国家と人生

小村和年/前呉市長 日本学協会常務理事

皆さん、ようこそ千早鍛錬会に参加をして頂きまし た。私自身が学生時代以来五十年振りの参加で、初めてお会いする人が殆どですが、こうしてお話しの出来 ますことを嬉しく思います。

私は幼い頃から挫折することも多く、大きな不本意 感や渇望感の中で、いつも「どう生きたらよいか」「人 生における自己実現とは どういうことか」というような問題意識をもって 過してきました。

「どう生きたらよいか」 ということは、それぞれ の皆さんにとっても永遠 のテーマであろうかと思 いますが、私自身は人生 の半ばにおいて、「自分の命には限りがある」「国家なくして人生はない」と いうことに気付いてから、自分一個の小さな欲から少 し抜け出して、「生き筋」のようなものが決まり、人 生が大きく展開してきました。

そこで今日は、それぞれの人の「人生と国家がどの ように関わっているか」ということについて、私自身 の半生を通して思うことを申し上げ、ご一緒に考えて みたいと思います。

一 人間とはいかなるものか

①司馬遼太郎の人間観

三十年程前、歴史もののテレビ番組に司馬遼太郎が 出ており、次のような発言をしたのを鮮明に覚えています。

歴史上の人物を多く調べてみて、およそ社会の中で 存在感を持った程の人物は、
㋐商人型(究極の価値が金儲け、財産欲)

㋑役者型(究極の価値が自己顕示欲、名声欲)

㋒政治家型(究極の価値が権力欲、立身出世欲)

の三類型のどれかに当てはまるとして、大楠公をはじ め多くの歴史上の人物についてあたかも判定を下すか の体で、解説をしておりました。司馬遼太郎は、その 小説の中で面白い人物像を数多く描いておりますが、 その根底には、人は突きつめれば欲で動くものだとい う人間観であったことが分ります。

②マズローの欲求の五段階説

米国の心理学者アブラハム・マズロー(一九〇八~ 一九七〇年)は、「人間の動機づけに関する理論」と して、有名な「欲求の五段階説」を唱えました。 ㋐第一段階、生理的欲求(生命を維持したい) ㋑第二段階、安全の欲求(身の安全を守りたい) ㋒ 第三段階 、所属と愛の欲求(集団に属し他者と交 わりたい) ㋓第四段階 、承認の欲求(他者から認められたい) ㋔ 第五段階 、自己実現の欲求(天分能力を発揮して 創造的活動をしたい) ㋕ 第六段階 、超越的自己実現の欲求(自己を超えた 価値のあるものに貢献したい)

第六段階は、マズローが晩年に於て付け加えたもの ですが、人は成長すると「自己実現」しかも、最終的 には自己を超えた崇高なるものに自己を捧げたいとい う欲求を持つに至るとしています。

③ビクトール・フランクルの人間観

人間というものの本質を考える上で、もう一人私が 驚嘆させられたのは、オーストリアの精神科医(心理 学者)ビクトール・フランクル(一九〇五~一九九七 年)でした。この人はユダヤ人であったため、第二次 世界大戦中、ドイツ軍によって強制収容所に送られ、 足掛け三年に亘る収容所での生活、出来事、人々の行 動、心の動き等を精神科医の目で克明に記録し、戦後 『夜と霧』と題して出版しました。

強制収容所に送られると、まず八割の人はそのまま ガス室に送られ、強制労働に耐えられそうな者だけが 残されたということで、それも毎日の苛酷な環境の中 で次々と死んで行く。そうなってくると、殆どの人は 自分が生き延びること以外には何の関心も持たなくな り、隣の人が死んでいても全く心が動かなくなるとい うことですが、その一方で、ごく少数であるが身体の 弱った人に自分のパンを分け与えるというような人も おりました。

そんな中で、最後まで生き延びた人はどんな人で あったか、それは体力があるとか身体が頑強だとかい うことではなく、「自分が何のために生きるか、生きる目的を失わなかった人」であったとし、そこからフ ランクルは「人間とは意味への意思を持つ存在である」 という人間観を唱えました。

