祖父母が学んだ修身教科書(十二)

沼 田 一 美
元茨城県立高校教諭

「修身」の教科書に、明治の軍人乃木希典(まれすけ)大将が清廉な人物として紹介されています。なお、本文は、常用漢字、現代仮名遣いに改め、適宜ルビを付けました。

清廉

明治三十七、八年戦役に、陸軍大将乃木希典は第三軍司令官として出征しました。ある時、家族へ手紙を出そうとすると、巻紙がなくなっていました。卓上には軍用の郵便紙がたくさんありましたが、大将はそれには手もふれず、そばにいる参謀長に、「紙の持合わせはないか」と言って、半紙をもらって用を弁じました。

大将がりっぱな手柄を立てて、明治三十九年にめでたく凱旋(がいせん)した時、ある人が家の宝としている槍の身を大将におくって祝いますと、大将は「お志はありがたいが、この槍は受けるわけにはいかない。どうぞこれはあなたの家に保存して置いて下さい」という手紙を添えて送り返しました。

その人が後に大将に面会し、「国の為にお尽しになって、めでたく凱旋されたのをお祝い申すつもりでさし上げましたのに、お受け下さらなかったのは残念です」と言いますと、大将はただくり返しくり返しありがとうと礼をいうばかりなので、その人はいよいよ大将の清廉なのに感心しました。

その頃大将が学習院長であったので、その人は更に元寇の役の絵を画家にかかせて、「学生教育の資料にせめてこればかりはお納め下さい」と言っておくりました。大将は喜んでそれを受けました。

明治四十二年、学習院の新しい校舎が出来上った時、宮中から大将へ御下賜(ごかし)金
がありました。大将は職員一同に「此の度の御下賜金は皆さんのご苦労を思し召されての御事と思います」と言って、その金を皆かつおぶしの切手(商品券)にかえ、一々ていねいに水引きをかけて、職員に分ちました。

(『尋常小学修身書 第三期・巻六』大正十一年発行)

[解説]乃木希典大将について

乃木大将は、嘉永二年(一八四九)、長州藩の支藩である長府藩の藩士乃木希次と壽子の三男として江戸藩邸に生まれました。幼名は無人(なきと)、元服して源三と改め、後に文蔵、そして希典と名乗りました。乃木大将は吉田松陰の師である玉木文之進について学びました。父は、長府藩きっての忠誠剛直の武士で、乃木大将はこうした父の血と精神を全身に受けつぎ成長します。

西南の役に出陣し、また日清戦争では第一師団長、日露戦争では第三軍司令官を務め、それぞれ戦勝に大きな役割を果たしました。その後、学習院長となりました。昭和天皇は晩年、「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木将軍であった」と言われています。

大正元年(一九一二)、明治天皇の大喪の礼が行われた日に、妻静子とともに殉死されました。その葬儀では約二十万人の人々が見送り「権威の命令なくして行われたる国民葬」とも、外国人が多数参列したことから「世界葬」とも言われました。

また、「西洋のリンカーン、東洋の乃木」と言われるほど、戦前・戦後を通じ伝記出版物が多く出されました。そして葬儀後、江戸時代には幽霊坂と呼ばれていた坂も、乃木大将の功績を讃えるため、赤坂区議会が「乃木坂」と改名しました。明治、大正及び終戦までの昭和前期、日本国民より最も深く尊敬され仰慕された国民的英雄でした。

本文の明治三十七、八年戦役とは日露戦争のことです。当時のロシアは、イギリスと世界の覇権を争う強大国でした。欧米列強の非西洋諸国に対する侵略、征服が頂点に達し、今一歩で彼らによる世界支配が達成されようとする時代でした。ロシアは東方の支配という一大野望のもと、旅順・大連を租借し、長年の夢であった不凍港の獲得に成功したのです。(ちなみに、ウラジオストックとは「東方を征服せよ」の意味)その時、乃木大将の第三軍がロシアの極東支配の象徴である旅順要塞を攻略したのです。しかし、日本軍の兵力二十五万人中、死傷者約七万人という攻略の代償は大きく、多数の将兵を戦死させた自責の念から、後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断りました。

また、東京の巣鴨にあった廃兵院に、日露戦争で負傷し不具となった兵士を毎月一、二度は訪れ慰問し、時折皇室から御下賜品などを頂いたなら真先に自ら廃兵院に届けました。さらに、戦死者の遺族を訪問しては彼らを慰め、かつ困窮するものには少なからぬ金を与えました。生活を質素にして俸給の大半を戦死者遺族への弔慰(ちょうい)、旧部下困窮者の生活費、傷病者の医療費、廃兵の慰問、その他、苦学生の学資、書籍の刊行及び寄贈等のために使ったのです。

今年は、尖閣(せんかく)諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件から十年になります。国の忠誠を貫かれた乃木大将は、今日の日本をどう見ているでしょうか。