新しき年よ

平 泉  澄
文学博士

昭和三十一、丙申の年を送つた我等は、昭和三十二、丁酉の年を迎へた。新しい年の始に当つて、過去をかへりみ、将来を望み見るに、感慨の頗すこぶる深きを覚える。

昨年の間に於ける重大事は、何であつたらうか。世界全体の動きの中に於いて之を見れば、スエズの紛争と、ハンガリーの動乱と、此の二つこそは、世界全体の人々の手に汗を握らせ、報道の至るごとに、或は喜び、或は憂ひ、或は怒り、或は憤いきどおらしめた所の、即ち全世界の関心の的となつた問題であつたばかりで無く、恐らくはそれが、やがて世界史の中の大きな転回点となる重大事と見てよいであらう。

ハンガリーの歴史は、之を回想するに、我等の胸を打つ事が多い。私は曾て、ドイツより、ギリシャへ赴く途中、此の国を通つて、其の都ブダペストに、数日滞在した事がある。当時求めた絵葉書の中に、特に目をひいた物が二つあつた。

その一つはシュテファン一世(Istvan, 独Stephan, 英Stephen)の肖像であり、その二つはハンガリー国領土の地図であつた。ハンガリー人は、自ら称してマジャール(Magyar)といふが、そのマジャールの原住地は、ウラル山脈西南方の地に在つて、それが漸次西方に移動し、やがて西暦八九五年の末に、重ちょう畳じょうせる山脈を越えて、今のハンガリーの地に入り、九〇六年頃、その征服を完成したといふ。而しこうして之を統率し、建国初代の国王となつたのは、アールパード(Arpad)であつたが、そのひきゆる所のマジャールは、少年の日より騎射を善くし、且つ投槍の妙技を有し、向ふ所、敵無く、四隣の脅威となつた。そのアールパードより、百年おくれて立つたのが、シュテファン一世であつて、その治世は九九七年より、一〇三八年まで実に四十年の長きにわたつた。彼はこの間に、祖先の遺業をついで、国家の統一を完成すると共に、キリスト教に改宗し、フランク王国にならひ、文化を採用し、行政組織を確立した。それは封建制度とはちがつたもので、租税の如きも、三分の二は王室の大蔵に入れ、残り三分の一は、州知事が之を保管して、行政費に宛てたといふ。ハンガリーでは、頗る此の王を尊び、之を聖徳王(独 Der Heilige Stephan, König von Ungarn , 英 St.Stephen,King of Hungary)と讃美してゐるのである。

即ち其の功業に於いては、我が国の聖徳太子に似たる所ありとすべきであらう。而して其の法廷を開くに、木の下を以てしたと伝へられのは、我が国では、孝徳天皇紀に、大槻の樹の下に群臣を集めて盟ちかはしめ給うたとあるを連想せしめるのである。ともかくもハンガリーは、一千年の歴史を有する古い国であつて、一千年前の国王を尊び、その尊信の情を、絵葉書に託してゐるのであつた。尚しょう古この国といつてよいであらう。さういへば今一つ挙ぐべきは、その姓名のよび方であらう。何人も知るが如く、東洋に於いては、豊臣秀吉といふやうに、姓を先して名を後にし、之に反して西洋にあつては、オリーヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)といふ風に、名を先にして姓を後にする風習であるが、ハンガリー人は、ヨーロッパの真只中に在りながら、祖先以来の習慣を守つて、今も猶なお、東洋風に姓を先して、名を後にしてゐるのである。操守の民と言つてよいであらう。

次に絵葉書の第二種、領土の地図に就いて説かう。ハンガリーは、建国以来一千年の間に、或は蒙古の侵寇を受け、或はトルコの為に占領せられ、又はハプスブルグ家の抑圧を蒙むり、オーストリアの属領となり、種々の苦難を経て来たが、先の第一次世界大戦の後、西暦一九二〇年六月、トリアノン(Trianon)条約によつて、その領土は四分五裂の憂目にあつた。即ち元は、三十二万五千四百十一平方キロであつたものが、東はルーマニアに、南はユーゴースラヴィアに、而して北はチェッコスロヴァキアに奪はれて、残る所は、わづかに九万一千百十四平方キロとなつて了しまつた。即ち領土の三分の二以上をもぎとられて、残りは三分の一にも足らぬといふ悲運に陥つたのである。ハンガリーは之を悲しみ、絵葉書の一面に元の領土を、他面には今の領土を記して、一千年の歴史を有する古き国は、むざんにも分割せられたりとして、之を国の内外に示し、その注意を促してゐたのであつた。絵葉書の中には、別に趣向をこらして、一部に手をかけて動かす時は、旧領四分し、逆に動かす時は、四分された旧領ことごとく元に復帰する仕組にしたものもあつた。

