崎門学が 影響していることは明白です。したがって、東篁のも とで学んでいる中で著された『啓発録』には、こうし た崎門の学風が漂っていると思われます。

『啓発録』を書いた翌年、景岳は家業の外科医を継 ぐべく、大坂にあった緒方洪庵(こうあん)の適々斎(てきてきさい)塾(適塾)に入って、本格的に蘭学と西洋医術を学びました。この 大坂遊学は、飛躍的な成長の機会となりました。最先 端の医学を学ぶために身につけたオランダ語の能力を 活かして、西洋の政治、経済、地理、歴史、科学技術 などを学ぶことで、最新の知識を得て、世界情勢を正 しく把握できるようになったからです。

父親の病によって、二年あまりに及ぶ遊学を中断し、帰国して一時は藩医となります。しかし、ペリー来航 の翌年、景岳二十一歳の時、江戸へ遊学する機会を得 て、杉田成卿(せいけい)(杉田玄白の孫)について蘭学を究めま した。当時、一流の蘭学者であった成卿をして「私の 後継者となるのは、必ずこの人であろう」と言わせる ほど、景岳の蘭学に対する造 ぞう 詣 けい は深まっていきました。

こうして、幼いころから学んできた東洋の学問と、 新たに修得した西洋の学問を高いレベルで統合するこ とが可能となったのです。景岳は、科学技術など西洋 の優れたところは積極的に取り入れるべきとする一方 で、倫理など精神文化は日本の伝統を重視しました。

つまり、外国の文化を無批判に受け入れることなく、 その是非を正直に見究めて、それぞれの優れたところ を採用したのです。広く学びながら、主客転倒の弊に 陥らなかったところにも崎門の学風を見て取れます。

志士としての活躍

安政二年(一八五五)、景岳は、水戸学の大家とし て知られた藤田東湖(とうこ)から、その人物と能力が評価され たことを契機に、福井藩より医員を免ぜられ、藩士の 身分に取り立てられます。そして翌年には、藩校改革 の任を負い、水戸藩の弘道館をモデルにした、藩校明 道館の刷新に取り組みます。彼の筆による「明道館之記」は、水戸の「弘道館記」と類似していることから、 江戸遊学中に水戸学の影響を受けたことが窺えます。

景岳は、明道館での教育において、従来の独善的な 空理空論や字句を 弄 もてあそぶだけの学問を排し、実学精神 に基づいた教育を取り入れようと尽力しました。

安政四年には、藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)の側近となり、 藩政改革に力を注ぐことになります。さらに、将軍徳 川家定の病状が悪化したことで、その後継の人選問題 がおこると、景岳は、藩主の命を受けて、英明な一橋 慶喜(よしのぶ)を擁立する運動に関わっていきます。

この時期、日本はアメリカから通商条約の締結を強 く迫られていました。景岳は、開国して世界に伍 ご して いくためには、国内体制の大改革が必要との認識から、 将軍には外圧に対応できる有能な人物を据え、さらに 身分を問わず、全国から有能な人材を抜擢登用して、 挙国一致体制を取る必要性を説きました。

そして、慶喜擁立の内勅と、日米通商条約調印の勅 許を得るために、上京中の老中堀田正睦(まさよし)を説得し、同 時に攘夷論が盛んであった京都で、三条実万(さねつむ)ら公卿(くぎょう)の説得に奔走しました。しかし、翌年、継嗣問題で紀 州藩主徳川慶福(よしとみ)(後の家茂(いえもち))を推挙していた井伊直弼(なおすけ)が大老に就任すると、形勢は逆転し、これらの政治工 作は、水泡に帰してしまいました。

安政六年十月二日、幕府より将軍継嗣問題に介入したことを問われ、景岳は入獄を命じられました。その 折、『靖献遺言』に収められている南宋の文天祥(ぶんてんしょう)や、 謝枋得 (しゃぼうとく) に由来する詩を吟じています。政争に敗れ、幽 囚の身となった自己を歴史上の忠臣になぞらえて、鼓舞したのでしょう。そして、最後まで忠義を重んじ、 動揺することのないよう決意を固くしたのです。

