F・ルーズベルトと第二次世界大戦を考える(上) ― 同時代を生きたアメリカの政治家の証言から ―

齋藤 仁/ 元埼玉県公立中学校長
第一章 ルーズベルト大統領「戦争への道」
一 連合国は「正義」の集団だったのか

(1)戦勝国史観を受容し続ける人々  

第二次世界大戦が終わって七十有余年。当時、連合 国側にあって米英から膨大な支援を受けていたソ連は 終戦と共に共産主義を世界に広げて米ソ冷戦を演じ、 ソ連崩壊後も英米型民主主義に敵対する専制的強権国 家となった。同じく米英から膨大な支援を受けて戦勝 国となった蒋介石の中華民国は終戦と共に始まった国 共内戦に敗れて大陸を追われた。一方、連合国と敵対 した日本は戦後、米英に与して自由主義陣営の重要な 一員となり、敗戦によって東西に分断されていたドイ ツも再統一後、米英陣営の一員として共に自由で民主 的な社会の発展に寄与してきた。

このように大戦後の国際状況は激変したにも拘ら ず、第二次世界大戦に対する評価は終戦直後と変わっていない。ヒトラーがいなければ欧州大戦は起きな かったとする史観が欧米メディアを覆い、東アジアも 日本が大陸を侵略した末に真珠湾奇襲へ奔 はし ったために アメリカが鉄槌を下したとする史観のままである。戦 後、アメリカやソ連(ロシア)などで原史料が公開されると共にこうした史観の見直しが進んでいるが、歴 史の再評価を修正主義と称して拒絶する知識人も多 い。英米連合の聖戦プロパガンダに洗脳された結果、 敗者側の開戦の理を認めることができないのだろう。

例えば、第一次世界大戦後に英仏はドイツの人口と 国土を一割以上削減した上に、開戦前の国民総所得の 二倍を超える賠償金を課したが、イギリス代表の一人 としてベルサイユ講和会議に出席した経済学者ケイン ズはこれに反対し、この過酷な賠償が欧州に再び戦争 をもたらすだろうと語っている。だが今日、大戦の惨 状を語る人は多くても、ケインズのこの言葉を思い起 こす人は稀である。

(2)どの国が正義を名乗れるのか

一九三九年九月、ヒトラーが分断されたドイツ領東 プロイセンに通じるダンツィヒ回廊問題の武力解決を 図ってポーランドに侵攻したことから第二次世界大戦 は勃発した。ドイツ軍に遅れてスターリンも東側から ポーランドを侵略し、独ソ両国による分割協定でポー ランド国は消滅した。ソ連軍はさらにバルト三国へ侵攻して自国領とし、フィンランドの一部も割譲させた。 ところが四一年六月に独ソ戦が始まると、米英はソ連 を連合国の一員に加え、スターリンは「領土不拡大、 民族自決」を謳った大西洋憲章に平然と署名した。

一方、東アジアにおいても、日本の大陸進出を非難 するアメリカはハワイを併合し、フィリピンを植民地 とし、イギリスは香港や揚子江流域に特殊権益を握 り、フランスはベトナムで、オランダはインドシナで 植民地政策を進めていたが、彼らも植民地を解放する 意思のないまま大西洋憲章に署名している。ところが 終戦後、ソ連と隣接する東欧や中国、朝鮮半島は共産 化し、海軍大国だったイギリスは、インドなどの広大 な植民地を失って世界帝国の座を失い、フランスはベ トナムやナイジェリアで、オランダはインドネシアで 共に独立運動の封じ込めに追われた。

こうした史実を見れば、米英は何を目的として開戦したのか、疑問を持つのが当然である。だが報道の自 由が許されていたはずの米英でも終戦後長らく、ルー ズベルト大統領やチャーチル首相を英雄視するマスコ ミによってそれらの疑問は封じられてきた。その一例 はGHQ労働局諮問委員会の一員だったアメリカの H・ミアーズ女史が極東裁判終了直後の一九四八年に 著した『アメリカの鏡・日本』に見ることができる。 女史は日本が真珠湾攻撃に至った背景を客観的に論じ て日本悪玉論を質 ただ したが、マッカーサー司令官によっ て出版禁止とされている。主権回復後に邦訳が出たが 国内を覆った「一億総懺悔」の空気の中で同書は注目 されず、アメリカ本国でもメディアから遠ざけられた。