人間の本性をどこに見るか、その人間観によって人 生の道筋は大きく違ってくるように思われます。

二 国家とは何か

しからば、人はいかにして「自己実現」「生きる意味」 の実現、即ちその本然を発揮して人間たり得るので しょうか。

①アリストテレス

まず想起されるのは、ギリシアの哲学者アリストテ レス(BC三八四~BC三二二年)の「人間はポリス 的動物である」という言葉です。これは「人間は社会 的動物である」(群れをなして生きる動物)という意 味ではなく、人は、国家を持つことによって秩序ある 生活を営むことができ、善をなすという本性が発揮さ れ、文明・道徳を持つことが出来る、即ち、人は国家 を持つことによって初めて人間(道徳的存在)たり得 るということであります。アリストテレスは、国家は人為的なものではなく、人間の本性に基づくもの、自 然に基づく存在の一つであると言っております。

②上杉慎吉博士

上杉慎吉博士(明治十一~昭和四年)は、「国家は 最高の道徳である」という言葉で、人間の本性と国家 の関係を次のように敷衍(ふえん)しております。

国家は最高の道徳なり。人の生くる、各々皆その性を遂げんとす。性に 率(したが)うこれを道と謂 い う。如何にか 性を遂げ道を行うや。人と人とは相関し、連続す。各人はこの相関と連続の間において、その天賦に応ずるの地位を占め、性能に合するの作用を行い道徳を充実し発展す。父子兄弟夫婦朋友の倫常は、その最も簡単 にして基本的なるものなり。推し及ぼして一切万人に 及ぶ。各人の生存と活動とは、皆その原因を一切万人 に有し、その結果を一切万人に波及せざるなし。社会 は真に連帯なり。しかして人と人と平面的に相関連帯 するのみならず、縦に時を異にして連続す。霊魂は真に不滅なり。祖先ありて我あり、我ありて子孫あり、 我に先だてる一切万人は、我の原因にして、我が一挙手一投足も、未来永劫一切万人に及びて滅せず。人と は個人に非ずして、かくの如き相関と連続の人なり。

人類文化の発展とはその相関と連続の発展なり。文化の発展は、人の性を遂ぐるの発展なり。文化は即ち道徳なり。文化と道徳とは、国家において発展す。国家ありて、人の相関と連続は完全なることを得。人の相関と連続とを最も十分ならしむるの組織は、国家なり。 父子なければ親なく、兄弟なければ友なく、夫婦なければ和なく、朋友なければ信なし。国家なければ道徳なし。人は人にして人に非ず、人その性を遂ぐるを得 ず。国家は最高の道徳なり。(「億兆一心世々その美を 済す」大正八年)

国家と人生の関わりについて、これ程、本質的に的 確に述べられた文はないと思います。細かい字句の解釈は省略して、重要なポイントのみ申し上げます。

○『中庸』の冒頭に、「天の命之(これ)を性と謂(い)ひ、性に率(したが)ふ之を道と謂(い)ふ」という言葉がありますが、宇宙 の造化の原理、エネルギーを天分資質として授けられ たものを性といい、その人性の自然に従うことを道と いう。従って、人は本来自分に与えられた天分を生か して宇宙(社会)の営みに参加をすることによって自 己実現をするのが本然の姿である。(これは自然界で 草花が花を咲かせ実を結ぶことと同じ原理である)。

○人とは、個人として孤立して存在するのではなく、縦(時間)、横(空間)の連続、相関の中で存在し、 そこで天分を発揮して文化、道徳を発展させるもので ある。

○人の縦横の結びつきを最も強固ならしめる組織は 国家であり、国家があって初めて人は与えられた天分を発揮して文化、道徳を発展させることができる。即 ち人は人たり得るのである。

おおよそこんな主旨かと思います。

内容を少し敷衍(ふえん)しますと、人がいくら天分を受けて 存在していると言っても、自然のままで狩猟や採集を して、自然界の脅威にさらされながら生きていたので は文化や道徳の発展は望めません。

こういう中にあって、人の本性を飛躍的に発展させ、 他の動物と全く異る領域を創り出すことができたの は、国家というものが誕生したからであります。

人間の資質・能力が大きく発展するためには、生命 の安全が確保され、治安が守られ、ルールが敷かれ、 分業が広く発達することが不可欠ですが、これは国家の誕生によって初めて可能であります。

文化道徳の発達には、横の分業のみならず、これが 次の世代に縦に継承されていくことが不可欠ですが、 これも国家があって初めて可能であります。歴史というものは、国家があって展開するものです。

