令和の御代替はりにみる戦後体制の諸問題

飯田耕司/ 元防衛大学校教授

平成三十一年四月三十日、上皇陛下は皇太子殿下に譲位され、翌五月一日に今上陛下の「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」が行はれて、「令和」に改元された。我が国の譲位は、皇極天皇四年(六四五)六月、「大化の改新」の折に、皇極天皇が孝徳天皇に大王位を譲ったのが最初とされる。今上陛下までの過去百二十五回の皇位継承のうち、五十七代が譲位によって行はれた。近くは江戸時代後期・文化十四年(一八一七)の第百十九代光格天皇以来(二百三年前)のことである。

この度の「譲位」は、上皇陛下がご意向を明らかにされてから実現されるまでに、ほぼ九年の歳月を要した。譲位時の上皇陛下は御齢八十五歳、即位された今上陛下は五十九歳、いづれも歴代天皇の中で、極めてご高齢の「譲位」であった。

皇室と国民の絆

これより三十数年前の昭和六十三年の冬、昭和天皇の御病状の重篤化が報道された。日本全国は年末・年始の華やぐ季節にも拘らず、歌舞・音曲が自粛され、全国民が陛下の御病気の平癒を祈る静かな歳の瀬に変はった。この冬には、皇居前や京都御所、葉山御用邸のほか、千葉、名古屋、福岡、大島(東京都)など、各地に「天皇陛下の御病気平癒祈願」の記帳所が設けられ、多くの国民が訪れて記帳した。その数はご病状の報道から一週間で二百三十五万人、最終的な記帳者の総数は九百万人に達した。また皇居二重橋前の石畳には、跪(ひざまず)いて合掌し、陛下のご平癒を祈る国民の姿が連日絶えなかった。

大東亜戦争終戦の直後にも、同様に皇居前広場の玉砂利の中にひれ伏して、「ご奉公の至らざるを詫びる」国民の姿が引きも切らずに続いた。日本を占領した連合国軍総司令部(以下、GHQと略記)は、これを危険視し、天皇と国民の絆を断つために、天皇自らの「神格の否定」(人間宣言)、国家神道の禁止(神道指令)、万民平等を謳(うた)ふ「民主憲法の制定」(天皇大権の廃止)、等々を徹底的に行った。それは占領の終了(昭和二十七年四月末)後も、所謂「戦後レジーム」として続いたが、更に三十六年余を経た昭和の末に至っても民の「恋闕(れんけつ)、尊皇の心」は変はらなかった。

当時、GHQの先棒を担いで世に時めいた進歩的文化人らは、これを「土人の文化」と嘲笑したが、これこそ我が国の二千年の歴史が培(つちか)った「天皇と国民の絆」である。即ち「純粋に無私の人格」の天皇が、「日々、国民の平安と幸福、世界の平和」を神々に祈り、その大御心(おおみこころ)に感応して「天皇に感謝し、君を慕ふ」国民の民族的な心の絆が結ばれた。それが日本文化の芯であり、特質である。国民はGHQの占領政策や、その後の戦後レジームの中でも、この心を溶解させることなく、今に繋(つな)がってゐると筆者は確信する。

昭和天皇の全国巡幸と上皇の災害地慰問・戦歿者慰霊の旅

昭和天皇は戦後、戦災で破壊された鉄道の復興も不完全な中、全国をくまなく巡幸され、敗戦と戦災に打ちひしがれ、失意と虚脱の中で喘(あえ)ぐ被災者を激励された。即ち昭和二十一年二月十九日、川崎市の昭和電工川崎工場への行幸に始まり、昭和二十六年十一月の京都、滋賀、奈良から三重県伊勢・志摩への十四日間の行幸まで、全国の焼け跡を巡幸され、堵列(とれつ)する国民にお声をかけて激励された。なお、北海道への巡幸は、大戦中、帝国海軍が津軽海峡、対馬海峡に機雷堰(きらいせき)を設けて米潜水艦の日本海侵入を防ぎ、戦後その撤去に手間どり、機雷の係維索が切れて津軽海峡から太平洋に流出する浮流機雷が多く、その危険を回避するため、昭和二十九年八月まで先送りされた。

