三島由紀夫氏の遺したもの(上)

小松宏起 /元エプソン米国合弁現地法人社長
近代日本最高の知性

昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、三島由紀夫氏が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げて日本中を震撼させた、いはゆる三島事件から半世紀が経過した。この間、様々の視点で多くの氏に関する評論がなされたが、事件を直接記憶する人の数が少なくなつた現在もなほ、あの事件の意義を解明しようといふ試みは絶えることはない。

たとへば大澤真幸氏は最近話題になつた著書『 三島由紀夫ふたつの謎』(集英社新書)の中で、三島由紀夫は、間違ひなく、近代日本の最高の知性の一人である。しかし、割腹自殺に至つた三島の挫折した革命は、日本の近代史上の最大の愚行のひとつである(ように見える)。このギャップは埋めがたい。と述べてゐる。三島氏の多くの作品を読み、その生と死を合理的に解き明かさうと試みた大澤氏ではあるが、結局、三島氏の「知性」と「行動」との間には矛盾があるといふ結論に行き着いてしまつてゐる。

このやうに多くの人が大澤氏同様、あの日の「行動」に納得できない思ひでゐるのが一般的であるが、三島氏本人は「行動」について、行動は一瞬に火花のやうに炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。と述べ、そして、行動には一定の目的があり、しかも……その目的に向かつて準備し、待機する時間が長い……。(『行動学入門』)と言つてゐる。つまり、あの日の三島氏の行動は十年以上の長い歳月をかけて「待機」し、そして「最も極端な効果をねらつた」ものであつたのである。そこには何の矛盾も齟齬もギャップもなかつたはずである。

しかし三島氏本人にとつては必然であつても、私自身も大澤氏同様、「他にやり方があつたのではなからうか」といふ思ひに捉はれ続けてきた。だが歿後五十年を機に少しでも三島氏のあの日の行動の「真意」に迫りたいといふ思ひに駆られて、この文章を書いてゐる。

古代の雲を愛でし君は

三島事件の起きた時、私はまだ高校生であつた。三島文学のファンであつたこともあり、事件には大きな衝撃を受けたが、当時はまだ、その深い意味について理解が及ぶ筈もなかつた。

事件から五年くらゐ後のことと記憶してゐるが、我が生涯の師でもあり、かつ年長の友でもあつた故坂本多加雄氏(元学習院大学教授)から、ある雑誌のグラビア頁を見せられた。それには大和かどこかの小高い山並みを背景にして、沸き立つやうな入道雲が眩しいばかりの陽光に照らされてゐる風景をバックに、一片の詩文が記されてをり、それは、

古代の雲を愛でし君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく靉靆(あいたい)の雲を慕ひその身は漠々たる塵土に埋れんとすといふものであつた。

私がこの詩に初めて出会つたその時は、作者も詠まれた詩の背景も全く知らなかつたのであるが、古樸さと雄渾さとを兼ね備へたこの詩に深い感動を覚えたことであつた。その後これが、蓮田善明といふ詩人の自害といふ重い事実を基に、三島氏が詠んだ哀悼の詩であることを知り、いつさう感銘の度合ひは深まつて行つた。たぶんその頃であつたと記憶してゐるが、やはり坂本氏から、三島氏が死を賭して我々に伝へたかつたことは、憲法改正や自衛隊の在り方など制度的なものだけではない。それよりむしろ我々一人一人にとつて普遍的に大切なことを伝へようとした筈だ。それを自分の頭で考へて、見つけ出し、生き方や仕事を通して実現させて行くことこそ肝要だ。といふ意味のことを伺つたことがある。以来、私はあの事件を、自分に対して送られたメッセージと考へるやうにして来てゐる。

蓮田善明の「怒り」

三島氏が追悼文を捧げた蓮田は、日本浪漫派に繋がる文芸評論家で、詩人にして国文学者、そして教育者でもあつた。当時の学習院教授で三島氏の恩師の清水文雄らと雑誌『文藝文化』を創刊し、その集まりを通して蓮田は少年三島由紀夫を知つたのである。その『文藝文化』に集ふ人たちは国学の伝統を守り通さうとする文学者たちであつたが、その人々と創作活動をしてゐた三島氏の「十代作品集」のほとんどが既に立派な王朝風の擬古文であつた。そしてまた、後に自ら小説を書くことは「古典」を学ぶことに他ならぬ、と述べるほどに三島氏は日本の「古典文学」に通暁してゐた。

『文藝文化』の同人たちの中で特に蓮田善明は三島氏の才能を高く評価し、十六歳の時に書いた『花ざかりの森』を、

この年少の作者は併(しか)し悠久な日本の歴史の請もうし子である。(小高根二郎『蓮田善明とその死』)

