平泉澄先生に学びて(上)― 戦時中と戦後の勉学 ―

市村真一/京都大学名誉教授
はじめに

平泉先生のお名前は、昭和十七年(一九四二)春、入学した大阪外国語学校近くの本屋で、御著『萬物流轉』を題名に引かれて購入して知った。時代は、五年前にシナ事変、三年前に欧州戦争、前年末に対米戦争が勃発し、既に第二次世界大戦に突入していた。

西太平洋の制空制海権を得、数カ月で東亜の米・英・仏・蘭の植民地を占領、石油を確保し、大東亜共栄圏の夢、なるやに思われていた。しかし私共は、数年後に入隊を予想、級友と「人生二十五年」と語り、その覚悟だった。ただ日常生活にはまだゆとりがあり、若者にはスポーツや山に海にと楽しみも多かった。勿論、勉強にも精励した。

本稿は前編、後編に分けて書く。

一、前編の「平泉先生に学びて」(上・中・下)は、戦時中と戦後の勉学時代で、十七歳から四十歳頃までを記す。外語時代から終戦に至る専門学校時代と軍隊経験とその頃の勉強と戦後の京大時代・渡米留学と助教授時代の師友との交遊など。特に平泉先生とお弟子方から学んだ事の回顧録である。

二、後編は『先哲を仰ぐ』の解説を中心に記す。特に戦後、学生と共に、熟読した平泉先生の諸著作や御講義や御講話の大要を全体としてまとめる。言わば平泉先生の学問思想への入門案内である。

㈠ 『萬物流轉』を読む

先生の本は、直ちに読み始めた。それは大阪の「長柄(ながら)の橋」の変遷の物語から始まったが、初めはまどろっこしく感じた。だが読み進むにつれて、先生の論点とお気持が解り、数日かけて読み上げた。主旨は解りやすかったが、読みながらいろいろと考えた。

儒教は、万物流転して止まぬ混沌の世に、人間社会の秩序を整えるため、五倫(父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)、五常(仁・義・礼・知・信)の道徳律を立て、それに人々が従えば、人の和と世の平安を保ち得ると説く。

しかしシナの歴史を見ると、支配民族の漢族の王朝は、何度も易姓革命(えきせいかくめい)を繰り返した上に、元(げん)朝や清(しん)朝のごとく、蒙古族や満洲族の王朝がシナ全土を支配した時代もある。全土が数地域に分割統治された時には、漢族も分裂抗争した。又屢々(しばしば)諸部族が強力な地方政権を樹立した。そんなシナでは、「君臣の義」は五倫の一つとして定立し難い。王朝が交替すれば、忠誠の道徳は持続できないからである。

私は考えた。シナの国造りは、部族と地域の差を超克して全人民を統合する、江戸幕府の如き統治の仕組が要る。それはシナでは至難だ。辛亥(しんがい)革命で、清朝を漢族は倒したが、孫文も国民党も共産党も、シナを近代国家として統治する政治制度を確立できていない。

我が国の歴史は異なる。神武建国以来、日本は同じ皇室が統治されてきた。国民もそれを、
元日や 一系の天子 不二(ふじ)の山
と誇ってきた。我が国では、君臣の義は一貫し、国民の信念となった。だがこれとて、今後も永遠不変との保証はない。他国と同様に、日本国も滅びるかも知れぬ。事実、国史上、皇統が断絶しそうな危機が何度もあった。蘇我入鹿(いるか)の事件、白村江(はくすきのえ)の敗退後の外襲の恐れ、壬申(じんしん)の乱、弓削(ゆげ)道鏡の野望、承久の変での北条氏の横暴、建武中興の挫折と南北朝時代等々。

そこで先生が再提起されたのは、普通の儒学者と神道を重んじ神州不滅を信じる学者との間の論争、「神儒問答」である。万葉一統の皇室があってこそ君臣の義が立つ以上、我等もまた忠臣の誠意(まごころ)と努力を継承して、皇統を護持せねばならない。それが『萬物流轉』一巻の本旨だった。

読後、本書は私に問題を提起し、解答を与え、更に宿題を課した、と感じた。そして自問した。いま日本は大戦争の真只中だ。大東亜共栄圏の確立を理想としても、その前に先ず戦争に勝たねばならない。果して勝てるのか。負ければ日本は元も子もなくなるかも知れない。勝つために我々は何をすべきか。我々もやがて兵士となるが、「良き兵士」の要件は何か、など次々に考えた。