昭和天皇の巡幸の全行程は、三万三千キロメートルに達し、本州、四国、九州、北海道の全国四十六都道府県の市町村を、総日数百六十五日、一日平均二百キロメートルの強行軍で行はれた。陛下は日本復帰後の沖縄県への巡幸も強く望まれたが、病に臥されて叶はず、昭和六十二年十月二十四日、沖縄国体の開会式に御臨席のため沖縄を訪問された皇太子殿下(現上皇陛下)が、糸満市摩文仁(まぶに)の国立沖縄戦没者墓苑と沖縄平和祈念堂を訪れ、沖縄戦の戦歿者の遺族や県内の各界代表者とお会ひになり、昭和天皇からお預りした「お言葉」を代読された。

上皇陛下は三十年余のご在位の間、伝統の宮中祭祀のお祀りを厳粛に執り行ひ、皇祖皇宗及び日本全国の社に祀られる神々の総祭主のお務めを果たされた。また「日本国憲法」の枠組みの中で公務に励まれ、度重なる地震・台風等の災害の都度、現地を訪れて被災者を激励し、国民の困難と労苦に寄り添はれた。更に先帝、昭和天皇の御心を承けて、先の大戦の戦歿者慰霊に深く心を配り、広島・長崎や沖縄を訪れ、また硫黄島をはじめ、サイパン島の慰霊、ペリリュー島、フィリピン・マニラ慰霊等、南洋の島々を上皇后陛下と共に行幸啓されて、慰霊の祈りを奉げられた。

平成の譲位の経緯

「譲位」による皇位継承の規定は、「日本国憲法」にも「皇室典範」にもなく、「大日本帝国憲法」(以下、「帝国憲法」と略記)にもなかった。そのため政府は急遽「皇室典範特例法」を制定し、国家行事として「御代替(みよが)はり」の式典を行った。

上皇陛下の「譲位」のご意思は、平成二十二年七月二十二日の夜、御所で開かれた宮内庁参与(皇室の重要事項に関する天皇陛下の相談役)の会議に、天皇・皇后両陛下が出席され、陛下がお話しになったのが最初とされる。当時、陛下は七十六歳、一般人ならば「後期高齢者」であり、老体を労はり日々を安息に過す年代である。このとき陛下の「譲位のご意向」に対して、参与会議の出席者は全員、「譲位」ではなく「摂政」を置かれることを進言した。しかし陛下は「天皇の勤めは天皇自身が全身全霊で行ふべきものである」としてこれを退け、「譲位」を主張されたといふ。ここに陛下の厳しく揺るぎない「天皇観」が示されてゐる。

陛下の「譲位」の発意は、現代の医療の進歩に伴って陛下の高齢化が進んだ場合、天皇の激務のお務めが困難になり、皇室活動の不活発化を避けるためであることは、「皇室典範特例法」の第一条にも述べられてゐる。また皇位継承時の先帝の大喪や殯(もがり)の儀式と、即位の大礼の重複による日本社会全体の実務的・心理的悪影響の回避に配慮されたものと考へられる。しかしその翌年、東日本大震災(平成二十三年三月十一日)が起こり、また総理大臣が毎年交代する民主党三代の短命内閣や、民主党政権から自民党・第二次安倍内閣への政権交代等々、相次ぐ政治の混乱により、「譲位」の準備は全く進まず、御代替はりには約九年の歳月を要した。 また陛下は「皇室典範」の改定による「譲位」の制度化を望まれたやうであるが、「皇室典範特例法」は、「譲位」を明仁陛下一代に限定し、陛下は「これでは自分が我儘を言ったことになる」と不満を漏らされたと伝へられる。陛下はこの間、ご高齢にも拘らず、宮中祭祀を欠かさず執り行はれ、定例の公務、東日本大震災をはじめ、中越地震、台風・豪雨による水害・土砂災害等の度重なる自然災害の被災地への慰問・激励、硫黄島をはじめ南洋の島々への戦歿者慰霊の行幸啓等々、大変な激務を務められた。