此の珍しい仕組のものを、戦災で失つて残念に思つてゐたところ、石井(正美)陸軍少将が、自分も求めて置いたからと云つて、一葉恵贈せられた上に、別にウヰスキーの瓶一つ添へてくれられた。それはブダペストの議事堂を見にいつた時、求められたものださうであるが、瓶の表にハンガリーの四分五裂せられたる領土の地図をゑがき、それにハンガリー語で「否、否、断じて」と書いてある。ハンガリーの悲運と、同時に国民の悲憤とは、是等によつて、極めて簡明に、率直に、而して大胆に表現せられてゐるのであつた。かくの如く奪ひ去られたる領土の一部分は、その後、独伊両国の援助によつて、一時之を取りもどす事が出来たが、第二次世界大戦に、独伊両国の敗れ去ると共に、領土は元の如く削減せられ、而してソ聯(連)の強圧は、ハンガリーの上に、大磐石の如くに、のしかかつて来たのであつた。

千年の歴史を誇る国ハンガリー、聖徳王シュテファン一世を讃ふる国民、四分五裂の悲運に遭つて憤激やむ能はざる民族、それがソ聯の強圧の下、鉄のカーテンのかげに姿を没してより、かれこれ十年、我等はこの国に就いて、殆んど聞くところが無かつた。しかるに昨年十月の下旬に至り、突如として起つたブダペストの動乱は、全世界の視聴を集めた。

問題の起りは、十月二十三日、ブダペストの国会議事堂前の広場に於いて、一万の学生が集まり、ナジ前首相の復帰を要望したところ、ソ聯の戦車が之に砲火をあびせた事に端を発した。それより砲火は砲火を以て報いられ、血潮は血潮を以て洗はれて、動乱はハンガリー全土に波及し、一旦は自由独立の旗、勝を制するかに見えたが、ソ聯が其の強力なる軍隊を以て徹底的弾圧に乗りいだすに及んで、自由の旗はふみにじられ、独立の人は倒され、ハンガリーは再び鉄のカーテンのかげに隠された。

ハンガリーの独立は、かくして一応不成功に終つたやうである。しかしながら此の運動が、深き国民感情に根ざし、ひろく少年少女の心を動かし、流血に恐れず、砲火に屈しない勇気の高揚を示した事を考ふる時、それは必ず問題を将来に残してゆくであらう。

今日世界を二分して其の一を保つと云はれるソ聯、冷酷の哲学と苛か察さつの政策とを以て世界の恐怖となつてゐるソ聯。そのソ聯の勢力を憚らず、わづかに九万平方キロの土地、八百万の人口を以て、敢て独立の旗を立てようとしたハンガリー、それは必ずや世界歴史の上に、重大なる意義をもたらさずには止まぬであらう。

スエズ運河の紛糾は、歴史的に之を観れば、大英帝国凋ちょう落らくの象徴である。大英帝国は、多年にわたり、世界の最大最強を誇とした。それは、七つの海を支配すると豪語した。七つの海は、北大西洋、南大西洋、北太平洋、南太平洋、北氷洋、南氷洋、及び印度洋、これである。即ち七つの海を支配するといふは、全世界の海面を支配するといふと同義である。しかるに此の大英帝国も、第二次世界大戦の後、勢漸ようやく衰へて、疲労の色、蓋おおふべくも無い。即ち一九四七年八月、インド・パキスタンは自治領となり、一九四八年には、ビルマ独立し、ついでセイロン、自治領となり、一九四九年、アイルランド(エアル)離脱し、一九五〇年にはインド独立し、而して昨年に入つては、シンガポール・アデン及びキプロス等、重要なる英軍基地に、排斥運動が起り、殊にキプロスに於いては、その勢熾し烈れつを極めた。

