闇斎先生と中臣祓(上)

西岡和彦/ 國學院大學教授

本年(令和元年)御代替わりの佳き年に、山崎闇斎先生の生誕四百年をお迎え出来ますことは、同学の末席にいる者として大変喜ばしく有難いことと存じ上げます。そして、ただいま闇斎先生とゆかりの深い下御霊(しもごりょう)神社にて斎行されました生誕四百年祭に参列させていただきましたことに感謝申し上げます。

そもそもこの祭典を行う切っ掛けを作ったのは、小生のゼミ生で、次年度より早稲田大学で教鞭を執ることになった久保隆司氏が、下御霊神社の出雲路敬栄(よしひで)宮司様にその件を相談し、宮司様からも何かさせていただきたい、とのご意向を、久保氏を通じて承ったことに始まります。

そこで昨年、ゼミ合宿を京都で開催し、ゼミ生を伴って下御霊神社にお伺いし、直接出雲路宮司様とご相談させていただきましたところ、宮司様から、是非、闇斎先生の生誕四百年祭を斎行して、本社に垂加霊社が祭られていることを、広くお知らせしたい、とのご意向を伺いましたので、帰京後、藝林會々長の平泉隆房先生にご相談させていただきました。平泉先生はすぐさまご理解をお示し下さり、さらに藝林會がバックアップします、との頼もしいお言葉まで頂戴しました。その後、具体的に相談することになり、下御霊神社で平泉先生と、皇學館大学教授の松本丘先生と四名でご相談し、本日を迎えることが出来たのであります。

その後、『日本』で松本先生と小生が闇斎先生について啓蒙させていただき、さらに『藝林』第六十八巻第二号(令和元年十月発行)に、特集「山崎闇斎生誕四百年記念」を企画し、田尻祐一郎先生や細谷惠志先生をはじめ計九本の論考と、「特集資料」を小生のゼミ生がまた、本日配布されました「垂加神道系譜」を松本先生が作成しました。本日社務所で展示いたします目録の小冊子『山崎闇斎先生生誕四百年祭展示目録ならびに解説』を松本先生と小生のゼミ生の久保隆司・大番彩香・大貫大樹が作成いたしました。さらに、下御霊神社からは宮司様により、記念絵はがきを製作していただきました。

もちろんここに至るまでに、平泉先生と出雲路宮司様の綿密な打合せが繰り返し行われましたことは申すまでもございません。こうした皆さま方のご協力ご支援を賜って本日を迎えることが出来ました。ご協力ご支援下さった方々に、深く感謝申し上げる次第であります。

近藤先生と「中臣祓」

さて、本日ここに謹んでお話しさせていただく題目は、「闇斎先生と中臣(なかとみ)の祓(はらえ)」であります。先程申上げました『藝林』の特集号で書きました「垂加神道流天孫降臨考」と、それをより神学的に論じました「神武創業の精神と垂加神道―君臣合体守中之道―」、この拙稿は國學院大學研究開発推進機構から来年刊行する論集『近代の神道と社会』に書かせていただいたものですが、ともに「中臣祓」に関わるものであります。そこで、本日はその二つの拙稿で論じたことを少しばかりお話しさせていただこうと存じます。

そもそも、小生が「中臣祓」を今回の『藝林』特集号の研究論文に取り上げましたのは、平成二十九年十二月二十八日に近藤啓吾先生の神葬祭に参列したのが要因であります。先生のお葬式は藤沢のご自宅で密かに行われ、松本丘先生が斎主をお務めになられました。翌平成三十年二月十二日の五十日祭は、近藤先生の高弟で立正大学特任教授の細谷惠志先生が斎主をお務めになられました。その二つの祭事で参列者全員が唱えたのが、「中臣祓」でありました。しかも、その「中臣祓」は闇斎先生の「垂加中訓」(『神道大系垂加神道・上』所載)に付記した振り仮名に従って唱えました。それは、近藤先生の遺言によるからです。

しかし、私どもは現在通用の「大祓詞(おおはらえのことば)」に読み慣らされているため、その「中臣祓」をスムーズに唱えることができませんでした。現在の「大祓詞」の読み方は、本居宣長翁の『大祓詞後釈』に基づくものであり、しかも大正三年三月二十七日付内務省訓令第四号以来、一部を省略した「大祓詞」を読んでおります。しかし、闇斎先生が用いた「中臣祓」はそうではありません。そのため、私どもは両日共に一文字一文字をたどたどしくも丁寧に唱えたことを覚えております。