譲位の違憲問題

上述した「譲位」の遅延もさることながら、憲法学者や政府部内から「譲位の憲法違反論」が起ったことは、上皇陛下には予想外のことであったと推察される。

その「憲法違反の理由」は、天皇陛下のご意思による「譲位」は、象徴天皇の政治的行為を禁じた「日本国憲法」の規定に違反し、かつ古来の神道の様式に則(のっと)った「宮中儀式」を国家行事として政府が主宰することは、「政府の宗教的中立性」を規定する憲法二十条に違反するといふものである。これらはいづれも理不尽な言ひ掛かりである。それは以下の四つの理由による。

理由第一。「譲位」は元来「天皇の自発的意思」によるものであり、「皇室典範特例法」の第一条にも陛下の「ご意思」が「譲位」の前提であることが明記された。

その上で「特例法」では「(国民は)天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感してゐること」を挙げ、ここでも「天皇陛下のお気持ち」に言及し、「譲位」が天皇のご意思であることを再確認してゐる。これがない場合、「御病気による摂政」以外の「生前の天皇退位」は「強制退位」、即ち「皇位簒奪(さんだつ)」である。

このやうに「譲位の本質的要件」である「天皇の自発的意思による皇位継承が、憲法に違反する」といふ「違憲論」の主張は、憲法が論理的一貫性を欠く欠陥憲法であることを明示したものである。

理由第二。本稿の冒頭に述べたとほり「譲位」による皇位継承は、皇室の歴史の中で半数弱(四五・六%)を占め、特異例ではない。それに対して法の規定がないことは、法制の不備であり、この不備を補ふために「皇室典範特例法」が作られ対処された。それは当然の措置であり「違憲」ではない。

理由第三。「政府の宗教的中立性の違憲」については、「神道」による皇室の宮中祭祀は、「日本国憲法」が禁止する「宗教行為」ではないので、政府がこれを国家行事としても、「宗教的中立性を侵す」ことにはならない。即ち皇室が「神道」に則って行ふ「宮中祭祀」は古代から伝承された天皇のお勤めであり、その天皇の「在り様」を容認し、「国民の象徴」として明文化したものが「日本国憲法」である。従って「日本国憲法」の第一章「天皇」に「天皇の宮中祭祀を禁止する」条項がない以上、「日本国憲法」は「違憲糾弾の根拠」とはなり得ない。

理由第四。前述したとほり、「日本国憲法」や「皇室典範」には「譲位」の規定はない。「規定」がない以上、「違反の事実」は存在しない。

以上の理由により、譲位の「違憲論」は理不尽な言ひ掛かりに過ぎず、その主張は、「日本国憲法」が我が国の国柄に悖(もと)る「不適格憲法」であることを自ら認めたことに他ならない。

また昭和から平成への御代替はりの儀式に参列した県知事や県議会議長に対して、政教分離の憲法の規定に違反するとの左の三件の住民訴訟が起こされてをり、最高裁まで争はれて、いづれも棄却されて敗訴した。

① 主基斎田(すきさいでん)、抜穂(ぬきほ)の儀に参列した大分県知事、副知事、農政部長への憲法違反訴訟(平成十四年七月九日、最高裁第三小法廷。棄却敗訴)。
② 大嘗祭に参列した鹿児島県知事への違憲訴訟(平成十四年七月十一日、第一小法廷。棄却敗訴)。
② 即位礼正殿の儀参列の神奈川県知事・県議会議長、大嘗祭に参列の県議会議長への違憲訴訟(平成十六年六月二十八日、第二小法廷。棄却敗訴)。

