解読されたソ連の暗号 ―『ヴェノナ』を読む  ―アメリカは誰と戦ったのか―

住谷光一/ 私立高校講師
ヴェノナ作戦とは

一九九五年(平成七)七月十一日、アメリカ政府は 第二次世界大戦終戦五十年の節目に当たり、それま で非公開としてきた旧ソ連の暗号電報を公開しまし た。大戦中の一九四三年(昭和十八)以降、国家安全 保障局(NSA)が「ヴェノナ作戦」の名のもとにソ 連の暗号傍受・解読作業を実施してきた、二千九百以 上の文書がその内容です。その成果をふまえ、アメリ カ共産主義運動の研究者であるジョン・アール・ヘイ ンズとハーヴェイ・クレア両氏が、永年の研究やロシ アで新しく公開された史 料などと照合して著した のが、ここで取り上げる 『ヴェノナ』という書物 です。

『ヴェノナ』は、二〇〇〇年(平成十二)エール大学から出版され、日本語 訳が平成二十二年(二〇一〇)世に出ましたが、直ぐ に売り切れたといいます。そこで、令和元年(二〇一 九)十月、読者の要望に応えて扶桑社が再版し、現 在、書店の店頭に並んでいます。

「ヴェノナ作戦」が立てられたそもそもの由来は、 当時のアメリカ陸軍情報部のカーター・クラーク大佐 が、ソ連とドイツは単独講和を結ぶ目的で秘密交渉を しているのではないか、と疑ったことによるといいま す。当時のソ連の暗号は、一回限りの乱数表に基づく 暗号キーを利用する「ワンタイムパッド」といわれる 方式で、理論上解読不可能とされていました。それに もかかわらず、アメリカ陸軍情報部の解読チームは解 読に執念を燃やし、暗号化の過程でのミスを発見、三 年後には暗号文字列の翻訳に成功したというのです。

その「ヴェノナ作戦」により、最初に得られた内容 は余りにも衝撃的でした。ニューヨークのソ連総領事館とモスクワのソ連外務省の外交通信と思われていた ものが、実はKGB諜報官とモスクワにあるKGB対 外諜報局との通信で、当時、アメリカ最大の秘密とされていた原爆プロジェクトへの浸透を示していたもの だったのです。
ルーズベルト政権とアメリカ共産党

その後も暗号の解読作戦は続けられました。さまざまな調査や資料などと照合し、政府内に食い込んだ人 物なども含め、三百四十九人のソ連のエージェントが 特定されたといいます。

この中には、経済や中国問題の大統領補佐官を務め たラフリン・カリー、近代経済学者ケインズとともにブレトン・ウッズ協定のもとを作った経済学者ハ リー・デクスター・ホワイト、ホワイトによって蒋介 石政府の財務部に送り込まれた冀 き 朝 ちょう 鼎 てい 、ゾルゲとの 連絡員として日本人に送り込まれ、尾 お 崎 ざき 秀 ほつみ 実らと情報 収集のスパイ活動を働いた宮 みやぎ 城与 よ 徳 とく 、日本国憲法制定 に影響力を行使したトマス・アーサー・ビッソンなど がいました。日・米・中の政治や経済、軍事さらには 占領政策にまで影響を与えた重要人物が、ソ連のエー ジェントと確定されたのです。

なぜルーズベルト政権が、このような多くのソ連エージェントの 跳梁(ちょうりょう)を許すことになったのでしょう か。それは、当時のニューディール政策に原因がある といいます。一九二九年に世界恐慌が起こると、失業 者が町にあふれました。その失業者救済のために公共 事業を行ったのですが、それをニューディール政策と いいました。各官庁にも多くの人材が政府要員として 採用され、その中にアメリカ共産党員が紛れ込んだの です。

