「回天」って何ですか

橋本秀雄/元公立中学校長

「回天」とは、今から八十年程前の大東亜戦争末期に採用された海の特攻兵器です。

それは全長十四・七㍍、胴体の太さ一㍍、重さ八㌧ほどの一人乗りのミニ潜水艦で、先頭部分に一・五㌧の火薬を詰めていました。それを人が操縦し、敵艦に体当たりして沈めるため、「回天」は「人間魚雷」とも呼ばれています。

昭和十九年十一月八日、山口県の大津島基地から「菊水隊」(三隻の潜水艦に乗せられた回天十二基)が初めて出撃し、同二十日、南太平洋上のウルシー環礁とパラオのコッソル水道に碇泊していた敵艦船を攻撃して、給油艦を撃沈するなどの戦果をあげました。

米軍は一ヶ月前に現れた神風特攻隊に続く〝海をもぐってくる神風〟と呼んでその襲来に恐怖したといいます。その頃、日本は制海権、制空権ともに米軍に奪われていましたが、「回天」は最後の最後まで戦い続けました。そのため米軍は終戦になると真っ先に回天戦を止めるよう日本に命令するほど脅威に感じていました。

ではこの恐るべき兵器はどのように誕生したのでしょう。

大東亜戦争は昭和十六年十二月八日、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲したことから始まりました。当初は日本軍が有利に戦いを進めましたが、昭和十七年六月のミッドウエー海戦で、空母四隻と多くの飛行機を失うという手痛い敗北を喫してから戦いは不利に展開しました。また昭和十九年にはサイパン島で日本軍が全滅するなど、日本より国力のあった米国の物量に圧倒されたのです。

その不利な状況を立て直すには、一人の命懸けの攻撃で敵の多くを倒す、必死必殺の戦法(特別攻撃=特攻)によるしかないと考えられるようになりました。

中でも「回天」を創案し、その実現のために心血を注いだのは黒木博司少佐でした。少佐は大正十年、岐阜県益田郡下呂町(現下呂市)で開業医をしていた黒木彌一の二男として生まれました。昭和十三年に海軍機関学校へ入学、同十六年に卒業すると戦艦「山城」に乗り組みますが、真珠湾攻撃で活躍した特殊潜航艇こそかねての宿願を果たせると考え、潜水学校に入校しました。

昭和十七年十二月、念願がかなって呉海軍工廠(くれこうしょう)魚雷実験部に配属されます。ここは特殊潜航艇(特潜)の開発や訓練を担う秘密基地でした。少佐は機関学校出身の技術者であり、特潜の改良に力を発揮します。しかし、日に日に戦いが不利に展開することを憂え、同僚の仁科関夫少佐(長野県佐久出身、海軍兵学校卒業)と毎晩のように打開策を話合います。

当初は特殊潜航艇でハワイ水道に潜入し、艦船を沈めて封鎖する作戦を考えていましたが、それでは劣勢を挽回できないと思い直し、新たな兵器の開発に取り組みました。ある時二人の議論の中で、仁科少佐から九三式酸素魚雷(日本が世界で初めて実戦化した無航跡の高性能魚雷)の存在を教わり、黒木少佐はその酸素魚雷のエンジンを転用した一人乗り潜水艦の建造を思いついたのです。

少佐はこの兵器もふまえて現状の打開策を「急務所見」にまとめ、東京の海軍本部へ上申します。その提言は全部が血で書かれており、国を護るためには国民が一致団結し、全員が命懸けの働きをしなければ、とうてい出来ないと切々と説き、すぐに「人間魚雷」の採用をして欲しいと訴えたのです。しかし、生きて帰ることのない特攻兵器の採用は認められませんでした。

やがて「急務所見」は海軍上層部の知るところとなり、高松宮殿下の御台覧にも供せられ、多くの人々に感動を与えたのです。そうした少佐の熱誠は、ついに上層部を動かし、海軍は少佐の構想をもとに回天建造に踏み切りました。

昭和十九年七月、出来上がった試作機を少佐自身が試験走航を行い、八月には海軍の正式な兵器に採用されます。

九月の初め、山口県徳山湾に大津島基地が開設され、五日から訓練が始まりました。翌六日は海の荒れた日でしたが、少佐は「悪天候でも敵は待ってくれない」と、訓練の実施を主張し、後輩の操縦訓練を指導するため「回天」に同乗しました。ところが、「回天」は基地に帰る途中、波に打ち付けられて海底へ突入してしまいました。それが六日の夕刻で、引き上げられたのが翌朝となり、二人はすでに息絶えていました。

しかし、亡くなるまでの約十時間の間に、少佐は事故の状況を事細かにノートに書き記し、改良点を明らかにしていました。最後は苦しい息のなかで世話になった人々への感謝を記し、二人で天皇陛下万歳を三唱して亡くなりました。