右の三件の最高裁判決は、「御大礼」への知事等の参列の公費支出が、原告に不利益を与へないといふ判断や、知事が参列することが政教分離の目的効果基準(註)に照らして憲法の政教分離に反しないと判断されたと考へられてゐる。

註: 憲法の政教分離規定は、「国家が宗教とある程度の関り合いを持たざるを得ないことを前提として、その関り合いが容認の限度を越えると認められる場合にのみ違反とされる」とする判定基準であり、「目的効果基準」と呼ばれる。その後の政府の令和の「即位の礼」や「大嘗祭」への国費支出の根拠は、この最高裁の判決の「目的効果基準」によるとされる。

言ひ掛かりの違憲論に屈した政府の対応

上述した「言ひ掛かりの違憲批判」を怖(おそ)れた安倍晋三内閣は、上皇陛下の「譲位」を、「皇室の私的な皇室行事」と政府主宰の「国家行事」とに分割し、更に念を入れて、日を替へて上皇陛下の「退位の礼」と、今上陛下の「即位の礼」を行ふといふ姑息(こそく)な方策により、不適切な「譲位」の御代替はりの「御大礼」を執り行った。即ち父子継承の一連の「譲位の礼」を、「皇室の私的な宮中祭祀」と政府主催の「国家行事の儀式」に分断し、隔日の「天皇の退位礼」と「新天皇の即位礼」を「譲位」としてすり替へた。

日本の社会は政府のこの措置を何の抵抗もなく受け入れたが、しかし天皇の「宮中祭祀」は皇室の存在そのものであり、この政府の決定は「皇室は私的存在である」とする「日本国の決定」を意味する。従って今回の「平成の譲位の国家行事」は、「マッカーサー憲法」に忖度(そんたく)し、前述の最高裁の合憲判決さへも無視して、我が国の二千年の伝統的「皇室儀礼」を毀損(きそん)し、「皇室を私的存在」として貶(おとし)めた政府の重大な過ちである。これまで歴史的存在の「国体」を正しく宣言する「憲法改正」を遷延してきた歴代の保守政権の怠慢が原因であり、早急な「日本国憲法」改正の必要な理由がここにある。

抑々、皇室の宮中祭祀でお祀りする神々は、仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の外来の宗教のやうに、教祖が「観念上に創作した神」ではなく、日本建国の祖先神と、日本民族の感性が生んだ森羅万象・天地万物に宿る八百万(やおよろず)の神々である。また外来の宗教は「仏の慈悲や神の恩寵による救済を信ずること」であり、日本の神道は「神を崇(うやま)ふこと」である。神に対する「心の姿勢」が全く異なり、神道は「神に信順し、信仰する」宗教ではない。「日本国憲法」第二十条の「宗教活動・信仰の自由」は、外国起源の宗教を想定したものであり、日本の津々浦々の社に鎮まります神々とは、無縁であると言ってよい。神道は、他のすべての宗教を排除しない。また「帝国憲法」第二十八条でも、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、伊勢神宮を本宗とする国家神道の下に、他のあらゆる宗教の信教の自由を保障した。同じ意味で皇室の「宮中祭祀」は、「日本国憲法の信教の自由」を妨げない。

「日本国憲法」の改正問題は後述するが、上に述べた日本文化の根底にある「日本の神々」を復活し、「国の容(かたち)(国体)」を明確にすることが重要である。即ち外来の神々を想定した「マッカーサー憲法」を廃止し、日本民族の本来の神々と祭政一致の「天皇を元首」とし、「神道を国教」と規定した上で、外来の宗教の「信教の自由を保障する」憲法に改定すべきである。「国教」の定めと、その他の宗教の「信仰の自由」が矛盾しないことは、「帝国憲法」や英国の例が挙げられる。