と言つて激賞したといふ。そして、三島氏の類希れな才能を愛し、二人だけの「黙契」を意識するやうになつた蓮田は、召集により大東亜戦争に出征する際に「日本のあとのことはお前に託した」と三島氏に言ひ残したほどであつた。

その蓮田は任地のシンガポール近くのジョホールバルで終戦を迎へたが、終戦の詔勅が出された三日後、つまり八月十八日、上官にあたる大佐が下士官以上を集めて軍旗告別式を行つた。その時その大佐は「敗戦の責任は天皇にあり……日本精神は壊滅した」といふ内容の訓示をしたため、このあまりの変節ぶりに激昂した蓮田は翌日その大佐を射殺し、自分もピストル自殺を遂げたのであつた。

三島氏はこの蓮田をはじめ、多くの立派な軍人から「命よりも大切なもの」を教へられながら、戦後に生き残つてしまつた慚愧の念に苛まれることになつた。そしてさらに、戦後二十年以上を経過しながらも米国から押し付けられた民主主義制度の下、経済的繁栄にうつつを抜かし、長寿を最高の価値として、「酔生夢死」のうちに生きることを良しとする世の風潮に対し、激しい「怒り」を感じてゐたのである。

 その「怒り」の本質は、小高根氏の『蓮田善明とその死』に寄せられた三島氏の序文から知ることが出来る。即ち、

私はまづ(蓮田)氏が何に対してあんなに怒つてゐたのかわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。

と述べたあと、

戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕おどろくべきことであり、その怯きょう懦だ、その冷笑、そのその独善、その非行動性、その多弁、その食言……
それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのやうな腐臭を放ち、どのやうに文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさが捉へた文化のために、憤りにかられてゐたのである。

と、その「憤り」の中味を説いてゐる。この日本近代知識人に対する蓮田の痛烈な「怒り」は、そのまま現代に生きる我々日本人一人一人に向けられた三島氏の「怒り」に他ならない、と私は思ふ。

東大全共闘との知性の対決

今年、令和二年は三島事件から五十年目にあたる。そのこともあつて、三月二十日には「三島由紀夫VS東大全共闘、五十年目の真実」といふ記録映画が全国の映画館で上映された。私も封切と同時に映画館に駆け付けたが、自刃の一年半前に行はれたこの討論の内容から、三島氏が学生に対して、そして、現代に生きるわれわれ一人一人に対して、何を伝へたかつたのかが浮き上がつてくるとともに、その肉声を聞き、その態度や身振りを映像で見ることにより、氏の人柄を慥たしかに見ることが出来たのは実に有難いことであつた。

表面的には二つの「知性」と「知性」の対決などと言はれるこの東大生との討論は、一見対等な議論に見えるのであるが、その実、注意深く読み解いて見れば三島氏と学生の「知性」の質に大きな格差があることがわかる。本来は噛み合ふ筈もない議論がスムーズに展開されてゐるのは、三島氏が学生のレベルまで自己を降下させてゐる配慮があるからに他ならない。

この時、三島氏は実に多くの大切なことを語つてをり、氏の語つた内容は、その作品や他の講演で語られた言葉と比べて、寸分のブレも破綻も見当らない。

当時の全共闘の学生の中には、真剣に共産「革命」を信奉する者たちが多くゐた。その中の一人と思はれる学生は「ぼくの先祖は一向に日本の中にも見つからぬし、どこにも見つからぬ」と言つて歴史や伝統を否定し、時間の連続性の意義さへ否定した。そして現在における思考も行動も革命によつて将来得られる「解放区」といふ観念的空間を得るために意味があると言つた。この考へはすべて左翼思想家の理論を借りて組み立てられた観念的な論理である。

それに対して、三島氏は自分の作家としての日常を例にあげて説明した。人間は太古の昔より時間の連続性の中に生きてをり、作家は自分の中や外に蓄積された古くからの文化の中から一つ一つ言葉を選び取り作品をつくるもので、自分にとつては、現在の一瞬一瞬の実体感のある日常的行為に真剣に向き合ふことこそ客観主義、その根なし草的共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、が大切なのだと言ふ。そして、もし「人間が未来といふことを考へると、必ず現在といふものを犠牲にする」とも述べてゐる。

このことは、孔子の言葉「民の義を務めて、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と言ふべし」(『論語』、雍也篇)に通じるものがある。つまり、「民の義」を疎かにして、観念的論理といふ「神頼み」をするやうな人間は、日々の大切な務めが疎かになつてしまふ、といふ教へである。