また、見逃すことが出来ない社会的背景として、一 九一七年のロシア革命以降、マルクス・レーニン主義 思想の優越性が世界中に喧伝されたことがあげられます。一九三〇年代になると、スターリン政治の実態に 気づこうとしなかった各国の学者や知識人などエリー ト層の間に、ソ連を偶像視する風潮が蔓延しました。

こうした背景のもとで、アメリカ市民や移民・永住 者などがソ連のスパイとして仕立て上げられ、重要な 情報を搾取してソ連に流出させていく過程が、『ヴェ ノナ』の中に赤裸々に述べられています。また、本書 に登場するソ連のエージェントとなった人物の経歴を みると、ヨーロッパ由来の人物が多いことにも気づかされます。移民の国アメリカならではの出来事といえるでしょう。

一般的にアメリカは反共的な自由の国であると認識されがちですが、ルーズベルト政権がきわめて容共的 であったことから、アメリカ共産党員が容易に政権中 枢にまで入り込み、ソ連の諜報機関と一体になって重 要な政治・経済情報、さらには軍事情報までをも流出 させる活動を行うことが出来たのです。

ゾルゲ事件と尾崎秀実

諜報活動といえば、わが国では「ゾルゲ事件」がよく知られています。ドイツの新聞記者リヒャルト・ゾ ルゲは、親ナチスを装ったソ連のスパイでした。昭和 九年(一九三四)、日本に派遣され、日本政府や軍部 の動きをソ連に通報する役割を担当していました。そ のゾルゲの連絡要員として派遣されてきたのが、沖 縄出身のアメリカ共産党員、宮城与徳であったこと が『ヴェノナ』の中で指摘されています。『ヴェノナ』 は、アメリカにおけるソ連の諜報活動が、わが国への 諜報活動とも有機的に連携していたことを明らかにするものです。

ゾルゲは、ドイツ大使館を舞台に、宮城や朝日新聞 記者の尾崎秀実などを使って情報を収集し、わが国と ドイツの重要な政治・軍事情報をソ連に通報していた のでした。そのゾルゲと組んだ尾崎の交友関係などを 調べてみると、大正末期から昭和初期にかけ、わが国でも多くの知識人等がマルクス主義に心酔していった 様子を知ることが出来ます。

尾崎は、大正十四年(一九二五)、東京大学法学部 を卒業したあと東京朝日新聞社に入社。この頃にマル クス主義に傾倒し、密かにソ連への忠誠を誓います。 昭和三年(一九二八)から四年間、朝日新聞上海支局 に勤務し、上海でアメリカのジャーナリスト、アグネ ス・スメドレーと知り合いになり、その紹介でゾルゲ と知り合ったとされています。しかし、実際は、アメ リカ共産党から上海に派遣されていた鬼 き 頭 とう 銀 ぎん 一 いち という 人物が紹介したようです。

尾崎はまた上海で、『ヴェノナ』に登場する陳 ちん 翰 かん笙 しよう という人物とも連絡し合う関係になります。陳は、太 平洋問題調査会(IPR)という国際調査協力機関が 発行する機関誌『パシフィック・アフェアーズ』の編 集長で中国派、オーエン・ラティモアの助手として働 きます。陳はIPRという組織を通じ、中国共産党の アメリカ工作に深く関わっている重要人物です。この 頃のIPRには共産党関係者が多く入り込み、『パシ フィック・アフェアーズ』は、日本に対する共産主義 者の宣伝工作誌に変質していました。

陳はまた、昭和七年(一九三二)に来日したことも あります。この時は、和漢洋の貴重な文献を有することで知られる「東洋文庫」で研究に従事するかたわ ら、ゾルゲの指示により尾崎らとともに対日工作にも 従事していたことがうかがえます。

この頃の尾崎の活動には注意すべきことが多くあり ます。昭和七年、大阪本社からの帰国命令を受け日本 に戻った尾崎は、宮城の仲介でゾルゲと奈良で再会 し、それ以後はゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動することになります。