GHQの日本弱体化政策

大東亜戦争の敗戦後、日本を占領したGHQは、日本の伝統文化の中心の皇室を「軍国主義の源泉」として政治的に抹殺した。更に一方的な「東京裁判」を行って「大東亜戦争」を日本軍部の侵略行為と断罪し、「東京裁判史観」による「戦争贖罪(しょくざい)宣伝 WGIP(WarGuilt Information Program)」を徹底して、国民の意識改革を行った。GHQは「民主・平等」の美名の下に、「華族・士族・平民」の身分制度を撤廃し、「家憲・家訓を堅持する一子相伝の家」を分解して均等分割相続の核家族とした。更に「人権指令」、「神道指令」、「検閲・言論統制」、「五大改革指令(① 女性解放 ② 圧政的諸制度の撤廃 ③ 自由主義教育 ④ 労働組合の結成 ⑤ 経済の民主化)」、「天皇の神格否定」、「教育制度改革」等々、我が国の社会制度のみならず、国民の精神生活にまで踏み込んで日本文化の破壊に努めた。

即ち天皇と国民の絆を断つために、「天皇の人間宣言」を強要し、皇室の藩屏たる「宮家の廃止」、「国民主権」を謳(うた)ふ「民主憲法の制定」、「教育制度改革」(GHQ覚書、昭和二十年十月二十二日)、プレスコードによる「言論統制・検閲・焚書(ふんしょ)等々を徹底的に行った。

そのために我が国の「由緒と格式のある伝統的縦社会」は、ヤンキー文化の「のっぺらぼうで薄っぺらな平等社会」となった。軍事力を背景にした占領軍による伝統的日本文化のホロコースト(大虐殺)である。

GHQはポツダム宣言による「日本の無条件降伏」を根拠に、上述した徹底的な日本文化破壊の暴挙を強行したが、「ポツダム宣言」は「日本軍の無条件降伏」を要求し、我が国はこれを受諾して降伏し、帝国陸海軍を速かに解体した。しかし「日本国家の無条件降伏」を
したわけではない。マッカーサーは「軍隊の無条件降伏」を「国家の無条件降伏」にすり替へ、上述の日本の固有文化の「詐欺的改変」を行った。これは明らかに国際法違反であり、日本政府は拒否すべきであったが、「天皇の軍事裁判」の脅しの前に屈服した。

更にGHQの民生局長ホイットニー准将は、マッカーサー司令官を尻押しして、日本政府に憲法の抜本的変革を求め、GHQ原案の「日本国憲法」を強要した。その結果、「国民主権の平和国家」を謳ひ文句とする「日本国憲法」が成立した。「日本国憲法」は「天皇大権」を抹殺して「象徴天皇」とし、国家元首の規定もなく、自衛戦力の放棄さへも明記した。

嘗て昭和天皇は、昭和五十二年八月二十三日の記者会見において「我が国の政は、古来、民主主義(民本主義)である」と述べられた。そのとほりであり、日本国憲法前文や第一条の「国民主権」の文言は、「国民の参政権の保証」で済むことである。また自衛戦力の放棄が「平和主義」であるとする「日本国憲法」は、論理矛盾も甚だしい。これらの重大な欠陥を有する「日本国憲法」は、国家の基本法の「憲法」ではなく、単なるGHQの「占領実施法」に過ぎない。

この憲法により天皇は、名義上「王者としての権能」を失ったが、前述したとほり国民の「尊皇の心」は変はらなかった。平成の「譲位」の違憲問題は、日本文化の源泉と「日本国憲法」の亀裂の表れである。

「占領実施法」の「日本国憲法」

GHQに強制されたとは言へ、帝国議会はGHQの「占領実施法」を「日本国憲法」として受け入れ、「帝国憲法」の正規の改正手続きに従って成立させた。「悪法と雖も『法』である」といふソクラテスの故事に倣(なら)へば、「悪法」にも従ふのが「法治国家の掟」である。しかもGHQの上部機関の極東委員会は「天皇の裁判、処刑、皇室抹殺」を主張する国が多く、マッカーサーはこれを避け、天皇を利用しつつ日本改造の占領政策を円滑に進めるために、極東委員会が機能し始める前に「日本国憲法」の制定を急いだとされ、マッカーサーの「日本国憲法」即製を是認する論者もゐる。