「回天」を引き上げ、少佐の遺書を見た基地の人々は少佐の国を思う真心に感激し、「黒木に続け」を合い言葉に一層厳しい訓練に励みました。それから二ヶ月後、仁科少佐は「菊水隊」の一員として盟友黒木少佐の写真を胸に抱き、ウルシー環礁の敵艦に突入をしたのでした。

なぜ若い黒木少佐は国の危機を察知でき、「回天」の創案と実現に命をかけることができたのでしょうか。

少佐は実に思いやりの深い人でした。医者であった父親がオートバイで事故を起こさないか、母親が過労で病気にならないかと常に心配をし、兄をよく慕い、妹を可愛がる心優しい青年でした。機関学校時代に次の和歌を残しています。

人の子の勉(つとめ)は御国の為なれど
共に慶(よろこ)ぶ父母ありてこそ

父親は子供に厳しい人でしたが、どんなに夜遅くでも病人があれば駆けつけ、貧乏な人からは治療費もとらないという、医は仁術を地で行く医師でした。また正しいと思ったことを通す信念の人として、地域で絶大な信賴がありました。

母親は優しい人でしたが、我が子を育てるのに、「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう、正直で曲がったことはしない」ことを信条とする、芯(しん)のある人でした。

この両親の元で三人の兄妹は仲良く育ち、少佐の兄妹への思いやりの深さは中学時代のエピソードにも現れています。兄が医学部を受験する際、その合格を祈って三日間絶食をしたり、実家に残った妹が一人で寂しいだろうと紙で雛人形を作って喜ばせたりしたのでした。

また少年時代、近所の年上の子とかけっこをし、年上の子が近回りをして勝つと、それ
に断乎として抗議をして譲らなかったといいます。正しいと思った事を通す少佐は父親の姿と重なります。

このように親兄弟を思う心は、祖国日本に対しても深いものがありました。地元出身の兵士に対して、慰問の手紙を出して励まし、自身も国の為に働くことを志しました。

少年の頃、兄と戦艦の設計競争をしたりして海軍への関心のあった少佐は、昭和十三年に海軍機関学校を受験します。その合格通知を受けたときの決意の書が自宅に残されていました。当時、大陸に進出していた日本はシナやロシアとの間で紛争があり、欧米の日本への締め付けが強くなっていました。少佐は「日本の将来は軍の力にかかっている。この時にあって、海軍に入り天皇の手足となって働こうと機関学校を受験し、入学を許されたことは男児としてこの上ない喜びである。」と大書したのでした。

こうして少佐は海軍機関学校での三年間、機関科将校として必要な知識、体力、精神力を鍛え上げました。さらに重要なことは生涯の師となる平泉澄博士と、その弟子であった機関学校の先輩達に出会ったことです。当時、博士は機関学校に招かれて年一度の講義に来ていました。少佐を鍛えてくれた先輩たちからの指導もあったのでしょう。次第に博士に傾倒し、昭和十五年八月、休暇を利用して単身で東京の博士宅を訪ねました。それが師弟の絆を決定的にしました。

それは訪問後、下呂の実家から博士に出したお礼の手紙に、「(前略)さてこの夏を振り返ってみますとき、第一に思い出されますのは、皇居を遥拝し、明治神宮に参拝したときの喜びと、先生にお教えをいただき、万人の味方を得たことです」とあり、続いて機関学校から父親に出した手紙にも、「私は今元気一杯です。最近思いますことは、尊皇への深い思いと勉強は切っても切り離せないものだということです。(中略)この夏、私の中にその思いが確立し、揺るがぬものとなりました。今や迷うことは何もなく、胸の中は晴々としてひたすら勉強に打ち込んでおります。お慶びください」とあって、博士から指導を受けたことで、精神的に大きく飛躍したことがうかがえます。

少佐は平泉博士の講演を聴き、著書を読み、日本の歴史を勉強するにつれて、国を護るということは、建国以来、中心におられる天皇をお護りすることだと確信を得たのです。ちょうど建武の中興の時、楠木正成(大楠公)が後醍醐天皇に忠義を尽くして日本人の生き方を示し、幕末の志士たちはそれを手本に、幕藩体制から天皇中心の国にもどして国難を乗り切ったように、少佐も先人に続こうとしたのです。

こうして歴史から日本の道義を学んだ少佐は、国を滅ぼしてはならない、命にかえても国を守るのだという真心から戦争の行方を見通すことができました。そして、劣勢を挽回する手立てを求め続け、一身を捧げたのが「回天」でした。

従って「回天」は海の特攻兵器というだけではなく、私たち日本人を育んできた国を守り抜く、その精神を具現化したものといえるのではないでしょうか。平泉博士は後に「回天」のことを次のような和歌で詠まれています。

身をすてて国にむくいむ一念の
(こ)りて生れぬ魚雷回天

「回天」の搭乗口には大楠公の印である菊水が描かれていました。大楠公は最後となった湊川の戦いで、弟正季(まさすえ)と「七生(しちしょう)報国」を誓い合い、差し違えたといわれます。「回天」で出撃した百数十名の隊員たちは、その大楠公の言葉を胸に乗り込んでいったのです。