昭和九年(一九三四)には東京朝日新聞社に移り、 同十一年(一九三六)、アメリカのヨセミテで開催されたIPRに中国問題の専門家として参加しました。 そこで西 さい 園 おん 寺 じ 公 きん 一 かず や牛場友彦と知り合い、西園寺とは 親友となりました。この会議にはゾルゲも新聞記者と して参加していることがわかっています。

同十二年(一九三七)になると、近衛文麿の側近、 後藤隆之助が主宰する政策研究団体「昭和研究会」に 参加し、幅広い人脈の形勢と情報の収集に暗躍しま す。

また、同年七月には近衛第一次内閣の嘱託となり、 近衛第三次内閣まで、中国問題の専門家として近衛内 閣の外交政策に大きな影響を及ぼしました。

七月七日に盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発すると、尾崎は 蒋介石(しょうかいせき)の国民政府を酷評する論文を出したり、対国民党戦線の拡大を強硬に主張し、講和条約の締結反対や徹底 抗戦を吹聴するようになっていきます。尾崎の立場 は、翌十三年(一九三八)一月に出された対中関係を 悪化させた、「国民政府を対手にせず」という近衛声 明につながるものであることは明らかです。この声明 は、日本と蒋介石との和平交渉を破壊するものだった のです。

当時、中国国内の政治的混乱を収拾出来る勢力としては蒋介石政権が最も有力であったところから、尾崎 の主張は蒋介石政権との政治的・軍事的対立を助長する以外の何物でも無く、近衛内閣の嘱託という立場を 利用して、日中戦争の泥沼化や中国の共産化に手を貸 したことは明白といわなければなりません。

「ハル・ノート」とホワイト

一方、アメリカは日露戦争以後、中国大陸に関与す る姿勢を強め、「門戸開放・機会均等」を主張して日 本の権益に対抗するようになっていきます。昭和七 年、わが国の満洲占領に対して「スティムソン・ドク トリン」を発表し、いかなる現状変更も認めないと日 本を厳しく糾弾したヘンリー・スティムソンの事例は その一つです。

その後、アメリカは日本に対し次第に経済的圧迫を強め、昭和十四年(一九三九)七月、友好の証である 日米修好通商条約の廃棄を通告してきます。以来、イ ギリス、オランダなどと共同して石油や屑鉄などの鉱 物資源の対日輸出を制限し始めます。

昭和十六年(一九四一)七月、わが国が資源確保を 目的として南部仏印に駐留する「南進政策」を決定すると、同二十五日、これを口実にアメリカをはじめイ ギリス・オランダはわが国への資産凍結や石油の供給 を停止し、完全な経済封鎖を行ないました。アメリカ はイギス・オランダ・国民政府などと共に日本包囲 網を形成するに至り、わが国は経済的に追い詰められていくのです。

「南進政策」は、ソ連を守るため尾崎が日頃から陸 軍方面などに強く働きかけていた持論であり、日・ 米・中の対立がエスカレートしていくことは、スター リンにとって願ってもない情勢の転換でした。これに よって、ソ連はドイツ対策に専念することが出来たと いわれます。また、蒋介石と戦っている日本がさらに アメリカと戦うことになれば、それぞれが国力を削ぐ ことになり、崩壊寸前の中国共産党は息を吹き返すこ とが出来ます。後にこれが現実のものとなりました。

日米の軍事衝突を懸念した近衛内閣は、日米交渉に よって衝突を回避しようと懸命の努力をします。しかし、ドイツとの戦いで劣勢に陥ったイギリスのチャー チルからヨーロッパへの参戦を催促されたルーズベル トは、日本をさらに挑発することになります。

一九四〇年(昭和十五)、わが国に厳しい態度をとるスティムソンが、ルーズベルト政権下で再び陸軍長 官に復帰しました。その日記が、一九四一年四月から 始まる日米交渉期間中の重要な出来事を記したこと で、史家の注目を浴びることになります。