近藤先生がお葬式で「中臣祓」を一同で奏上することを遺言なされたことは、すぐに納得できました。闇斎先生をはじめ高弟の伏見稲荷大社祠官の大山為起(ためおき)、そして再伝の跡部良顕(よしあきら)や若林強斎が、そうであったことを、近藤先生や谷省吾先生のご研究などで存じておりましたから、その点は「ある程度」の理解はできました。「ある程度」と申しますのは、中途半端ではないか、とお叱りを受けることと存じますが、実はまだ理解に及ばないのです。

近藤先生は若林強斎先生が求められた祓の境地を晩年研究されておられました。そして、先生は恐らくその境域に達せられたのであろうと存じます。その境域、すなわち「罪咎に対する懺悔の至誠」についてであります。しかし、小生はその境地が、まだわかりません。ですから、「ある程度」と申上げたのであります。

近藤先生は、「中臣祓」には、それ以外に「君臣一体となつて我国を道義による理想の国家たらしむべき道を示すもの」がある、と説きます。それが闇斎先生の主張した「君臣合体守中之道」であります。本日はこれを中心にお話し申し上げようと存じます。

なお、それらを体得体現しようと晩年大津辺(おおつべ)にある瀧津亭にて修養なされたのが、守中翁若林強斎先生でありました。今となっては確かめようもございませんが、近藤先生もおそらく強斎先生が達したこれら二つの境域を目指され、到達された事と推察致します。

天孫降臨における垂直説と水平説

闇斎先生の「中臣祓」の研究書といえば、『風水草』であります。ほかに『日本書紀』神代巻の研究書として『風葉集』がありますが、なかでも『風水草』は垂加神道の神学の根拠となる神書を網羅的に収めており、もっとも大事な書とされます。

闇斎先生は、当時の神道家が「神代紀」のみを研究していたのに対し、「神武天皇紀」にまで注目しました。それは、「中臣祓」が神武天皇の御世に、天皇の側近として活躍していた中臣氏の先祖天種子命(あめのたねこのみこと)が、天孫降臨から神武東征における統治理念を、天皇の大前で上奏した寿詞である、と闇斎先生が認識していたからです。

ただし、この天孫降臨と神武東征を、垂加神道では、現在の神学、すなわち国学的神学に基づいた理解をもっては説きません。闇斎先生をはじめ垂加神道では、天孫降臨を、天上の高天原から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降りてこられた、との垂直説を採らず、天照大神が鎮座する大和国から西国へ遷幸なされた、との水平説を採りました。そして、神武東征は、瓊瓊杵尊が辿(たど)られた西国遷幸のルートにそって神武天皇が大和国へ還幸なされ、旧都を再興なされた、と見たのです。した。ですから、奇怪な説だと思われるに違いありません。では、なぜ闇斎先生はそうした考えを持ったのでしょうか。それは闇斎先生が唱えた「中臣祓」、私どもが近藤先生の神葬祭や五十日祭でたどたどしくも丁寧に唱えた「中臣祓」に、そのように書いてあるからです。その点を私どもは見過ごしてきたのです。

今回『藝林』の特集号で「垂加神道流天孫降臨考」を書かせていただき、いままでの誤読誤解を糺(ただ)したのは、そのためでありました。まさしく近藤先生の遺言によって、糺すことが出来たのであります。それは、
まさに先生の御霊によるお示し、すなわち霊示であったと確信しております。

そこで、次に闇斎先生が唱えられた「中臣祓」にそって、天照大神の誕生から神武天皇の橿原奠都(てんと)至るまでの垂加神道の見方、いわゆる神学をみなさまと確認してみたいと思います。

高天原は天子の都

まず、注意しなければならないのは、天照大神の誕生を、『古事記』に見られる伊耶那岐命(いざなきのみこと)が筑紫の日向(ひむか)の橘の小門 (をど)のアハキハラで禊祓した時に、まず左の御目をお洗いになって天照大御神がお生まれになった、との良く知られた説を採らないことです。闇斎先生の根拠は、『日本書紀』巻第一神代上・第五段本書に見える次の説にあります。伊弉諾尊・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、共に議(はか)りて曰はく、「吾已に大八洲国(おおやしまのくに)及び山川草木を生めり。何ぞ天下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」とのたまふ。是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(おおひるめのむち)と号す。(一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊といふ。=日本古典文学大系本より)