我々日本民族がたとえどんな資質を持っていたとし ても、日本という国家が建設されなかったならば、依 然として縄文、弥生の生活を続けていたと思われます。

これを証するものは、北米のインディアンやシベリ ア、アフリカやオーストラリア、ニュージーランド等 の先住民も、それぞれに相当規模の部族社会を形成し、 独自の文化を持ちながらも、国家という強いまとまり を持たなかったためにそれ以上には発展せず、他の民 族に征服されることになりました。

今、我々は幅広い分野で自分の適性に合う職業に就き、力量に応じた社会的立場に立って、天分を生かして活動することによって、社会に貢献し、自己実現が 図られていますが、これは日本という国家があって初 めて可能なことです。

③社会契約説

㋐人の相関、連続といったつながりの上に国家を考 えようとするのに対し、個人を自覚独立したものとし て、その約束事の上に人為的に国家が成立したとする 仮説が社会契約説です。

ご承知のように、これを唱えた代表的な人物はホッ ブス(一五八八~一六七九年)、ロック(一六三二~一七〇四年)、ルソー(一七一二~一七七八年)で、 少しずつニュアンスも異なり、帰結するところも異なっていますが、いずれも自然状態において、自覚独立した個人が存在していたことを前提とし、そのままでは人の集団として収拾がつかなくなるので、自然権の一部を放棄して国王(政府)に委ね(社会契約)、 国家が成立したというものであります。

㋑社会契約説に対しては、ドイツ歴史学派等から、 人間の歴史事実に照して全くの空論であると批判されていますが、私は国家状態を説明する仮説としても、 現実に存在する国家の成立を説明し得ないと考えます。それは、第一に、国家成立以前に自然権をもった自由で独立 した個人を想定することは、荒唐無稽である。

第二に、契約というものは国家があって初めて守ら れるもので(これを守らせる絶対的実力が統治権力)、 それ以前の約束で国家が成立したとするのは本末転倒 である。

人の集団というものは、勝れたリーダーに率いられ て初めてまとまりと秩序と方向性が与えられるもので、烏合(うごう)の衆が約束して国家が成立し維持されること など到底あり得ない。これは、現在世界で起っている 国家の誕生、崩壊の状況を見ていても明らかです。

三 日本とはどういう国か―万邦無比

我々は抽象的な国に生きている訳ではなく、「日本」 という実在の国に生れ、ここで自らの人生を創造して います。

その日本とはどういう国か。世界中の国を客観的に 比較することは出来ませんが、私は国の行政マン、地方都市の首長として国や地方の実際の運営に携った経 験から、いくつかの点で、日本は世界に類のない程素 晴らしい国だということを痛感します。

その第一は、世界の中でも最も政情、民生の安定した国の一つであるということです。治安が確保され、 安全が守られ、言論が自由、教育が普及し、失業率が 低い、医療福祉が充実し、国民皆年金、皆保険、収入 に応じて保険料を払い込みさえすればどんな治療でも 受けられ、しかも申し込みをすればたいていの医療機関でその日の内に診て貰える。こんな国は世界でも殆 どありません。むしろ、この共産主義的な施策のあり 方が、国の財政を悪化させると共に、国民の自立心を 低下させることが心配されます。

第二は、国民の道徳性が高いということです。正直、 勤勉、清潔、共生……こういう倫理観、価値観を多くの国民が共有するということは一朝一夕で出来るものではなく、遥か神話の時代から何代も何代も受け継が れてきた宝物です。電車の中で忘れたものの大半が 返ってくるような国は日本以外には無く、世界の中で 最も信頼度の高い国民であることに感謝し、これを 守っていく努力をしなければなりません。

第三は、独自の高い文明を有する国だということで す。米国の政治学者サミュエル・ハンチントンが一九 九六年に『文明の衝突』という本を出版して、東西冷 戦が終結した後の世界は、文明と文明の衝突が主要な 対立軸になると述べて大きな話題となりました。その 中でハンチントンは、世界は八つの主要文明(中華、 イスラム、ヒンドゥー、日本、東方正教会、西欧、ラ テンアメリカ、アフリカ)に分けられるとし、日本は 世界で唯一、一国家一文明の国であると述べていま す。

仏教、儒教といった宗教、哲学から、彫刻絵画、建築物等の芸術工芸に至るまで、近隣諸国に源流があっ たとしても、日本に入って暫くすると、独自の精神性 をもって深化し、日本化されて、千年以上に亘って生 命を持ち続けていることは、我々の大きな誇りとする ところです。

