国民的自覚

平 泉  澄
文学博士

フランス革命を批判したポオル・ブウルジェ

欧米諸国を巡歴して色々の学者思想家を知つた中に、フランスのポオル・ブウルジェ氏を知つた事は、私の最も深い喜びの一つである。

「革命はかくの如くにしてフランスの生命力の源泉を涸渇 (こかつ)せしめた。何となれば革命は、第一に封建的制度を打破して国家の一切の力を中央に集中し、第二に過去の歴史と現在との間の一切の連鎖を中断して了つたからである」

誰か革命の国フランスに於いて、かくまで明快痛切に革命の害毒を説くものあるを予期し得よう。一七八九年の大革命以来百数十年、その間幾多の変動はあつたが、ナポレオン三世失脚の後、完全に共和国となつて革命の精神を継承し、現にフランスの史家は、革命是認に殆んど一致し、ディジオン大学の教授にしてパリ大学の講師を兼ね、革命史の権威と称せられるマティエ氏の如きは、ジャコバン党を弁護し、ロベスピエールを讃美し、その著述は殆どロベスピエール頌徳表(しょうとくひょう)の観さへある現代フランスに於いて、否ひとりフランスのみならず、諸外国の史家も亦多く同様の態度をとり、その独自の研究より出づるか、はた単にフランス史家の説の追随に止まるかは知らず、結果に於いて殆んど皆之を是認してゐる中に、その本国フランスに於いて文壇の元老ポオル・ブウルジェ氏が、かくまで端的に革命の害毒を切言するとは、その観察の深刻にして、その態度の勇敢なる、真に驚くべきものではないか。

フランスは実に歴史を喪失せる国である。中世の面影は、ここには殆んど失はれた。革命は、古きもの一切を破壊した。しかもそれと共に、万古を貫くべき国民的精神の伝統も絶たれた。永遠の代りに刹那が支配するに至つた。フランス現在の頽廃は、その重大なる原因をここに求めなければならない。もしドイツの侵略に対する恐怖と反抗心とがなかつたならば、フランスは滅亡を免れまいとすら思はれる。

ブウルジェ氏は説く、

「我等は古代フランスの残りを捜索し、全力を尽してそれと結び付かなければならない。人工的に、又断片的に区画せられたる県の下に、自然的な又世襲的な結合の州を見出さなければならぬ。行政上の中央集権の下に、町村の自治団体を見出さなければならない。公立にして生気のない今の大学の下に、地方的で多数なる大学を見出さなければならない。遺言の自由によつて土着の家族を再興し、一致協力の再興によつて労働を保護し、祭礼の予算を廃止し、所有の自由を決定する事によつて、宗教生活にその活力と威力とを与へなければならぬ。一言にして之をいへば、此の点でも彼の点でも、すべてに亘つて、フランス革命の彼の残虐にして損害多かりし事業を破らなければならない」

私はブウルジェ氏の著書の随所に、独創的にして深刻なる考察を見たが、就中これらの革命否定説を読んで実に意外の喜びを感じたのであつた。しかも更に驚いたのは、かくの如き思想のひとりブウルジェ氏にとどまらず、ブウルジェ氏の前に幾多の先駆あり、ブウルジェ氏と並んで幾多の同志あり、ブウルジェ氏に続いて幾千のフランスの青年が、この同じ道を進み、国民伝統の再興につとめつつあるを知つた時である。彼等は断乎としてフランス現代の方向を否定し、深く思想的に、鮮かに政治上に、反革命運動を起しつつある。

而してフランス人の間に於ける斯くの如き国民的自覚は、抑 (そもそも)いかにして生れ来つたか。先づブウルジェ氏に就いて考ふるに、氏の精神に決定的な感動を与へたものは、一八七〇年から一八七一年に亘る普仏戦争であつた。いふまでもなく此の戦に於いて、フランスはドイツ軍の鋭鋒に挫(くじ)かれ、国の守りは脆 (もろ)くも失はれて敵の砲声は殷々(いんいん)として主都パリに迫つたのである。ブウルジェ氏は一八五二年の生れであるから、一八七〇年には、数へ年にして十九歳、感受鋭敏なる青年学生として、この非常の国難に遭遇したのであつた。氏が一八八九年に公にした小説『弟子』は、氏の最大の傑作であつて、十九世紀のフランス思想史上に一期を画し、青年の間に及ぼした影響は比類がないといはれてゐるが、その序文を読むに、普仏戦争が氏に与へた刺激がいかに深刻なものであつたかが分り、氏の後年に発展して来たところの伝統的精神の、この時既に決定され、約束されて来たものである事が察せられる。