『古事記』では、伊耶那美命が崩御したため、国作りが未完となり、伊耶那岐命はそれを完成させるため伊耶那美命を連れ戻しに黄泉国(よみのくに)へ行かれましたが、却ってケガレに触れられることになります。そこで伊耶那岐命はケガレを祓うために禊祓(みそぎはらえ)をしたところ、天照大神がお生まれになった、とあります。

それに対し、『日本書紀』神代巻の本書は、伊弉諾尊・伊弉冉尊が国生み神生みや国作りを終えられた後、いまだその国の統治者、すなわち「天下(あめのした)の主者(きみたるもの)」を生んでいないことに気付かれ、両尊が相談して天照大神をお生みになった、とあります。すなわち、天照大神は、地上の統治者として誕生した神であったことがわかります。闇斎先生は、それがその後の歴史を見る上での前提とされました。

ところが、『日本書紀』には、伊弉諾尊・伊弉冉尊はこの神があまりに霊妙な神であったため、「授くるに天上の事を以てすべし」と命じて、「天柱を以て、天上に挙(おくりあ)」げた、とあります。つまり、伊弉諾尊・伊弉冉尊は天照大神を「天下の主者」にしなかった、と解することができるでしょう。そこで、次に月神や蛭児(ひるこ)そして素盞嗚尊(すさのおのみこと)を生んでいきますが、結局は「天下の主者」(「宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべ」き者)を決めることができなかった、と『日本書紀』は伝えています。

「大祓詞」を読む上で、この点に注意しなければなりません。なぜならば、「大祓詞」(「中臣祓」)にある八百万神 (やおよろずのかみ)たちが集議を繰り返したのは、この未解決の検討にあったからです。その点を見落とせば、「大祓詞」は記紀とは別のいわゆる神話が語られている、と誤解することになるでしょう。八百万神たちが集議を繰り返したのは、伊弉諾尊・伊弉冉尊が決められなかった「天下の主者」を、神漏岐命(かむろきのみこと)と神漏美命(かむろみのみこと)が八百万神たちにあらためて選考を検討させたからでした。それは『日本書紀』のこの天照大神の誕生譚(たんじょうたん)を知ることで、はじめて連想出来るものなのです。なお、『古事記』では、この点が省略されているため、『古事記』しか知らなければ、一向にわからないままとなるでしょう。

ところが、闇斎先生はじめ垂加神道では、この「天柱を以て、天上に挙(おくりあ)」げた時をもって、天照大神は即位なされた、と理解しました。天上とは一般に高天原を指しますが、それは実際に天空にあるわけではなく、天子の位に即位した者のいらっしゃる場所を天上=高天原と尊称した、と考えたのです。ですから、高天原は天子のいらっしゃる所であって、すなわち天上ではなく地上にある都に当たります。これが闇斎先生をはじめ垂加神道の共通認識でありました。

そうした説を厳しく批判したのが、本居宣長翁の『天祖都城弁弁(てんそとじょうべんべん)』です。宣長は、高天原とは天上の天つ神のいらっしゃる神聖な場所と見ます。この認識が現在に通用する高天原観ですが、それに対し、闇斎先生は天子がいらっしゃる都を、上代人は高天原と敬意をもって表現したのだ、と考えたのです。

この相違点に注意しないで、通用の高天原観をもって闇斎先生の説を理解しようとすると、誤解が発生し、垂加神道を理解することができなくなり、闇斎先生の説は間違っている、とか牽強付会だと決めつけて、自省もせずに傲慢に走ることになるのです。

闇斎先生は常につつしみ、すなわち謙虚さを持ってものごとを見るようにと指導し、神道の入門者には、かならず「土金伝(つちがねのでん)」、すなわち「つつしみの伝」と「天人唯一之伝」を初めに教えました。

「天人唯一之伝」については、少し説明を加えておきましょう。闇斎先生は、上代日本人の文章は現代人に比べれば幼稚であるが、その心は神聖そのものである、との忌部正通(いんべのまさみち)著『神代口訣(じんだいくけつ)』の説を高く評価しました。そして、上代人は、天の出来事を以て人の出来事を語ることもあれば、人の出来事を以て天の出来事として語ることもある、すなわちそうした表現方法を持っていた、というのです。その教えが「天人唯一之伝」なのです。したがって、天上と書いてあるからといって、単純に地上に対する遥か高い天上と解してはならず、都を天上に例えるほど尊い場所と表現し、高天原とも称したのだ、と考えたのです。