  (3)ルーズベルト外交批判の二人の政治家  

だがルーズベルトの資質や政策を批判してきた政治 家は、第二次世界大戦の開戦前からアメリカ国内に多 数存在した。本稿では、ルーズベルトと同時代を生き たアメリカの政治家の書をもとに当時の外交政策の是 非を検討する。特にフーバー元大統領の『裏切られ た自由』と、国務長官だった祖父をもつ下院議員H・ フィッシュの『ルーズベルトの開戦責任』は、アメリ カの開戦関与から終戦後処理に至るまでの政策決定の 経緯を関係者の証言をもとに書かれており、ルーズベ ルト外交を究明する重要な資料である。

二 フランクリン・デラノ・ルーズベルト

(1)その生い立ちとパーソナリティ  

ルーズベルトの先祖はユダヤ系オランダ人だが、ア メリカ独立時の憲法制定会議の一員に選ばれた名門に 生まれており、日露戦争の仲介者となったセオドア・ ルーズベルト大統領も親戚である。父ジェームズ・ ルーズベルトが五十四歳の時にアヘン戦争で財を成し たデラノ家の二十八歳の娘サラと再婚して生まれた一 人っ子がルーズベルト大統領である。十四歳まで家庭 教師の下で学んでいたため、初めて入学したグロトン 校の寄宿生活に苦労している。ハーバート大学を経て コロンビア大学の法律学校を卒業し、二十三歳でセオ ドア・ルーズベルトの姪であるエレノアと結婚。二十 八歳で州議会の上院議員となり、三十一歳の時、ウィ ルソン大統領から海軍次官に任命され、三十八歳の若さで民主党副大統領候補になった(この頃、ウイルス 性の小児麻痺に罹患)。選挙に敗れて弁護士に戻った 後、ニューヨーク州知事を経て一九三二年の大統領選 で共和党フーバーを破って第三十二代アメリカ大統領 (五十歳)となった。

経歴から明らかなように、ルーズベルトはアメリカ の上流社会の家庭に育った頭脳明晰な一人っ子であり、華麗な経歴を持った大統領である。こうした資質と環境のもとに育った人は、①空想力・構想力共に豊 かで、②言葉が豊富で論理的な説得力に長け、③自尊 心が高く重要な問題を他人に相談せず他人の説得にも 応ぜず、④外面は穏やかだが人の好き嫌いは激しく、 ⑤能力等で自分より劣ると思った人を見下し、⑥社会 の弱者に同情の言葉をかけても犠牲的行動はとらない、というパーソナリティが見られる。

実際、ルーズベルトと何度も議会で対決したフィッ シュ議員は以下のような実例を挙げている。「ルーズ ベルト政権の女性閣僚であったF・パーキンスは青年 時代から彼をよく知る人物である。ルーズベルトは本 を読まなかった、と彼女ははっきり述べている。ルー ズベルト自身も経済学の本を手にしたことがないと認 めている。ホワイトハウスに詰めていた幹部や職員も ルーズベルトが専門書を読んでいるのを見ていない。 彼が興味を持っていたのは推理小説と海軍関係の本だけであった」。

専門書を理解する知力がなかったのでなく、彼の自 尊心が読む必要を認めなかったのだろう。「彼の意思 決定は、欲望、好き嫌い、あるいは偏見といった非常 にパーソナルな感情に左右されていた」とルーズベル トを知る人の言葉をフィッシュは記している。任期八 年の不文律を破って米国史初の長期政権を握らせたことが、彼を「最高の権力を持つ人間」と思い込ませて しまったとフィッシュは言う。しかし、ルーズベルト は初めて大統領に当選した時に、前大統領フーバーが 退任十日前に国民の経済不安を和らげる何らかのメッ セージを出すことをルーズベルトに提案した手紙に対 し、「彼は無視しただけでなく、なんと二週間も返事 さえ書かなかった」(D・M・ケネディ『恐怖からの 自由』)。さらに就任演説でも、「この危機に直面し私 は戦争をも想定したような幅広い権限を議会に求める でしょう。実際、外国の侵略を受けた時に与えられる であろう程の強大な権限を」と語っている。実際、就 任後の彼は、議会を無視して開戦から終戦の密約に至 るまで密室外交を進めたが、それは政策遂行上やむを得ずに為されたものでなく、過剰な自尊心に起因する のではなかろうか。