こうした特長をもたらした要因は、日本が島国で あったからというような単純なものではありません。それはフィリピンやインドネシア、オーストラリアと いうような島 嶼(とうしょ) 国にも、イギリスにすら独自の存在感 のある文明は残っていないことからも明らかです。

やはり、日本が遥か昔に統一国家が建設され、天皇 を中心とした強いまとまりのもと、独自の意志をもっ て周辺地域からの文明を受け入れ、消化し独自化して きたからであると思われます。文明というものは、しっ かりした国家があって初めて発展するものだというこ とを痛切に感じます。

現実の国家が成立するためには、「画定された領土」 「相当数の人民」と共に、「統治権力」の確立が要件と なります。

統治権力とは、秩序を確立し、守らせ、外敵から領 土、人民を守る「実力」そのものでありますが、日本の場合には、恐らくは建国当初から、神武天皇によって力と徳が一体のものとして確立され、それがご子孫に伝えられ、歴代天皇によって具現化されたことで、 力と共に徳性を備えなければならないというリーダー 像が、理念の世界だけでなく、現実の次元で醸成され たように思われます。

日本ほど各界のトップに能力と共に徳性が求められる社会はないと思われます。儒教の国と云われる隣国 と比べてみても、これが日本という国の大きな特長であることがよく分かります。

考えてみると、日本の皇室は、次の四点において、 世界に冠たる王室と誇りに思うところであります。

㋐日本民族固有の王室である(ヨーロッパの王室の 多くは、他民族の出身)。
㋑建国の父であり、そのご子孫が歴代天皇として、 国民の中心となって国難を乗り越えてきた。
㋒建国以来二千年以上に亘ってその統治が中断され なかった。
㋓先祖を重んじ、徳性を磨かれることが一貫して変 らない(洋の東西を問わず諸外国では、名君と言われた王の何代か後に暴君が出て国が乱れた例は珍し くない)。

こうした天皇のありようというものが、国家の大き な安定要素になっていることに、我々は感謝しなければならないと思います。

四 国家と人生

重ねて確認しますが、我々は個人として一人で存在 している訳ではありません。必ず先祖があり、子孫が あり、この縦のつながりと、家族、友人、地域社会等、 横の広いつながりの中での存在であり、それは国家の内にあって初めて全うされるものです。

今我々は、それぞれの資質に応じて学校に行き、様々 な職業に就き、力量に応じた立場に立って自己の本然 を尽しておりますが、これらはすべて日本という国家 があるからこそ可能なことであります。もしこれが、 未開の地域や生命の安全も確保されていないような地域であったならば、どんな資質をもっていたとしても、 それを生かす場はありません。

マズローは、人間の最高の姿は「超越的自己実現」 だと言い、国民教育の師父と云われた森信三先生は、 「人間の天分というものは、自己を超えたある何物か に自己を捧げるという気持ちがなければ本当には発揮 されない」と言っておられます。

我々が自分を超えたものとしてすぐに想起されるも のは、家族、地域社会、勤めている会社、団体、信仰する宗教等いろいろありますが、これらを包括し、我々を守り、我々の人生を成り立たせてくれているものは、 実に国家なのです。我々を取り巻くこれらのもので、 国家なくして存続できるものは絶無と言ってよい。

我々の人生は、国家の内にあって展開し(世界中どこにいても同じ)、自己の内に国家(という意識)があって真の意味での自己実現がある。その意味で、我々の 人生は日本という国家と一体不可分であります。

私は大学卒業後四十五年間、国の行政官として、またふるさとの市長として、失敗もあり反省することも 多くありますが、体力も気力も、知力も肚力もその殆 どを傾け尽して仕事をさせて頂いたという実感があり ます。

この間、日々の実務の向こうに日本国家という意識 が強くあったからこそ、危険な仕事にも不思議な程勇気が湧き、苦しいときにもやり甲斐を感じ、報われな いときにも怨みに思うことなくやってこられたような 気がしており、これは大変幸せなことでありました。

人は責任を持った途端に、目標(ありたい姿)と現実の間に大きなギャップが出現するものですが、それ を克服するため悪戦苦闘する過程そのものが、自分の 人生における自己実現であったような気がします。

今日は時間の都合で、国家を蚕食するおそれのある グローバリズムとの関係について触れることは出来ませんでしたが、この妖怪のような潮流の中でこそ、我々 は国家というものの大切さを認識し、日本国家として の強いまとまりを持って進むことが絶対的に必要であると確信します。