しかしさうであったとしても、「サンフランシスコ講和条約」を締結して既に七十余年、この間、「占領実施法」の「日本国憲法」を一言半句改めず放置したことを正当化する理由にはならない。「日本国憲法の改定」を放置して、この度の我が国の「御代替はり」を毀損するに至ったことは、政治の怠慢であり、特にこの間、長く政権の座にあった自民党の責任は重大である。

平成二十九年十二月、「自民党憲法改正推進本部」は、「憲法改正に関する論点の取りまとめ」として、① 自衛隊 ② 緊急事態 ③ 合区解消、地方公共団体 ④ 教育充実 ――の「改憲四項目」を発表した。しかしそこに伝統的「国体の宣明」はない。またその後、議論が進むわけでもなく、「憲法改正」の機運の気配すらもない。憲法改正を最大の政策課題として発足した安倍政権も、「新型コロナ・ウイルス対策」に翻弄されて、改憲問題は棚上げ状態である。

「国体」を宣明する「日本国憲法」の改正

「日本国憲法」は、これまでにも成立過程の正当性を欠き、元首の規定がなく、自衛戦力の放棄、緊急事態条項の欠落、等々の重大な欠陥が指摘され、憲法改正の議論が行はれてきた。しかしこれまでの憲法改正の中心課題は、上記の自民党案をはじめ、殆どが「第九条の戦力放棄」問題であった。国の基本法の憲法にとって最重要な課題は、「国体」の問題である。これまで我が国では、政党も、憲法学者も、言論界も、世論も、これを全く問題とせず、GHQの占領政策にはまり込んだままの状態が続いてゐる。筆者は「国体の宣明」こそが、憲法改正の最大の論点であると考へる。

「マッカーサー憲法」下の民主国家の日本では、共産党から極右政党まで、それぞれが主義、主張を公開して国民の票を集め、その結果でなければ、何も決められない。ゆゑに一時期の政権が日本民族の国家の拠って立つ理念や理想を宣明することはできないのが道理である。戦後の我が国の政治や社会の混迷は、日本民族の「国家理念」と「理想」を掲げられず、偏頗(へんぱ)な主義・主張が横行して国民の思想や社会道徳の混乱を看過したことに原因がある。嘗てはこのやうな混迷を正すものが、天皇の詔勅であり「おことば」であった。

しかし「日本国憲法」では、天皇は「国民統合の象徴」とされ、天皇の政治的権能を否定した。各種の公務(国会の開会式や天皇ご臨席の式典等)で述べられたことは、「おことば」として公表されるが、その政治的・教育的意義は終戦前の「詔勅」とは全く異なる。

しかしながら、我が国の文化が二千余年をかけて創り出した人類史上に稀有な「無私の人格の天皇」が、日々「国、安らかに、民、幸あれ」と祈られ、「世界の平和を祈念される」誠実な「おことば」は、日本民族の「国家理念」と「理想」を宣明するものである。

また現在では国の定める祝祭日の「成人の日、海の日、山の日、敬老の日、スポーツの日」等々は、民族的伝統の祭祀、祝祭とは無関係な休日である。終戦前の祝祭日は、皇室祭祀の定例日を中心とする民族文化の祝祭日であり、学校では児童、生徒全員が登校して、校長はじめ教職員、地域の首長、名士等が列席の上、祝典が行はれた。御真影(天皇、皇后両陛下のお写真)への敬礼と万歳奉祝、国歌「君が代」の斉唱、校長の祝祭日該当の「勅語」の奉読、祝祭日の奉祝歌の斉唱、校長や来賓の講話等が行はれた。それらの「祝祭日の故実」は、小学校の修身、国史、国語等の教科書で取り上げられ、児童・生徒に教へられた。小学校の教育は、読み、書き、算盤よりも、徳育、修身、国史教育を重要視する教育であった。