また思った。これまで『論語』や『孟子』等の古典は、ただ従うべき教訓を授けてくれると受取っていたが、内容の一から十までそうでもなく、自分自身が解かねばならぬ課題も多いのだなと。

㈡ 大阪外語での二年半の勉学

大阪外語は小さな専門学校で、東洋語のシナ・蒙古、馬来(マライ)、インド、アラビアの五語と西洋語の英、独、仏、露、西(スペイン)の五語の十語部があり、各語部各年の生徒十五名、シナ語、英語だけ三十名(馬来は四十二年から二十五名)で、学生総数約六百名だった。専門語以外の歴史、地理、経済、国語や教練は、東西語別に二分割か、全員一緒だから、皆顔見知りだった。

一年の秋、蒙古語部二年の足立稔兄に、吉田松陰先生の『講孟餘話』 ①の読書会をやるが来ないか、と誘われ出席した。会には後の司馬遼太郎、本名福田定一兄も来て、親しくなった。足立兄が更に浪速高等学校の原正(ただし)教授宅での勉強会にも一緒にと誘ったので、箕面(みのお)の先生宅に参上した。その勉強会はためになった。

会は、初め原教授が自分の恩師の平泉澄先生が東大生にされた先哲の遺文の講義を祖述され、次にご自分の感想を述べられ、その後は全員が自由に討論した。

この会で、私は田中卓(たかし)(後の皇学館大学長)、渡辺健二(後の阪大原子物理学教授)・遠山健次郎(後の島津製作所重役)等、浪高の俊秀に出会い、生涯の友を得た。全く天の恵みであった。

平泉先生の講義と原教授の所感と皆の討論は、夫々有益だった。今も忘れぬ教えも多い。一例を挙げると、昭和十八年十一月、東京にアジア諸国の首相等が集まり「大東亜共同宣言」を発表した時、それが話題になった。それは、米英等の「大西洋憲章」に対抗して、日本とアジア諸国の戦争目的を五カ条に纏めた。

一 東亜の安定と共存共栄
二 アジア諸国の自主独立と親和
三 各国の伝統尊重と文化昂揚
四 各国の提携と経済繁栄
五 人種差別撤廃と資源の開放

そのように要約された原教授が「みんな何か感想は」と問われた。誰も答えない。私一人が手をあげて、「このアジア諸国の中にインドネシアが入っていないのは何故ですか」と尋ねた。原教授が「確かにインドネシアは問題です。聞くところでは、現地の日本軍司令官はスカルノ等に独立承認を約束したが、まだ準備が整わなかった由、会議にはインドネシア代表も出席した」と話され、更に付言された。「同様に、私は朝鮮と台湾の扱いが重大だと思う。台湾事情には詳しくないが、朝鮮には独立要求の声がある。これを日本がどう扱うか、朝鮮人は勿論、アジアの他国も注目している筈です」と。座は一瞬シーンとし、誰も発言しなかった。この記憶は、七十五年後の今も鮮明である。実は、原教授宅の“ねえや”は半島人だった。おそらくご両親は朝鮮で事業を営んでおられ、教授も朝鮮事情に詳しかったのであろう。

戦いはたけなわで、戦局は次第に我が方に不利に傾いた。二年生になって間もなく、文科系学生の徴兵延期がなくなり、十万弱の学徒が応召入隊した。「学徒出陣」である。私の同級生二十五名中、十名が入隊。外語の読書会は休止、原教授の勉強会も半減。馬来語の親友石田登寿男、蒙古語の足立、福田も入隊。(彼等の約三分の一は生還せず)。翌十九年、徴兵年齢切下げ、卒業は半年繰上げ。私は十九歳で応召、特別甲種幹部候補生を志願、十月、豊橋第一陸軍予備士官学校に入校と決した。

その間二年半、物資は段々不足して来たが、まだゆとりがあり、バレーボールや長距離走の練習に汗を流し、河合栄治郎編の学生叢書を参考に、東西の哲学、歴史、偉人伝、時局論を読みふけった。

鮮明に記憶する時局論が二冊ある。石原莞爾著『世界最終戦論』(立命館大出版部、昭和十五年)と『世界史的立場と日本』(中央公論社、昭和十八年)である。

後者は、中央公論誌連載の三座談会(高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高、高山岩男の京大教授)。一「世界史的立場と日本」、二「大東亜共栄圏の倫理性と歴史性」、三「総力戦の哲学」の合本だった。

石原莞爾の書は、一読して驚嘆した。それは軍事力の拡大に限界があり、必ず自己抑制する、との見解であった。それ迄に読んだ『孫子』等の書にその議論はなかったが、理に叶かなうと思った。