十月七日、伝馬町の刑場で処刑され、二十六歳という若さで生涯の幕を閉じました。その刑死を惜しんだ 筑後守水野忠徳(ただのり)は、「井伊大老が橋本景岳を殺したる の一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と嘆じました。

『啓発録』の内容

書題にある「啓発」の語源は、当時よく読まれていた『論語』の中の「憤啓(ふんけい)せずんばせず、悱(ひ)せずんば発せず」にあるとされています。これは、自ら学ぼうとする熱意が無い者には、教えることはしないという意味で、学問において何よりも重要なのは、学び手の主 体性であるということを表しています。そもそも、景 岳が『啓発録』を書くことになった動機はどのような ものだったのでしょうか。末文にはその事情が書かれ ていますので口語訳で紹介します。

「私は厳しい父の教えに従って経書や史書に触れて いるが、粗雑で弱々しくなまぬるい性格のため、いく ら勉強しても進歩がないように思われ、情けなくて、 毎晩布団の中でむせび泣いていた。しかし、何とかし て父母の思いに応 こた え、藩や主君のお役に立ち、祖先の 名を輝かすような人間になりたいと思って頑張ってい たところ、次第にその効が表われてきたように思われ るので、心得得たことを備忘のために書き残しておき たい」

このように『啓発録』は、景岳が学問の道に入る上 で、自らを発奮させ、また後日にその初心を忘れない ように自らを戒める目的で、書き留めたものです。

その内容は、次の五項目から成ります。①稚心(ちしん)去る、②気を振ふるう、③志を立つ、④学に勉つとむ、⑤交友を択えらぶ。ここでは、その一部を口語訳を交えながら見て みましょう。

①「稚心を去る」

まず、景岳は、「士の道(公に殉じる覚悟をもった生き方)に入る始め」として、「稚心を去る」必要を 述べています。稚心とは、子供じみた心や態度、すな わち「甘え」を指します。それを断つのは、「何によらず稚ということから離れない間は、物事が上達する ことはない」からだと述べています。

②「気を振う」

「気とは、他人に負けまいとする心持ちのことで、 それを奮い起こし、ゆるみの無いようにする」という ことです。本来ならば、武士がこの気を強く身につけ ていなければならないにも拘わらず、太平の世が長く 続いたために、武士本来の気風や覇気がすっかり喪失 してしまい、近頃では何事も損得で計算し、事の是非 を二の次にして大勢につくといったような情けない武 士が多くなったと、景岳は嘆いています。

そして、公のために尽くす忠義の精神を常に引き立てておくためには、今一度、士気を振い起す必要があると断じています。この項に限らず『啓発録』には、 武士のあり方に関する記述が多く見られます。しかし、 景岳は、医者の家に生まれましたので、武士になるこ とはできなかったのです。

実はその点について、彼の苦悩がありました。同書 の末文に「残念ながら、私は医者の家に生まれた。つまらない医術にあくせくして人生を過ごしたならば、国事に奔走し経世済民を理想とする私の初志を遂げる ことはできないだろう。医者を生 なり 業 わい としながら、志す ところは別にある。こうした私の苦悩を後世の人が知 り、私の志を憐れんでくれたならば、私の生き方を理 解してもらえるのではないだろうか」とあります。医 者の家に生まれながら、分を過ぎた大きな志を持って しまったことへの悲壮感が滲 にじみでています。

しかし、彼は悲観に暮れることなく、立派に家業を 継ぎ、しかも当初の志を忘れずに、医術以外に政治、 経済、科学技術など幅広く学んで、公のために尽くそ うという思いを持ち続けました。後にその能力が認め られ、医員から士分に引き上げられたように、どのような境遇にあろうとも、気を振って努力したことで自 らの運命を切り開いたのです。