特に、日本が真珠湾を攻撃する直前、一九四一年十 一月二十五日の条に記されたホワイトハウスでの政府 首脳会議が重要です。真珠湾に関する日本の暗号情報 を解読し、その動きを把握していたルーズベルトが、 どうしたら最初の一発を日本に撃たせるように誘導で きるかを話題とした様子が記録されています。

翌十一月二十六日、わが国が開戦を決意した直接の 原因とされる「ハル・ノート」が、日本に突き付けら れました。「ハル・ノート」には、中国とインドシナ からの日本軍の即時無条件撤兵、重慶政府以外の政権 および三国同盟の否認という、それまでのわが国の国 策を全て否定する要求がしのばせてありました。この 要求は、それまでの日米交渉の経過を全く無視するも のであり、アメリカが日本に突然突き付けた最後通牒 に等しいと見なされています。

「ハル・ノート」は国務長官ハルにより日本側に渡 されたものでしたが、原案は「ホワイト試案」という ものであったといいます。『ヴェノナ』により、ソ連 のスパイと認定されたモーゲンソー財務長官の補佐官 ホワイトが起草に関わっており、その採用について は、オーエン・ラティモアやラフリン・カリーなどが 密かに連携していたといわれています。日本はルーズ ベルト政権とそれに寄生する共産主義勢力によって追 い詰められ、最初の一発を撃たされたのでした。

終戦後行われた極東軍事裁判において、唯一のア ジア人であったインドのパール判事は、歴史家(A・ J・ノック)の文章を引用し、 今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米 国国務省が日本政府に送ったものと同じような通 牒を受取った場合、モナコ王国やルクセンブルク 大公国でさえも合衆国に対して戈 ほこ をとって立ちあがったであろう。 と述べたことは、記憶に止めておくべきことでしょ う。

占領政策とノーマン及びビッソン

昭和二十年(一九四五)八月十五日、わが国はポツ ダム宣言を受諾して終戦となり、連合軍総司令部(GHQ)が横浜に設置されます。GHQはマッカーサー を総司令官とし、その下に民政局・経済科学局・民間 情報教育局など九局の幕僚部で構成されていました。 民政局は日本国憲法の原案作成、公職追放などにかかわり、民間情報教育局は政治犯の釈放、戦争犯罪人の 摘発、公職追放などにかかわります。

戦後日本を大きく規制している日本国憲法について は、マルクス主義者であった鈴木安蔵、高野房太郎 ら「憲法研究会」が作製した私案が、民政局の『マッ カーサー草案』(以下『草案』という)に影響を与え た、といわれてきました。しかし実際は、GHQに来たハーバード・ノーマンが、旧知であった鈴木らにいち早く働きかけて『草案』に似た私案を作らせ、それ をGHQが参考にしたように見せかけたというのが真 相です。『草案』が憲法研究会の案に類似しているの は当然のことなのです。

ノーマンらの狙いは天皇制を廃止に持ち込むことで したが、マッカーサーはこれを存続の上、利用する考えでしたので、実現はしませんでした。

そのノーマンは軽井沢にカナダ人宣教師の子として 生まれました。一九三三年(昭和八)にケンブリッジ 大学入学、その後ハーバード大学に進み、一九三九年 (昭和十四)カナダ外務省に入りました。そして一九四五年、カナダ政府から対敵諜報部調査分析課長とし てGHQに派遣されてきたのでした。

ノーマンの著書『日本における近代国家の成立』は よく知られています。それによれば、明治維新は封建 支配階級によって達成されたもので、明治国家による 専制支配と植民地建設は必然であったとしており、マ ルクス主義の立場から書いたものでした。もともとは 学位論文でしたが、日本を敗北させ民主化しなければ ならないとするIPRが、プロパガンダとして有効な ものと判断し、シリーズの一冊として発刊したもので した。