戦の勝敗は主に軍事力の強弱で定まるが、世界最強の国々は、その拡大を競う愚を避け、早晩相互抑制すると見る。今日の核兵器の相互抑止に通じる。他の所見は同意し難かったが、この議論には感心した。

『世界史的立場と日本』は、大航海時代以後の西欧の独善的世界制覇とその正当化の議論を一方的と批判し、アジア、特に日本の自衛努力を正当化した議論で、当時我々学生には共感者多く、そのために命を賭してよいと言う者もいた②。

平泉先生の書物も次々拝読した。『武士道の復活』『傳統』『國史學の骨髓』『天兵に敵なし』など。その学風と幕末志士の危機感に共感、更に彼等の伝記を求めて愛読した。特に吉田松陰伝は、玖村敏雄、徳富蘇峰、岡不可止の三著を熟読、夫々から色々教えられた。伝記の中に志士の遺文を付録した本があり、それを拝読して志士の気持がひとしお心に沁みた。

よって先人の精神を学ぶには、直接、遺文を拝読すべきだと感じ、古本屋を廻る度に、遺文集を買い求めた。平泉先生は先哲の遺文をお経の如く講じられるが、多分この故であろう。私は平泉先生監修『日本学叢書』の『先哲遺文集』を愛読し、また座右に『西郷南洲遺訓』と『講孟餘話』の文庫本を置いて、毎日少しずつ拝読した。ために綴じは切れ、ばらばらになったが、二著とも入隊直前の十九年十月下旬には読了した③。

㈢ 軍隊一年の猛訓練と事前に承った終戦

いよいよ入隊の日が来た。我が家の前で見送ってくれる近所の人に挨拶した、七年前に父が、三年前に叔父がしたように。言葉は短く今も覚えている。「戦況は我に不利で、既にフィリピンで激戦が始まりました。私共若者が蹶起(けっき)して、祖国や国民を守るべき時であります。私は若輩で微力ですが、自分の最善を尽して奮闘努力する覚悟であります。この決意のある限り、日本はこの戦いに勝てると信じます」(この瞬間、頭の片隅で、もう一人の私が“本当に勝てるかな”とささやいたが)。直ちに京都駅に向い、翌日、予備士(陸軍予備士官学校)に入校した。

入校時、持込図書は二冊に制限されたので、鳥巣通明著『戀闕(れんけつ)』と杉本五郎著『大義』を届け、『南洲遺訓』と『講孟餘話』は届けなかった。この『戀闕』に中隊長の賀陽宮邦寿(かやのみやくになが) 王殿下が目を留められ、ある日呼び出され、「この書物をどうして読むことになったか」と尋ねられた。私は原教授宅の勉強会で知り、今読書中と答えた。その後も、時々殿下に呼び出され時局談をした。予備士での七カ月半、連日猛訓練だった。

特に硫黄島と沖縄に米軍が上陸して後の、斬込隊の訓練は凄まじかった。昭和二十年六月、予備士卒、殆ど全員が本土防衛の第一線部隊の小隊長として出発した。その中で広島に行った者に、原爆での戦死者が出た。私は宮原少尉・岡見習士官と共に、東京陸軍幼年学校生徒監に転任の賀陽宮殿下の補佐を命ぜられ、中学三年位の少年に体育教練を教えた。

戦況は一段と悪化。日本軍は勇戦力闘したが、前年六月のサイパン島玉砕に続き、その年二月十六日、硫黄島に米軍上陸、死闘が続き、貴重な戦訓を我々に送信してくれた守備隊は三月二十六日、玉砕した。四月初めに沖縄の激戦が始まり、六月二十三日、組織的戦闘は終結した。勤務先の東京陸幼も、八月初旬の八王子爆撃で立派な校舎は炎上、生徒と我々は、万一に備えて建てられた谷間の仮小屋で寝起きした。

当時、皇族会議が宮中で頻々(ひんぴん)と開かれ、殿下はそのつど乗用車で上京された。私は殿下に随行し、拳銃携行で上京した。宮原と岡は他の生徒監付だった。確か八月六日に皇族会議があり、帰りの車中で、殿下が言われた。「市村、戦争は終るのだよ。今日、陛下が皇族方に話され、皆協力するように頼まれた」と。