ルーズベルトの支持者であったJ・ルイスは放送 を通じて彼を批判し、「傲慢で、異常なほど利己的 で、権力に貪欲だった」と言い、長年の知己であった ニューヨーク・タイムズ紙のA・クロックも「彼には 知力が欠けていた。深い思考ができなかった。それが 必要な場面では口先だけの、気が利いていると思わせる演説で切り抜けた」、さらに「信じる国益のためで あれば、事実の隠蔽は致し方ないと決め、そのことが
正しいか正しくないかなどと悩むことはなかった」と 語っている(『ルーズベルトの開戦責任』)。

(2)アメリカを復活させたのは第二次大戦

ナポレオン戦争後のイギリスは世界に植民地を持 ち、欧州大陸の争乱をよそに「栄光の孤立」を謳歌 し、モンロー宣言によって欧州の干渉を排したアメリ カも新大陸経営に専念した。だが一九世紀後期の欧州 では民族統一の機運が高まり、ドイツやイタリアは統 一国家を作ると、その勢いをかって植民地獲得競争に 乗り出し、既得権益を持つ英仏と激しく対立した。第 一次世界大戦は武力によってその解決を図ったものだ が、ベルサイユ条約は根本問題を解決するどころか 却って深刻化させてしまった。条約は敗戦国に憎悪を もたらし、英仏は戦争に勝ちながら債務国へと転落し た。膨大な犠牲を払った戦いの末に訪れた混乱と失望 は、欧州の多くの人々を共産主義やファシズムやナチ ズムといった思想に走らせた。

一方、戦争債権国となったアメリカは世界の富を集 め、一九二〇年代末には世界の工業生産の半ばを占めるに至った。そこに突如起きた世界恐慌がルーズベル トをアメリカ大統領に押し上げた。ルーズベルトは政 府が市場に積極的に関与する社会主義的政策をとるこ とで不況脱出を図ったが、投資に見合った成果は得られず、三七年には増税などによる金融引き締めを行い 「ルーズベルト不況」と称される第二の不況を招いた。 結局、GDPが恐慌前の数字を回復したのは第二次世 界大戦開始後であり、失業率も恐慌前の水準に回復し たのは戦争中の四三年である。四五年にはGDPが参 戦前の約二倍近くにまで達したが、軍需産業の発展が 大きく影響しており、失業率の低下も人口の一割を超 える約千五百万人の若者の動員が大きい。

結局、第二次世界大戦がアメリカの経済を復活さ せ、世界の超大国としたわけだが、就任当時のアメリ カの国力や演説などからルーズベルトが就任当初から 開戦を想定していたとみる学者も少なくない。事実、 アメリカは第一次世界大戦前にGNPで英独の合計を 上回っており、二〇年代には人口が一億を超え、イ ギリスと並ぶ軍艦を保有する海軍大国になっている。 ルーズベルトは戦争をしても敗者にならない国の大統 領になったのである。この軍事力を駆使して自国の経 済混乱を再建するだけでなく、世界に新秩序を創造し ようという野心を持っても不思議でない。病弱の身で ありながら大統領任期を四期まで続けたのも、自分の 始めた戦争は自分の描く新しい世界地図で終結させる という強い思いがあったからだろう。

三 戦争へ向かうルーズベルト外交

ルーズベルト政権の特色は二つある。一つは発足当 初から外交政策が好戦的であったことである。すでに 就任演説で彼は「戦争」という言葉を使っているが、 彼が演説で「戦争を想定した」と言った途端、聴衆が 思わず歓声を上げ、拍手喝采したことに何だか恐ろしい印象を受けたと妻のエレノアが語ったこと、政権発 足後の二回目の閣僚会議で日本との戦争を想定し、で きれば戦争を避け、経済政策で屈服させる方針をとる が、戦争になった場合は太平洋を挟んだ戦争は海軍が 主力になるためハワイを基地とし、アリューシャン列 島から日本を空爆すべきだと大統領が語ったことを 『ルーズベルト秘録』は、あげている。