③「志を立つ」

『啓発録』の中心となる項です。以下、内容を摘要 してみましょう。

「志とは、自分の心が向かい 赴 おもむくところを言います。 そして、その方向をしっかりと定めて、絶えずその決 心が揺るがないように努力することが大事です。呑気 に安楽に日々を過ごしている中で、志が立つということはありません。読書や先生、友人を通じて学んだことや、困難や苦悩にぶつかったり、発奮したことなどを契機に、志が立ち定まるのです」

「志を立てた人は、どんなに才能が足りず、学識の 乏しい者であっても、段々と目的に向かって進んでい きます。何かをなし得た人達というのは、その志が大 きく 逞 たくま しかったのです」

「注意すべきことは、目標に到達するまでの道筋が 多いと、心が迷い乱されてしまい、志を遂げられなく なってしまうことです。また、志を見失ってしまうこ との無いよう、継続して学問に励む必要があります」

「さらには、先生や友人に相談して自分の力の及ばない部分を補ったり、書物を読んでその中から深く心に 感じた部分を書き抜き、常に見える場所に示して、い つも自己を省みて足らない部分を補う努力をし、自分 が前進するのを楽しめるようになることが大切です」

景岳はこの項で「志のない者は、魂の無い虫と同じ だ」と言い切っています。志を立てるまでは、ただの 生理的存在でしかなく、志を持って初めて人格を備え た存在として認められるということです。

現在は、二十歳をもって「成人」と言うように、一 人前の人間となるのを一律に年齢で区切っています。 しかし、一人前の人間であるかどうかを判断する上で、 年齢はそれほど決定的な要素にはならないでしょう。 「子供のような大人」もいれば、その逆もあるからです。

そう考えると、「大人になる」ということに関して、 昔の方がより本質的だったと言えます。立志をもって 成人たる道に入る第一歩とするという考えは、同時代 の吉田松陰の「士規 七則(しきしちそく )」にも表れています。

④「学に勉む」

この項では、景岳の学問観がはっきりと表れています。景岳は、学問の本旨とするところは、忠孝の精神 を養うことと、文武の道を修業することの二つだと断じています。単に机の上での学習だけではなく、心・技・ 体を鍛錬することで、物事の道理に明るくなり、さら に、世の情勢の変化に即時に適応して、是非の判断を 誤らないようになることが学問の目的であると論じて います。そして、詩を作ったり読書をするというのは、 あくまで学問の手段であって、その目的や本質ではないと喝 かっ 破 ぱ しています。

こうした学問に対する態度は、山崎闇斎の流れを汲 むものと言えます。今日、一般的に学問の目的と言う と、自分の立身出世のためであったり、あるいは人か ら偉いと思われたいということだったりします。こう した学問は、物事の価値基準が、富や名声という自分 の外側(他人)にあるため、「人のための学問」と言 います。

それは、自分の心を鍛錬し、正しい道を生きようとす るもので、技能の習得は二の次としました。この「己 のための学問」に関して最も厳正な態度を取ったのが、 崎門学派なのです。景岳が吉田東篁を通して、崎門の 影響を受けたことは先に述べましたが、ここにもそれ が明瞭に表れていると言えるでしょう。

⑤「交友を択ぶ」

この項では、学問を深めていく上で、交わるべき友 人をしっかり択 えら ぶ必要を説いています。『論語』に「君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔(たす)く」(立派な人は、学ぶ過程で友と呼べる仲間と交流し、その交流 によって正しい道を歩むことができる)とあるように、 古くから切磋琢磨の重要性が言い伝えられていまし た。景岳は、そこからさらに進んで、友人は、みな大 切にしなければならないが、その中には損友と益友が あって、自分の過ちを指摘し、戒めてくれる本当の友 を見抜くことが大事だと述べています。

