『平家物語』・史実と伝承のブレンド感を味わう(Ⅰ)

中田久実子金沢工業大学職員 元高等学校教諭

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり

沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす

という一節は、よく知られている『平家物語』の冒頭文です。この「諸行無常」は、軍記物語である『平家物語』の数々の場面に顕著に読み取れます。壮絶な武将の最期の場面は、その武将が豪快勇猛であればあるほど凄すごみも悲壮さも一層強く感じさせます。

小林秀雄氏が『平家物語』の評論(昭和十七年著)の中で、「『平家』のあの冒頭の今いま様よう風の哀調が、多くの人を誤らせた…」と指摘しておられるように、あまりに「諸行無常の響き」に引きずられ過ぎてはならないのかもしれません。しかし、基本的には、どんなに栄華を誇り権勢を振るっても必ず終しゅう焉えんがある切なさやさみしさが、平家の人々や平家を討伐する側の人々の諸相から漂ってきます。そして、それはまた、物語に登場する女の人の生き方にも確かに読み取れます。その話の一つを、次に取り上げてみます。

『平家物語』に登場する白拍子

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、白拍子(しらびょうし)と呼ばれる女性が注目されるようになります。その多くは、水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)の装束で太刀を帯おびる男装をし、今様などを歌い舞ったようです。第一巻の六「祇王(ぎおう)」の段には、その現代の女性エンターテイナーのような白拍子の中でも、特に美しく技芸に優れた祇王、祇女(ぎにょ)、仏御前(ほとけごぜん)が登場します。当時の白拍子にとって、清盛という偉大な権勢者に召し抱えられ、この上ない幸運を手に入れます。「祇王」の段の概要を次に記します。

冒頭には、「入道相国(しょうこく)(清盛)が一天四海(天下)を、掌(たなごころ)の内に(手の内に)治められているとき、世間の誹 そし り(非難)をも 憚 はばか らず、人の 嘲 あざりをも顧みず、不思議なことばかりなさった」と あります。

その清盛が、当時の風潮に従って、極めて評判 の高かった祇王・祇女という白拍子の姉妹を自分 の屋敷に住まわせ 愛 いつく しんでいました。そこへ、 加賀の国から上京し、美しく歌舞も極めて優れて いると評判の白拍子が現れます。これが仏御前で す。清盛に認められたくて屋敷を訪れますが、祇 王・祇女を大切にしている清盛は会おうともしま せんでした。ところが、祇王は、かつての自分の 立場を思い返して、一目だけでも姿など見てはど うかと勧めたのです。「まだ幼い身で、たまたま 思いたって参上したものを、思いやりのない言い ようで帰らせるのはかわいそうです。…私も白拍 子として身を立ててきたので、他人事とも思えま せん。…ここはお気持ちを少し変えて、呼びもど して御対面ください」と。ほかならぬ祇王の親身 の説得を受けて、清盛は立ち去ろうとする仏御前 を呼びもどし、「今日の参上を許したのは、本来 はあり得ないことで、祇王が何を思ったのか、あ まりに勧めるのでかなったのだ。対面したからに は、声を聴かないわけにはいかない。今様を一つ歌ってみよ」と命じます。そこで、仏御前は、即 座に今様を一つ、次のように、めでたい言葉を取 り込みながら歌い、三度繰り返します。

「君をはじめてみる折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ」これには、「見聞の人々、みな耳目をおどろかす」とあり、清盛は、この後の舞姿にもほれ 込み、そのまま強引に屋敷に住まわせてしまいま す。思いがけない事態に、祇王は清盛の屋敷にい ることはできないと判断し、妹の祇女と母を伴っ て祇王寺に移り住みます。

しかし、しばらくして、清盛は祇王に、屋敷に 参上して仏御前の心を安らげるために歌舞を披露 するように命じます。その際の心無い仕打ちに祇 王は悲嘆のあまり、次のような今様をうたいま す。「仏も昔は凡夫なり   我等も終には仏なり   いずれも仏性具せる身を   へだつるのみこそ悲 しけれ」と。ここでも「その座にいくらもなみゐ たまへる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に 至るまで、みな感涙をぞ流されける」と書かれて おり、その心情が多くの人々の胸を打つ様子が描 かれています。このことがあって後、事情を理解 した仏御前は、自分だけが果報を独り占めにするわけにはいかないと決意を固め、こっそりと屋敷 を抜け出し、祇王たちの住まう寺へ向かい、共に 仏道に専心することを許してほしいと請い願った のです。

こうして、一 世(いっせい)を風 靡(ふうび)した三人の白拍子の美女は、 世情の移り変わる無常観を共有しながら、庵で慎まし く暮らし、極楽往生したという筋書きです。この話に 関しては、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』にもほぼ同じ内容が記載さ れています。

権力をほしいままにする専 せん 横 おう な清盛のふるまいを表 している話ですが、祇王、祇女、仏御前の立場から考 えれば、この三人の女性たちも、盛者必衰の定めに逆 さか らえない生き方をしたと読み取れます。

白拍子・仏御前の後日譚

『平家物語』の「祇王」の段は、三人の白拍子が共 に暮らしたところで終わりますが、この後、仏御前の 身にどのようなことが起こるかを伝承話が残していま す。加賀の国の出身であった仏御前は、祇王寺でしば らく暮らし、懐妊していることに気付きます。尼寺で 出産することはできないため、祇王、祇女に別れを告 げ、身重(みおも)の体で故郷である加賀の「原」(現在の小松 市原町)へと旅立ちます。当時は、京から白山の険しい山道を徒歩で越え、加賀に入りました。女性が、し かも妊娠した体で山越えの旅をするのですから、どれ ほど難儀であったか容易に推測できます。

この後日譚(ごじつたん)に関わる文献は、一様に仏御前の生没地 が「原」であり、帰郷後、仏御前が仏道に専心して極 楽往生を遂げたと記しています。また、『仏御前影像 略縁起』という文献には、「白山麓の木 きなめり 滑の里に来た時、 清盛の御子(男子)を出産し、その子は直ぐに死んで しまったため、亡き子を悼み、草堂を建てて安産の守 護神を祀(まつ)った」ことが記されています。

権勢を誇る清盛に愛された仏御前は、山あいの土地 や故郷では特別な存在であったに違いないのですが、 彼女に関する伝承話は、この後、長い時を超えて、暮 らした土地の風俗・風習・信仰とも絡んで、史記・軍 記とは異なる興味をそそるものになって残されていき ます。次回は、後日譚をもう少したどってみます。