氏はこの序文に於いて、フランスの青年に呼びかけていふ、「汝は本書を読んで、著者がいかに心配して諸子を思ふかの証拠を見出し得るか。しかり、著者は諸子を思ふ。しかもそは多年来の事である。諸子が初めて読書を習ひ始めた頃からである。即ち我々が、今日四十代になつてゐる我々が、パリの周囲に轟く大砲の音をききながら、我等の最初の詩句を書きなぐつた頃からである。我等の少年時代の教室には、当時快活なものは一人もなかつた。我等のうち年長のものは戦線へ出た。そして学校に止まらねばならなかつた我々は、祖国復興の責任が双肩にかかり来るを覚えた。我等 ―― 文学に一生を捧げようと志した我等はすべて、当時 ―― 即ちこの恐るべき一八七一年に、屢々(しばしば)諸子即ち今日のフランスの青年を思つたのである。……我々の黎明が悲しみに充ち血なまぐさかりしだけ、それだけ諸子の黎明が輝しくあれと祈つたのであつた。我等は前日生れたる弟、即ち諸子に、愛される価ある者たらん事を願つた。そして我等に価するより、よりよきものを汝等に残さんと願つた」

氏の思想に、普仏戦争がいかに重大なる影響を与へたかは、この序文の中に明瞭に看取する事が出来る。氏が敢然として時流に抗し祖国擁護の筆陣を張るに至つたのは、決して偶然の事ではない。

更に之をブウルジェ氏の先輩について見る。ブウルジェ氏は自分と同意見の先覚として、バルザックを挙げ、ルプレーを挙げ、テーヌを挙げる。氏はこの三人を以て、「フランス現代の尤も賢明なる三人の批評家」と讃へ、「その主義はあれほどに異なり、その方法はまた更に相違してゐるに拘はらず、此の同一の結論に帰着したのである」と述べてゐる。

私はこれに導かれてテーヌを考へ直し、又新にルプレーを読んだ。ルプレーが「フランスに於ける社会改造」の高遠深刻なる評論は、パリに在るの日、再三反覆して厭(あ)くことを知らなかつた。ブウルジェ氏は猶私に書を寄せられて、この外にポナルドを読まん事を勧められた。これらの偉大なる魂に触れ得た事は、一にブウルジェ氏の指南に依るのであつて、私は深く之を徳とするのであるが、それらの先覚の中、特に注意すべきものは、テーヌであらう。テーヌの大著『現代フランスの起源』は、その影響頗る広大であつて、そのフランスの没落の原因を指摘し、国家再興の方法を指示するや、其の説は人々の耳目を聳動(しょうどう)したのであつて、メルシオア・ド・ボグエは、「先にテーヌの辿った深い溝で、今日は多数の創作家が働いてゐる」といひ、ブウルジェ氏は、テーヌの『現代フランスの起源』こそは、「伝統的思想復活の出発点である」といひ、テーヌをさして、「私の尊い恩師である」と呼んでゐるのである。

しかるテーヌは人の知る如く、その前半生は急進的自然科学的哲学者であつて、精神科学をも自然科学と同様に取り扱ひ、環境説を唱へ、心的過程の分析を試み、精神主義の破壊にこれ努めた人であつた。英国にしてバックル、ダーウィン、独逸にしてヴント、ヘッケル等と同列に十九世紀中葉に於ける形而上学否定の大運動を助けた人であつた。このテーヌが、国民の伝統に目ざめたのは、やはり一八七〇年から七一年にかけての普仏戦争であつた。彼はこの重大なる祖国の危機に際して、抽象的なる進歩党の意見を脱却し、初めて宿命的なる国民精神に帰住した。その大著『現代フランスの起原』は、かくの如くにして現れたのである。

「革命により、改造により、勝手に社会を変革して、安住の家を得ようするは、不可能を求むるものである。現に見よ、我等フランス人は、過去八十年の間に、革命を重ね、改造を繰返す事、実に十三度に及んだが、しかも未だ曾て満足しなかつたではないか」
そは人力の能くする限りではない。凡俗無智の大衆いかに努力するとも、
「一千万の無智者を集めても、決して一人の賢人を構成し得ない」
即ち大衆の意見に尋ねて新に造るべきものでなくして、我等の現に住む社会、祖先より受け継ぎたる遺産の中に、之を発見すべきである。