以上のような内容を、今の中学三年生に相当する少 年が書いていることに驚かされるのは言うまでもない ことですが、同時に感心させられるのは、非常に論理 的な文章になっている点です。

例えば、各項の冒頭部分で「稚心とは…」「志とは…」 とあるように、概念定義をしっかりおこなった上で、説を組み立てています。さらに「稚心を除去しないで は、士気が振るわず、いつまでも腰抜け侍になってし まう」とあるように、最初に①「稚心を去る」を述べ るのは、次の②「気を振う」ための前提であるからで す。そして「気を振い立たせただけで志が立っていな いようでは、氷が解けるように後戻りする」ために、 その次に③「志を立つ」の項が設けられている訳です。 そして、志を見失わず、より 逞 たくま しいものとするため の具体的な工夫や注意として、④「学に勉む」、⑤「交 友を択ぶ」が配置されています。

したがって、『啓発録』の中で景岳が最も重要視する ものは、本論部分に相当する③「志を立つ」であるこ とが文章構造からもはっきりと読み取れます。

『啓発録』によって鍛錬された志操

自分をどのような人間に育てるのか、ある程度の年 齢に達したならば、それは自分自身の責任です。そして学問の究極的な目的は、自己の身を確立することに あります。『啓発録』には、自己確立に目覚めた橋本 景岳が、本格的に学問の道に入ろうとした際の覚悟が 書き込められていますが、その覚悟は、彼の人生の重 要な節目に再認識されています。

『啓発録』の末文には、景岳が二十四歳の時に古い本を整理している中で、九年前(十五歳の時)に書い た同書を見つけ出し、清書し直して門弟たちに与えた 際の事情が書かれています。

その時期、彼は藩校明道館の学監心得(がっかんこころえ)(教頭)に 命じられ、人を教え導く立場になっていました。九年 前の『啓発録』を読み返した景岳は、「その言葉は浅薄であるが、当時の気概や時世に対する痛憤はむしろ 今日以上のものがあったと言わざるを得ない。…… ああ、十年前に既にこうであったのに、今日はこのような状態である。今から十年後に、自分の心境や境遇 はどうなっているだろうか。その時にこれを読み返し て、赤面せずにいたいものだ」との思いを綴 つづ っています。

景岳は、この九年間に故郷を離れ、内外の最先端の 知識や技術を学んで大きな成長を遂げています。それ でもなお、少年の日に書いた自戒の文章が、自身の精 神を痛烈に奮い起こすものとして迫ってくると認めて いるのです。そして、十五歳の時の自分に恥じない生 き方をしたいとの決意を新たにしています。

この末文を書いた二年後、彼は安政の大獄によって 処刑され、一生を終えることになりました。まさしく 『啓発録』に書かれている信条を原点とし、それを体 現し、貫き通そうとした人生だったと言えるでしょう。

大人として自覚を持つこととは

民法が改正され、令和四年から、我が国の成年年齢 は、十八歳に引き下げられます。成年(成人)とは、 身体的・精神的に十分成熟していることを指します。 しかし現在、自分は「大人である」と胸を張って言える人や、「大人である」ということがどういうことか 子供たちに説明できる人が、どれほどいるでしょうか。

幕末の時代と比べると、科学技術の発達した今日は、 幼い子供を労働力として求めなくてもよいほど経済的 に豊かになりました。また社会のシステムが肥大化し て、社会人になる前に身に着けるべき知識や技術の量 も増えた結果、保育園から高校、あるいは大学までと、 学校で過ごす期間が長くなりました。それは同時に、 自分が子供か大人かよくわからない期間が長くなって いるということです。さらに、権利や自己主張ばかり を教え、国民としての義務を 蔑 ないがし ろにした戦後教育や 社会の風潮も、大人としての自覚を持ちにくくしてい る要因と思われます。

このような時代だからこそ、「大人としてのありよ う」が具体的に述べられている『啓発録』に学ぶ意義 は大きいのではないでしょうか。