この瞬間まで、私は終戦をめぐる内外政治の動きは新聞報道以外一切知らず、ただ今後は、早晩米軍が上陸し「本土決戦」で大混戦大苦戦するか、或いは連合国側の条件 ―― ポツダム宣言の詳細は知らなかった ―― を呑んで講和し、敗戦国の辛酸をつぶさに嘗(な)めるか、二つに一つだ、と真剣に考えていた。遂に政府の方針が講和と決した以上、この事態に自分等はどう対処すべきか、と考え始めた。

実は、この数週間前、座間の陸軍士官学校に教育視察に派遣されて、たまたま図書室の中で「切腹の作法」と題する謄写刷の小冊子を見た。それにより私は、武士が独りで切腹する作法を知った。

私は考えた。陛下が講和、占領、平和条約の道を選ばれた今、我々はこれに従うべきである。だが敗戦の責任の取り方を真剣に考えねばならない。

一将校たる自分も切腹すべきか。作法は知ったからできなくはないが、等々あれこれ数日真剣に考えた。その頃やや顔付きが変っていたのか、ある朝、殿下に「お早うございます」と挨拶したら、じっと顔を見られて「市村、死ぬなよ」とおっしゃった。死ぬ覚悟をしてはいなかったが、顔付きにそんな影があったのかも知れない。

最終的に私は、「敗戦したが、今、自分が切腹することはない。自分は祖国再建に努力するのが責務だ。切腹するのは、落城時の城主の如く、全責任を負う最高司令官で、陸海軍大臣・参謀総長・軍令部総長ないし内閣総理大臣といった人である」と結論した。恐らく切腹の作法を知って真剣に考えたのであろう。

敗戦と聞いた時、「平泉先生はどうされたかな」とも思った。東京近くには居たが、先生の消息は知らなかった。風の便りで、先の東京大空襲の時、先生のお宅も、東大生らの青々塾も全焼したと聞いていた。数週間後、誰からかは失念したが、謄写版刷り薄紙四、五枚の便りが届き、終戦直後、先生が青々塾で話され 先生は「日本は戦争に負け、戦いは終るが、自分は切腹はしない。陛下が生きておられ、皇族の方々が生きておられる限り、私は御一緒に日本の再建に尽くす」と話された、とあった。私は「ああ、先生はそう思われたか」と、何とも言えぬ安堵感に胸をなで下ろした。同時に、物凄いファイトが湧いて来た。八月二十日過ぎだった。

同じ頃、幼年学校は俄かに解散と決定。幹部将校以外の教官も生徒も帰郷した。勤務者なきガラン堂の校舎、と言っても、並立する粗末な掘っ立て小屋だけが残った。かの「国破れて山河あり……」の詩を想起し、心まことに寂寥(せきりょう)であった。

殿下から、「市村と岡は、自分の所に来ないか、当番兵が帰郷したから部屋はある、私の身分も未定だが、当分は大丈夫だ」とのお話で、宮邸勤務になった。

私は、両親と今後を相談するため、早速、数日の帰郷を要請した。許されて帰洛する沿線の都市は、瓦礫の山で廃墟の様であったが、街には人があふれ、顔付きには活気があった。

幸い家族は皆元気で、父は「京都は焼け残ったので、物資が集まり、家業に心配ない」と語り、私が「すぐ就職せず、大学へ進んでもよいか」と訊(き)くと、にっこり笑って「死んだ気で頑張るんだな」と言った。この一言で私の決心は決まった。

帰京して殿下に「私は、京都大学に進もうと思います」と申し上げた。殿下は大変喜ばれ、「よし、それなら私も京大にしよう、市村、万事頼むぞ、学部はどこだ」と問われた。その時は迷っていて「経済か、法学か、文学部でしょう。どうも経済に引かれています」とお答えした。

① 当時は岩波文庫の『講孟餘話』のみ市販、今は講談社学術文庫の『講孟劄記』が、『孟子』の一節も付載して便利である。題名の相異は、後書の「解説」参照。
② 同書に対する戦後派の批判に、上山春平教授や粕谷一希氏が反論されたのは正しい。粕谷一希著『戦後思潮』日本経済新聞社(昭和五十六年)参照。戦後思潮には、東京裁判判決の影響が大きく、当然それは米国側の術策の吟味を欠き、片手落ちである。だが、二〇一一年(平成二十三)に、フーバー大統領の回顧録『裏切られた自由』の出版は、第二次大戦論を一変させるかも知れない。
③ 入隊前、平泉先生の謦咳(けいがい)に接したのは、二年生の夏、千早城址の存道館での学生鍛錬会で講義を聴き、黒田東大生(戦死)の指導を得、上京した折、青々塾に一泊し、先生に御挨拶の機を得た時であった。