「此の点について我々の選り好みは無駄である。自然と歴史とは、先んじて吾人の為に之を選んでゐるのである」

かくの如きは彼が『現代フランスの起原』の序に説くところであるが、彼が一度敢然として時流に抗し、伝統の尊重すべきを説いて国民的自覚を促すや、有為の思想家之に和して力強き潮流となつたのである。

慢心の心は真理と遠ざかる。戦敗れて国家危殆(きたい)に瀕した時に、人々は初めて国家に目ざめ、国民的伝統に目ざめる。これはフランスに限つた事ではない。ドイツも亦さうである。

ドイツの国民精神を鼓舞したフィヒテ

一九二二年正月十八日、フライブルグ大学に於ける建国祭に、同大学の助教授にして英国史を専攻してゐるクオルフガング・ミハエル氏は、講演して、フィヒテを回想し、ランケ及びトライチケを回想し、これらの大思想家を回想する事によつてドイツの国民精神を鼓舞し、国民的自覚を促さうとしてゐる。氏はいふ、

「今日のドイツは実に苦境に在る。我等は殆んど失望落胆してゐる。かくの如き苦境に在つて、往年の光栄ある歴史を回想する事は、むしろ苦痛である。しかし言ふまでもなく我等はここに奮起しなければならない。曾てフィヒテは、ドイツの大を致さん為には、国民精神の鍛錬、国民の誇りの感情を第一に呼び起さなければならないと考へた。しかも当時のドイツは、過去に光栄ある歴史をもつてゐたわけではない。即ちフィヒテによつて、無よりして突然に、又沈淪落魄 (ちんりんらくはく)の時代に於いて忽ちに、ドイツ統一の理想は生れたのである。現状は全然之に反する。我等の前には輝ける歴史がある。ビスマルク、モルトケの巨像は、厳として我等の前に立つ」

氏は更に続けていふ、
「ビスマルク、モルトケ二人の事業は実に偉大である。人が歴史を作るといふのは、この二人の偉業を見る時、実に理であるとうなづかれる。しかしながら、理想の力なくしては、彼等といへども何を為し得たらう。ドイツ興隆の理想を鼓舞したものとして、私は今日ランケとトライチケとに就いて語らう」

而してかくの如きは、今日決して一ミハエル氏に止まらないのである。フィヒテを憶ひ、ランケを憶ひ、トライチケを憶ふは、決してこの一講演に止まらないのである。私の友人が参観した伯林(ベルリン)の聾唖学校に於いて、歴史の教師は生徒に説くに左の趣旨を以てし、慷慨の調、殆んど鉄石の響きをなしたといふ。

「ドイツは今苦境に在る。しかし政治的又経済的の窮迫は必ずしも恐るるに足らぬ。尤も憂ふべきは、フィヒテの如き人物のない事である。曾てドイツの興隆したのは、政治家に其の人あり、軍人に其の人あつた為ではあるが、その根本の力はフィヒテ等の思想家に在る事を忘れてはならぬ。フィヒテの如き偉大なる思想家が現れて、国民精神を鼓舞しない限りは、ドイツの復活は望むべくもない」

世界大戦に敗れて後のドイツは、内外共に非常の苦境に在り、その窮状は曾て普仏戦争後のフランスよりも遥かに烈しいが、この間にあつてフィヒテを憶ひ、ランケを憶ひ、トライチケを憶ふ。即ちここに敗戦を機として、真剣に祖国を思ふ国民的自覚は、今のドイツに萌え出でつつあるのである。

更に考ふれば、フィヒテ自身も、曾てはルソーを喜び、自由を説いてゐたものが、一度祖国がナポレオンの馬蹄に蹂躙せらるるを見て、始めて国民的に自覚し、かの有名なる講演「ドイツ国民に告ぐ」によつて、全ドイツ人の血を湧かさしめたのではないか。

驕児は悟り難く、窮して即ち反省す。国民的自覚は、多く国歩艱難の際に生ずるのである。思ふに我が国現代の思想が軽薄にして新奇を好み、伝統を侮蔑して破壊を事とするは、その戦勝に酔ひ、安逸になれたる所に、重大なる原因の一つがあるのではないか。

(昭和六年十二月『井上哲次郎先生喜寿記念論文集』所収。『日本』昭和六十年十月号に掲載。尚、附記は省略)