日本の伝統文化から受け継いだ「ことば」

三島氏が作家としていかに「現在」に真摯に向き合つてゐたかわかりやすい例をあげよう。

三島氏がその作品の中に「月の光がとてもあざやかに出てゐる」といふ情景を表現したいと考へたと仮定する。三島氏はそれを的確に表現すべく一字一句を一生懸命考へるが、この時日本の古典が身体に沁み込んでゐる氏にとつて、『大鏡』の中にある「月があまり顕証(けそう)なりければ」といふ言葉が自然に浮かんで来ると言ふ。「美しく鮮やかな」といふ意味をもつ「顕証」といふ古語をその情景に最もふさはしい言葉として選択するのである。それは三島氏が少年時代から学び続けた日本の古典文学の含蓄のある豊かな「言葉」が氏の身体の一部になつてゐて、氏はそれを一つ一つ丁寧に探し出し選んで文章を練り上げて行くのであり、そのことが三島氏にとつて日々の「義を務める」ことに他ならないのである。

この三島氏は大作家となつてからも、毎日、日本の古典を読むことを自分の日課と課してゐた。日本の伝統文化から受け継いだ言葉をますます豊かなものに鍛へ上げ、そして古典と対峙することにより、人間としての価値の「克己」「勇気」「まごころ」などを自分の中で愈々(いよいよ)強固なものにして行つたのである。

近代知識人の不誠実

三島氏は東大全共闘との討論の冒頭で、学生に対して「日本の知識人といふものが、思想や知識に力があつて、それだけで人間の上に君臨してゐるといふ形が嫌でたまらなかつた」と述べてゐる。氏が「知識人」と言ふ時には丸山真男を念頭に置いてゐることは間違ひないのであるが、当時、丸山は東大法学部政治学科の看板教授として広く知られ、丸山学派と言はれる有能な政治学者や社会思想家を弟子の中から多く輩出し、その権威と影響力は絶大なものがあつた。

その丸山は日本にも「ファシズム」が存在したとして、その代表的著書『現代政治の思想と行動』(未来社)の巻頭を日本ファシズム関連の三論文で飾つてゐるが、それに対して、三島氏は、林房雄氏との対談で、

丸山さんなどでもファシズムといふ概念規定を疑はないのは不思議ですね。ファシズムといふのは、日本にはありはしませんよ。

と言ひ、また、

彼らはさういふ概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然(てんぜん)と恥じない。(『対話・日本人論』)

とも述べてゐる。三島氏は、日本政治思想史の泰斗と言はれる丸山真男が欺瞞と偽善で塗り固められたGHQの論理に安易に乗り、理論的な検証もなく、日本ファシズムが存在したと結論づける不誠実を指摘する。

この三島氏の丸山批判は確かな根拠に基づいてなされてゐることは、氏が二十九歳の時に「ファシズムは存在するか」といふ専門家顔負けの精緻(せいち)な分析に基づく論考を発表してゐることからわかる、と林房雄氏は言ふ(『悲しみの琴』)。三島氏はある考へを言葉や文章で表現する時に、必ずそれを自分のものにしてから発表するといふ誠実さを生涯貫いた人であるから、この「ファシズムは存在するか」といふ論考を書く前にも正面突破の猛勉強を始めた。その時の三島氏は、

ヒットラーの『我が闘争』から始めて、ヘルムート・ティーリケ、自由主義者左派のバートランド・ラッセル、共産主義者パーム・ダットに至る多くのファシズム文献の勉強をはじめた。その結果、到達したのは、ファシズムは純粋に西欧的な現象であり、……この狂暴な政治形態は二十世紀ヨーロッパの西欧の特殊現象で、どうこじつけても、日本には移植できず、事実上存在してゐないと(三島氏は)結論づけた。

と林房雄氏は述べてゐる。(『悲しみの琴』)

三島氏の「まごころ」

ところで、東大全共闘からの討論の申し込みを三島氏がなぜ引き受けたのかといふ、その理由について、当時も現在もそれを「不可解」と感じる人は多い。

恐らくそれは、あの討論は三島氏とつては何の得にもならないどころか、氏を吊し上げて、暴力をふるつてやらうといふ学生がゐることまで事前に氏の耳に入つて来てをりながら、氏は周囲の制止を振り切り、身の危険を冒(おか)してまで臨んだものだつたからであらう。