そのあげくに、七月に起つたのが、エジプトのスエズ運河国有化の宣言である。その打開の為に、百方手をつくして、しかも成功を見なかつた英仏両国が、十月二十九日、イスラエルのエジプト進撃を機会として、三十日、エジプト・イスラエル両国に強制要求をつきつけ、その通告をエジプトが拒否するを見て、翌日直ちに軍の出動を命じ、エジプトに爆撃を加へた事は、ひとりアラブ諸国の憤激を買つたばかりでない。ひろく全世界の反感を得る結果となり、やがて停戦となり、ついで撤兵となり、得るところ少なく、失ふ所多きままに、一応打切るのやむなきに至つたのであつた。強きょう弩どの末勢、魯ろ縞こうをうがたず①、大英帝国の力も、衰へたりと言はねばならぬ。

十年以前、第二次世界大戦に際して、英国の首相チャーチルは「ヒットラーは倒されるであらう、ムッソリーニも亦また倒されるであらう、若もし夫れ日本人に至つては、彼等は打ちひしいで粉微塵にされるであらう」と豪語した②。毒舌も猥りにするは、つつしむがよい。豪語の舌の根、いまだ乾かず、大英帝国四分五裂し、曾て其の膝下に慴しょう伏ふくしたる小国の、つぎつぎに擡たい頭とうし来るを、如何ともしがたいのが、現状である。

昭和三十一年の世界の動き、ハンガリーの動乱と、スエズの紛争とを以て、最も深刻にして重大なる意義を有し、長く今後に糸を引くもの、恐らくは是れ一葉落ちて天下の秋を告ぐるもの、残虐の長く続かず、強圧の遂に保ちがたきを示すものではあるまいか。何は兎ともあれ、他山の石③は以て自らをみがくべく、殷いん鑑かん④は以て己の容かたちを正すべきである。

かへりみるに日本は、多年の間、四面楚歌⑤のうちに在つた。侵略者と呼ばれ、野心家と罵られ、誹ひ謗ぼうと罵ば詈りのうちに、二十数年を堪へなければならなかつた。しかも他国の誹謗は、まだよろしい。大東亜戦争一敗地に塗まみれて後は、罵詈は実に国内に、同胞のうちに起つた。人々は軍閥をののしり、政治家をののしり、先輩をうとんじ、歴史を軽んじ、之を目するに、殆んど仇敵の如き感があつた。もとよりかくの如き誤解謬びゅう想そうは、日本国の精神的解体を企図する占領政策の、一時的には巧妙なる、(而して長き目を以て之を観れば、自他共に利する所無き愚劣なる)人心攪こう乱らんによるものであるとは言へ、其の占領政策に惑はされて、心の安定を失ひ、みだりに彼の平和主義、人道主義、デモクラシーを謳歌して、祖国の伝統は、棄てて顧みざるに至つた事は、かへすがへすも残念と言はねばならぬ。

今や仮面は次第に剥がれて来た。ブダペストに見る残虐は、世界の等しく憤る所である。之に憤つては、ソ聯と伍するを潔しとせず、その選手をメルボルンの五輪大会に出席せしめない国さへ現れた。スエズ進撃の横暴は、是れまた世界の等しくあきれたところである。之にあきれては、流さ す石が、血縁濃かなる米国さへ、アジア・アラブ諸国に同調して、英仏両国を非難せざるを得なかつたのである。ああ平和主義と言ひ、人民の為と言ふ、名の何ぞ美しくして、実の何ぞ醜き。我等は之を正視し、之を洞察しなければならぬ。

新に迎へたる昭和三十二、丁酉の年よ。願はくは此の年、ハンガリーに慈愛あらしめ、スエズに融和あらしめよ。而して願はくは此の年、多年の混迷の後に、日本に正理の自覚と、正義の奮起と、それによる世界への寄与あらしめよ。

① 「強弩の末勢、魯縞をうがたず」 『史記』韓長孺伝に出づ。弩は石いし弓ゆみ、縞は白き絹のこと。魯の国に産する絹は、至つてうすいものであるが、強い石弓でも、それが勢衰へて後は、その絹さへ破り得ないといふ意味。
②「チャーチルの豪語」 その著『第二次大戦回顧録』第三巻。
③「他山の石」 『詩経』に、「他山の石、以て玉を攻みがくべし」とある。
④「殷鑑」 『詩経』に、「殷鑑遠からず」とある。見て自らの戒とすべき前例は、近く目の前に在るといふ意味。
⑤ 「四面楚歌」 『史記』項羽本紀に出づ。楚の項羽が漢軍の重囲に陥る悲運に際して、昨日までの味方も今は漢に加はつた事をいふ。 (本誌、昭和三十二年正月号に掲載)