もう一つの特色は、社会主義思想に受容的で就任 早々ソビエト政権承認を行うと共に、ニューディール と称される社会主義的政策を進めたことである。

(1)ソビエト政権の承認とニューディール政策が もたらしたもの

フーバーは、第一次大戦終了時のウィルソンから ハーディング、クーリッジ、フーバーに至る四人の共 和党大統領がソビエト政権を承認しなかったことを挙 げ、「自由な人々を抑圧する陰謀にわが国がわざわざ 門戸を開放してやるようなことがあってはならなかった」と言い、さらに三二年に起きた「ボーナス行進」 (アメリカ共産党のB・ギトローがコミンテルンから 派遣された工作員らと協議して具体的な行動計画を 練ったと告白した事件)や、三三年二月に「ソビエト 政府が偽ドル札に関与」と報じたニューヨークタイム ズの記事を挙げてソビエト政権の承認に疑問を呈して いる。

二〇年代は社会主義思想が世界に広がり、二四年に イギリスで労働党、フランスで急進社会党という左翼 政権が誕生してソ連を承認しているが、資本主義・自 由経済を国是とする大国アメリカが世界革命を唱える ソビエト政権を一九三三年に承認したことは、国際社 会へのソ連の加入を保証したに等しかった。ソ連は、 アメリカが承認した翌年に国際連盟に加入している。

ルーズベルトのソ連承認が社会主義への理解を示す のか、ソ連との貿易拡大を狙ったものか不明だが、権 力志向型の彼にとって国家が国民の経済活動に積極的 に介入する社会主義に違和感はなかったに違いない。

だがソビエト政権の承認および同時に進められた ニューディール政策による公共事業の拡大は、ソ連の スパイやシンパをアメリカ国内や政権内部に激増させ た。FBI調査によれば、アメリカ共産党員の数はソ 連承認前の一万三千人が数年で八万人を超え、ブリット駐ソ大使も三六年に「我々は、ソビエト政府、共産 党あるいはその党員と友好関係を築けるというような 幻想を一瞬たりとも抱いてはならない」という警告文 をホワイトハウスに送ったとフーバーは書いている。 しかしルーズベルトはソ連に甘かった。非米活動委員 会のダイズ委員長は、三八年八月に労働組合組織に関 わる聴聞会を行った時、ホワイトハウスに呼ばれて大 統領から「共産党員を調査するという作業は間違って いる。その調査はナチスの活動に向けられるべきだ」 と言われたと証言している(『裏切られた自由』)。

 (2)開戦への舵取りをしたルーズベルト  

①戦争に関する大統領選の公約とアメリカ世論   三七年十月、ルーズベルトはシカゴで「米国は英仏 などと集団安全保障を組んで、国際的無政府状態を引 き起こしている国(独伊日)を隔離すべきだ」という 「隔離演説」をしたが、ハル国務長官もこの演説内容 を事前に知らされていなかったという。

三九年九月に第二次世界大戦が勃発したが、アメリ カ世論は戦争介入に九四%が反対だった。一九四〇年 夏にフランスがドイツに降伏しても八五%が反対して いた。しかし、その夏、ルーズベルトは反戦論の強い共和党内から好戦派のH・スチムソンを陸軍長官 に、F・ノックスを海軍長官に任命して着々と開戦準備を進めている。しかも国民に対しては、同年十月二 十三日、フィラデルフィアで、この政権はこの国を戦 争に導こうとしているという共和党の非難を誤りだと 断言し、自分は「平和への道筋をたどっている」と語 り、さらに続く十月三十日のボストンでは「我が子を 戦場に送ることを心配しているお父さんお母さん、全 く心配することはありません。あなた方のお子さんが 外国での戦争で戦うことは決してありません。何度で も何度でも繰り返して約束します」と断言している。 (『ルーズベルトの開戦責任』)

②英仏を開戦へと追い込んだルーズベルトの工作   英国のチェンバレン政権の駐米大使ロシアンは三七 年六月にこう演説している。「民族自決の原則がドイ ツに適用されるのであれば、オーストリア、ズデーデ ン、ダンツィヒ、そしておそらくメーメル地方もドイ ツに編入されなければならない。さらにポーランド領 のシレジア地方やポーランド回廊についても国境の再 調整が必要である」(『ルーズベルトの開戦責任』)。

