黒木・樋口両少佐殉難の日

久保慶子/広島県・博物館職員

大東亜戦争中の昭和十九年九月六日、人間魚雷「回天(かいてん)」の操縦訓練が行われていた山口県大津島(現、周南市)で殉職事故が起きました。「回天」とは魚雷を改造して人が乗り込み、操縦して敵艦に体当たりする必死の特攻兵器です。

「回天」の創案者は黒木博司(ひろし)少佐(当時大尉)、仁科関夫少佐(当時中尉)という海軍の青年士官です。海軍では生還を期さない兵器は採用されてきませんでしたが、まだ若き二人の「危機的な戦局を挽回するには必死の特攻兵器が必要である」という信念から生まれた兵器でした。

「回天」は一人乗りの兵器ですが、初めての訓練時は指導官が同乗して、搭乗員としての適否を判定する必要があり、同乗訓練を行います。この日搭乗していたのは、創案者の一人である黒木少佐と搭乗員の樋口孝少佐(当時大尉)です。樋口少佐もまた青年士官で、この時両名とも二十四歳(満二十二歳)でした。

訓練当日の空は秋晴れ。早朝は空気が爽やかに澄みわたっていましたが、しばらくするとおだやかだった海面に風が出て白波が立ち始めました。

午前中の訓練は無事終わりましたが、午後になると風はますます強くなり、雲の動きも速く、高い白波にうねりも加わり、訓練を行うには危険な天候となりました。

黒木・樋口両大尉の訓練は午後四時に予定されていましたが、回天隊指揮官であった板倉光馬(みつま)少佐は悪天候により訓練中止とせざるを得ないと判断しました。午前中に訓練を終えた仁科中尉も「今日はやめた方がいいでしょう。私の時も湾口で波に叩かれ、潜入時危なかった」と意見しました。

しかし戦局は悪化の一途を辿っており、回天の戦力化は一刻の猶予もない逼迫(ひっぱく)
した状況でした。それを痛感していた黒木大尉は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」として訓練の必要性を訴え、一歩も引きません。操縦予定の樋口大尉も「指揮官、やらせてください。お願いです」と凜とした口調で申し出ました。二人の気魄(きはく)に押された板倉少佐は、徳山湾内に限定して訓練実施を決めました。日本の危機を救いたいという二人の強い使命感のもと、荒天での訓練が決行されたのです。

操縦訓練が始まりしばらくした頃、黒木・樋口両大尉の搭乗した回天は徳山湾の水深二十メートルほどの海底に突入。両名による懸命の応急措置がとられましたが、離脱不可能となり、救助を待つのみとなりました。回天基地の隊員総出で捜索しましたが、発見されたのは翌七日、午前九時過ぎのことでした。海底から回天を引き揚げ、ハッチ(入り口)を開けると、操縦席に樋口大尉がうつぶせに倒れ、その奥に黒木大尉がうずくまっていました。二人とも取り乱した様子はなく、従容と息絶えていました。日頃から殉職を覚悟していなければ、このような最期を迎えることはできないでしょう。黒木大尉の胸ポケットには、両親・兄妹・恩師・先輩・先輩の妻子の写真七枚が大切そうに入っていました。いつ殉職してもいいようにしのばせていた写真から、覚悟とともに誠実で思いやりある、優しい人柄がうかがえます。

黒木大尉は、艇内の酸素が減り意識が薄れていく中、事故が起こる前の状況、海底に突入した時の様子、行なった応急処置、事故後の経過、今後設備すべき点などを克明に手帳に書き続けました。

「今回ノ事故ハ小官ノ指導不良ニアリ、何人モ責メラルルコトナク、又之ヲ以テ〇六(まるろく)(筆者註 「回天」のこと)ノ訓練ニ聊(いささ)カノ支障ナカランコトヲ熱望ス」と任務に対しての責任感あふれる思いや、「君ガ代斉唱 神州(しんしゅう)ノ尊(そん)神州ノ美 我今疑ハズ 莞爾(かんじ)トシテユク 萬歳」と、ほとばしる愛国の念を綴っています。この二千字にも及ぶ遺書は事故後、回天の改良に多大な貢献を成す大切な資料となりました。

樋口大尉は「事故ノ為訓練ニ支障ヲ来シ洵(まこと)ニ申訳ナ回天烈士の名前を刻んだ石キ次第ナリ」「訓練中事故ヲ起シタルハ戦場ニ散ル可キ我々ノ最モ遺憾(いかん)トスル所ナリ、然共、犠牲ヲ乗超エテコソ、発展アリ進歩アリ 庶幾クバ我々ノ失敗セシ原因ヲ探求シ 帝國ヲ護ル此種兵器ノ発展ノ基礎ヲ得ンコトヲ」と武人としての信念や今後の回天隊への思いを綴り、「後輩諸君ニ『犠牲ヲ踏越エテ突進セヨ』」と激励の言葉を書き遺しました。

生命の終わりが近づく中、二人の任務に対する徹底した責任感、その根底にある純粋な愛国心がひしひしと伝わってきます。

荒天をおしての訓練とはいえ「回天」の製造は緒(ちょ)についたばかりで、不具合の多い試作艇であったことも事故の一つの原因でした。この殉職事故の後、大津島の回天隊は「黒木・樋口に続け!」と、必死の訓練に闘魂を燃やしたのです。二人の死は回天隊を大いに奮起(ふんき)させたのでした。

回天特攻隊は黒木・樋口両少佐殉職から約二カ月後の昭和十九年十一月八日、忠臣・楠木正成公の家紋に由来する「菊水隊」の名で初めての出撃を果たし、同月二十日早朝、ウルシーにて「回天」の一基がアメリカの油槽艦(ゆそうかん)「ミシシネワ」に命中、同艦はその後沈没という戦果を挙げました。仁科少佐はこの菊水隊として出撃しています。

その後も回天特攻隊は大東亜戦争終結まで各戦場で奮闘勇戦し、敵を恐怖に陥れました。戦歿者数は搭乗員が百八名。平均年齢は二十一歳という若さでした。

「国を護りたい、故郷や家族を護りたい」という一心で、危険で厳しい訓練を受け、出撃して行ったこのような若者達がいたことを、私たち日本人は決して忘れてはなりません。

最後に、創案者である黒木博司少佐と仁科関夫少佐の辞世を掲げてこの稿を終わりにします。

黒木博司少佐 辞世
國を思ひ 死ぬに死なれぬ益良雄 (ますらお)
友々よびつ 死してゆくらん

仁科関夫少佐 辞世
君が為 只一條 (ただひとすぢ)の誠心(まごころ)
当たりて碎けぬ 敵やはあるべき