一九五七年(昭和三十二)、経済学者の都留重人(つるしげと)が FBIの取調べを受け、ノーマンとの関係を自白した ことを知りました。ケンブリッジ大学での共産主義活 動や、ハーバード大学で都留らと行った日本を孤立 させるための共産党活動が明らかになることを恐れ、 ノーマンは、赴任先のエジプトで自殺しました。

また、民政局特別補佐官にトマス・アーサー・ビッ ソンがいました。コロンビア大学で神学を研究し、長 老派の宣教師として中国に渡ります。一九三三年、 「アメリカ中国人民友の会」で活動し、一九三七年 (昭和十二)、フィリップ・ジャフェや冀朝鼎らと共産 党系の雑誌『アメラジア』を創刊しました。また、同年夏、共産党びいきで有名なオーウェン・ラティモ ア、フィリップ・ジャッフェらと延安を訪問し、毛沢 東らと会談しています。

ビッソンはその後IPRに移り、やがてGHQ要員 として一九四五年十月、日本にやって来ます。

IPRの機関誌『パシフィック・アフェアーズ』で 副編集長を務めていたビッソンは、日本国民が天皇に 背き退位させるよう仕向けるのがよいが、できなければ何らかの措置をとる必要がある、などという主張を 繰り返していました。一九四六年(昭和二十一)一 月、ノーマンがGHQを去った後は、ビッソンが共産 主義者としての立場から憲法条文が正確に日本文に訳 されているかどうかを厳しくチェックしたといわれて います。

『草案』の第一条の日本語訳について、日本側が、 天皇は日本国民至高の総意に基づき日本国の象徴 及日本国統合の標章たる地位を保有す。 として民政局に提出したところ、ビッソンは「至高の 総意」を止めて「主権」とするようケーディスに圧力 をかけ、直させたといわれます。

また、皇室財産について、現行憲法八十八条は すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費 用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。 と規定しています。ところが、一九四六年二月十二日 付けの民政局「日本国憲法草案」には、第八十二条と して、 すべて皇室財産は、世襲のものを除き、国に属す る。一切の皇室財産からの収入は、国庫に納入さ れなければならず、法律の定める皇室の手当および費用は、毎年の予算に計上して国会の議決を経 なければならない。 とあったのですが、ビッソンはこれにも異議を唱え、 「世襲のものを除き」という重要な部分を削除したと いいます。これはきわめて大きな変更がなされたこと を意味します。即ち、皇室を支えるべき重要な経済的 裏付けが失われたのです。多くの宮家が臣籍に降下せざるを得なかったのはこうした事情があったといわれ ます。

このように、ノーマンやビッソンが日本の「民主化」 や憲法制定過程で果たした役割は決して小さくありませんでした。彼らはIPR路線に忠実な、共産主義イ デオロギーの熱烈な擁護者であり続けた人たちだった のです。それゆえに、日本を理解しようとする態度は 微塵もなく、封建制度の支配する日本を「人民」の支 配する国家に作り替えようと動いていたのです。

ビッソンについても、『ヴェノナ』は、アメリカ政 府の秘密報告書や蒋介石関係の資料をソ連のエージェ ントに渡した明白な証拠があると記し、かれもスパイ であると断定しています。

近現代史の見直しを

このようにして、『ヴェノナ』には今まで日本人が 知り得なかった多くの事実が記されています。解明が 進んだ部分については事実を直視し、今次大戦で日本 が蒙ったいわれ無き中傷や東京裁判での断罪を修正す べく、早急に歴史叙述を見直す必要が出てきています。 また、『ヴェノナ』に記述されているような出来事は 今の世界でも起こっていると思われ、日本も決して埒 らち 外 がい ではないと考えるべきでしょう。

明治維新では国論を一つにし、欧米列強の干渉をはねのけました。幸いにして昨年五月、新天皇が各国の 要人が見守るなか古式ゆかしく御即位になられ、国民 の心が一つになった感があります。令和の新時代を迎 え、東京裁判史観を克服し、日本の自主独立を確立し ていくべき秋 とき が来ているのです。