闇斎先生は、この二つの伝が理解出来ないのなら、わが国の神書をまともに読むことは出来ないだろう、と注意しました。

では、高天原とは一体どこの都を指していたのでしょうか。闇斎先生をはじめ垂加神道では、高天原を大和国高市郡菅原の宮とし、そこに初代天子天照大神の皇居があった、と考えたのです。

「中臣祓」冒頭の理解

以上の説明を前提にして、レジュメに載せました『垂加中訓』の振り仮名にもとづいて「中臣祓」の冒頭を解説することにいたしましょう。

 「高天原仁神留坐須」

ここは、通用の「大祓詞」では、「たかまのはら・に・かむづまります」と読みます。しかし、『垂加中訓』では、「たかまのはら・に・かみ・とどまりまします」と読みます。「大祓詞」では、宣長の『大祓詞後釋』以降、前者の読み方のもとで、高天原に神として鎮座まします、と解釈し、それは次の「皇親神魯伎・神魯美」に掛かる形容句であるとします。現代の通釈書もすべてそのように解しております。しかし、『垂加中訓』では、高天原に神が鎮座まします、と解釈し、形容句ではなく、その「神」は独立した神と考えていたことがわかります。

では、高天原に鎮座する「神」とは、どういった神なのでしょうか。闇斎先生は、それが天照大神である、といいます。天照大神は伊弉諾尊・伊弉冉尊によって天上に送り上げられた、と『日本書紀』神代巻本書にありましたが、先程申しましたように、その天上とははるか上空にある高天原を指すのではなく、あくまでもそれは尊称に過ぎず、いわゆる高御座にお上げになった、と解釈したのです。換言すれば、初代天子に御即位なされたのです。

したがって、「たかまのはら・に・かみ・とどまりまします」とは、高天原と尊称される都に即位なされた天照大神が鎮座なさっておられます、との理解を示す読み方であったことになるのです。

次に、「大祓詞」は、
「皇親神魯伎・神魯美命以」
と続きます。ここの「皇親」を現在は、宣長の『大祓詞後釋』以来、『延喜式』春日祭祝詞冒頭の「天皇大命坐」などに見られる「すめら・が・おほみこと・に・ませ」にもとづいて、「すめら・が・むつ」と読ませ、皇御孫命(天皇)と親しい間柄の、という解釈をとっています。よって、宣長翁はこの神漏岐命・神漏美命を高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と天照大御神と見るのです。

そして、この二柱の神の勅命を賜って、次の八百万神たちが集議を行った、と続けます。それが現在の一般的な解釈にもなっております。私もその解釈が妥当だと思い、拙著『建国の使命―「大祓詞」の神学―』を一昨年、伊勢神宮崇敬会から出させていただきました。しかし、闇斎先生を理解するには、その解釈では通じません。

『垂加中訓』の訓みは、「すべむつ・かみろぎ・かみろみ、みことをもて」とあります。闇斎先生は「皇親」を皇祖と理解しました。『風水草』では、伊勢系の『古語拾遺』説にならって高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と神皇産霊尊(かむむすびのみこと)の兄弟と注記していますが、両命をあわせて高皇産霊尊と見ていたようです。

そこで、この箇所を、「(高天原に鎮座まします天照大神の詔を賜った)皇祖高皇産霊尊は、天照大神のミコトモチとして」八百万神たちに集議を命じた、と解釈したのです。すなわち、「みことをもて」の「みこと」とは、現在は「神漏岐・神漏美」にかかる「命」とその両命の「命」(詔)を兼ねるもの(「神漏岐命・神漏美命の命もちて」)、と理解されていますが、闇斎先生は「みこと」はあくまで天照大神の「命」(詔)であって、そのミコトモチとして両命(ここは高皇産霊尊)が天照大神の命令を遂行する、と考えたのであります。

ところで、天照大神と高皇産霊尊、この両神を『古語拾遺』以来「皇天二祖」と申します。闇斎先生は、この「皇天二祖」の政治システム(政体)を、神代以来の不変かつ正当な統治理念である、と見ました。そして、それが「中臣祓」の冒頭箇所に明示されている、と考えたのであります。