その言葉通り、第一次世界大戦後の混乱を脱したド イツは、ケインズも予言したように、ズデーデンやダ ンツィヒなどの分断された領土と民族の再統一を求め るようになった。そして三八年のミュンヘン会談で英 仏はズデーデン地方の併合を認め、帰国した英国のチェンバレン首相は国民から喝采を浴びた。それから 間もなく、チェンバレンと会談したフーバーが「ドイ ツの顔が東に向いている……戦争が再発する可能性が 高いが、それは独ソ間の戦争であってほしい」と語る と、チェンバレンもそれに同意した(渡辺惣樹著『誰 が第二次世界大戦を起こしたのか』)。

ところが翌年三月末、チェンバレンは突然、ドイツ によるダンツィヒの割譲要求にポーランド政府が抵抗 する時は、英仏両国はポーランドを全面的に支援する ことをポーランドに伝えてあると発表し、二週間後に はルーマニアにも同様の支援を約束した。

チェンバレンの政策転換の背景にはルーズベルトの 工作があった。「ブット(米国駐仏大使)の工作がなければドイツはイギリスとの戦争を避けただろう。そ うなっていればヒトラーはソビエトと戦っていたはず である。フランスもイギリスも、アメリカの工作がな ければポーランドの問題を開戦理由にするようなこと はなかった……ルーズベルトがイギリスを無理やり戦 争に駆り立てた」、駐英大使だったJ・P・ケネディ が終戦の年にそう語ったと海軍長官フォレスタルの日 記にある(『裏切られた自由』)。

さらにポーランドの駐米大使ポトツキがブット駐仏 大使から聞いた言葉を本国に送った三九年一月十六日付の報告書を、ワルシャワ占領後にドイツ軍が押収し て公開している。この公開された文書を見たポトツキ は本物だと証言しているが、そこには「フランスとイ ギリスは全体主義国家とはいかなる妥協もしてはなら ない。それが大統領の断固たる考えである。両国は、 どのような形であれ現行の領土の変更を狙う交渉に 入ってはならない。その要求の代償として、両国に対 してアメリカは倫理的な約束をしている。それは、ア メリカは孤立主義を止め、戦争が起きた場合は積極的 に英仏の側に立って干渉するというコミットメントで ある」と書かれている。ただ、ケネディ大使は「ルー ズベルトがイギリスを戦争に駆り立てた」と考えた が、イギリスのチャーチルもルーズベルトの工作を強 力に後押ししていた。

四〇年、ロンドンの米大使館暗号係タイラー・ケン トがアメリカの外交用郵便袋から特定の通信文書を 盗み、一部の内容をイギリス下院議員ラムゼイ陸軍大 尉とロシア生まれの女性に教えた疑惑で逮捕される 事件があったが、その後、ラムゼイ大尉の拘留が長期 に及んでいたため、四四年六月に英国議会で、「現首 相(チャーチル)は故チェンバレン首相の下で海軍大 臣だった当時、首相に隠れて、アメリカからどの程度 強力な支援が得られるか、アメリカが参戦できるのかを探るためにルーズベルト大統領と書簡のやり取りを 行っていたと聞いている……ラムゼイが釈放されたら それが真実だと触れ回ると難しい事態となるので、首 相が彼の釈放を望まないために拘留が続いていると聞 いている」と労働党議員が問い質している。

一九四五年春にルーズベルトが死ぬと、チャーチル は彼の追悼集会で、それが事実であったことを認め た。「一九三九年九月、私が海軍省に移りますと、彼 から電報が届きました。海軍やその他の問題について 直接連絡するようにと言ってくれたのです。首相の許 可を得て、私はそうしました。私が首相になり、我々 自身の生活と生存の天秤が片方にかけられたような状 況に陥った時、私はすでに大統領と極めて親密で…… この関係は彼から最後の連絡が届いた先週の木曜日ま で、世界的な戦争が浮き沈みするあいだ中続きまし た。その数は一七〇〇通を超えていると申し添えておきます……」(『ルーズベルトの開戦責任』)

参考資料…『裏切られた自由』(フーバー著、ナッシュ編)、 『ルーズベルトの開戦責任』(H・フィッシュ著)、『真珠 湾の真実』(R・スティネット著)、『ルーズベルトの責任』 (C・ビーアド著)、『アメリカの鏡・日本』(ヘレン・ミアー ズ著)、『日本は誰と戦ったのか』(江崎道明著)