また帝国陸軍では、将兵に「軍隊手帳」を配布し、その中には「教育勅語」と「軍人勅諭」が収められてをり、軍人は全文の暗唱が求められた。従って、大東亜戦争の敗北以前に就学した人や、軍隊勤務の経験のある先輩達には、これらは馴染み深い「詔勅」であった。しかもそれらは、国民の倫理道徳の規範であり、「道しるべ」となる文章であり、日本文化の精髄の文章と言ってよい内容であった。

しかし大東亜戦争敗戦後、GHQは「天皇大権」を抹殺した「日本国憲法」を強要して、「詔勅」を禁止し、徹底した制度改革、教育改革を行ったことは、前述したとほりである。また戦後の教育界は、日本教職員組合(共産党が組織を乗っ取り、幹部を「赤」が占有し、「丹頂鶴の日教組」の異名で呼ばれた)が激烈な反権力政治闘争を展開し、組合員の教師等によって、「天皇制抹殺」を公言する教育が行はれた。従って八十歳半ば以上の老人は、小、中学生時代の記憶として、これらの詔勅を覚えてゐるであらうが、戦後に育った大多数の国民は「教育勅語」さへも知る者はごく稀である。

しかし歴代の詔勅や上皇陛下の「おことば」等は、児孫に遺し、確実に伝へるべき日本文化の結晶であり、日本民族の骨髄であると言っても過言ではない。

最近、一般社会では、我が国の国柄や皇室に関する関心が非常に薄い。現代の若者の政治や国家体制、特に皇室に関する無関心と理解の薄さは、国の根幹を腐食させる憂慮すべき事態であると考へる。日本文化の興隆には、我が国の「国体」を国民が深く理解し、「尊皇、恋闕(れんけつ)の心」を共有することが必要である。

筆者は最近、『平成の皇室行事と天皇陛下の「おことば」』(三恵社、令和二年)と題する書物を上梓した(本稿はこの序論を整理、修文したものである)。この執筆意図は、上皇陛下の「国民の平安を祈る無私の真心」と、「日本文化の芯である詔勅」を次世代に弘めることにある。この書物は、上皇陛下ご在位中の皇室行事のあらましと、そのときの陛下の「おことば」を編集し、最後の章には歴史的に重要と考へる詔勅十一編を集めた。これらは年代順に以下のとほりである。

① 「十七条の憲法」(推古天皇十二年=六〇四)
② 「五箇条の御誓文」(慶応四年=一八六八)
③ 「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」(慶応四年)
④ 「立憲政体樹立の詔書」(明治八年=一八七五)
⑤ 「軍人勅諭」(明治十五年)
⑥ 「教育勅語」(明治二十三年)
⑦ 「上下一心忠実勤倹自彊ノ詔書」(明治四十一年)
⑧ 「国民精神作興の詔書」(大正十二年=一九二三)
⑨ 「大東亜戦争開戦の詔勅」(昭和十六年=一九四一)
⑩ 「同終戦の詔勅」(昭和二十年)
⑪ 「新日本建設ニ関スル詔書」(昭和二十一年)

これらは我が国の依って立つ脊梁骨(せきりょうこつ)といふべき詔勅である。特に⑤の「軍人勅諭」は、「軍人は…すべし」の語を「国民は…」に読み換へれば、国民道徳の規範を示し、⑥の「教育勅語」と並ぶ詔勅である。更に⑨⑩は戦後の「東京裁判史観」を是正し、また⑪(俗称「天皇の人間宣言」)は、昭和天皇が詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」を引用し、戦後の復興の指針を示され、天皇と国民の絆を説かれた重要な詔書である。