あるいは大学の権力に立ち向かふ学生の中には遺書まで書いた者もゐたらしく、三島氏はその彼らの揺るがぬ「覚悟」に共感を覚えたのかもしれない。あるいはまた、既に自決を決意してゐた当時、出来るだけ多くの機会を通して、混迷の世に彷徨(さまよ)ふ学生を始め、一人でも多くの日本人に覚醒を促したいといふ氏の誠意から出た行動であつたかもしれないが、いづれにせよ、そこには世俗的な意図の痕跡はどこにもない。

では、何故さういふことが言へるのか。

あの討論の中で、ある学生が、「三島さんはすでに(文学で)敗退している」とか「太陽と鉄といふ幼稚な言葉を使つて本を著した」と、大変失礼なことを氏に向かつて言つてゐる。だが、このやうな無礼な言葉を聞いても三島氏は表情一つ変へることなく、学生の質問に丁寧に的確に答へてゐる。感情的になつた学生が無礼な言葉を投げかけた場面は他にもまだまだある。しかし、時には笑顔さへ浮かべて応じる三島氏の態度を見て、私は『論語』(公冶長篇)の一節、

子貢曰く、我人の斯れを我に加ふることを欲せざるを、我も諸(これ)を加ふることなからんと欲す。

といふ一節を思はずにはゐられない。すなはち、孔子の高弟の子貢が他人から何か侮辱のやうなことを仕掛けられたとしても、自分は仕返しをしないだけの「寛容」な心、あるいは「恕(じょ)」の心を持ちたいと言つたのに対し、「今のお前にはまだ無理だよ」と、孔子が応じたとされる箇所である。子貢でさへ難しい寛容の行為を三島氏は平然と行つた。その氏の「徳」の高い態度に驚かされるのであるが、これらの事実からして、三島氏が学生との討論に臨むに当つて世俗的な思惑といふものは一切なかつたと断言出来るのである。

三島氏は少年のころから自決の最期の日まで、常に礼儀正しく言葉使ひも丁寧で、約束は必ず守り、身だしなみに常に気を遣ふ「礼の人」であつたことは、氏と接したすべての人が口をそろへて言ふことである。

公威(きみたけ)は毎晩欠かさず、「おやすみなさい」を言ひに私のところに参りました。

とは三島氏と同じ敷地内の離れに住んだご母堂の言葉であることが、父君平岡梓氏の本に記されてゐる。また、二歳下の妹の美津子が終戦の年の暮れにチフスを発症して亡くなつた時、三島氏は実に心のこもつた看病ぶりであつたと梓氏は語つてゐる。その父の語るところによると大学の試験勉強中であつた三島氏は、

ノートを抱へながら病院を訪れ、妹の顔近く、ベッドの床にぢかに胡坐をかき、ベッドに寄り掛かりながら妹の顔とノートを交互に見て看病してをりました。(『倅・三島由紀夫』平岡梓著)

さらに、看病の甲斐なく臨終まぢかとなつた妹は「朦朧(もうろう)とした意識の中にも微かに『お兄様アリガタウ』と言つた」ことなど、妹に対する献身的な介護を示したといふ。この三島氏の様子について、父君は、

あの時の倅の妹思ひと申しますか、その心のやさしさには僕も倅に手をついてお礼をしてやりたいくらいの気持ちでした。

と後に語つてゐる。

知者は惑はず

このやうに、三島氏は生来のやさしさを備へた人であつたが、同時に「ことば」や「礼」に関しては厳格であつた。三島氏はこの討論の中で、学生が天皇陛下を揶揄(やゆ)して「朕はたらふく喰つてゐる」といふ言葉を口に出したことに対して、めずらしく露骨な不快感を示した。そしてそれは「共産党の考へさうな非常に下劣な文章である」と断じた。また、学生が東大でバリケードを築いて警察と戦ふ姿を「覆面かぶつて、大掃除の手伝いみたいなみつともない」と揶揄した。氏にとつて人間の行為は「礼」に叶つて美しくならなければならないのである。

これらのことは、人間が抱く「理想」が単に観念として頭だけにとどまるだけではダメで、「情」と一体化して已むに已まれぬものとなつてゐなければ、身体の外に表れる「言葉」も「態度」もそして又「行動」もすべてが「美」とは無縁のものとなることを三島氏は語つてゐる。

逆に言へば「ことば」や「礼」は人を規定する。つまり、人間はたとへ実体がそのレベルになくても、意識的に丁寧な言葉を使つたり、礼儀正しく振る舞ひ、身だしなみを整へれば、内面まで徐々に品のよいものに染め上げられて行くのである。また、一見品格のある人でさへも、下劣な言葉を使ひ続ければ、やがては品性下劣に堕してしまふことは言ふまでもない。そのことを熟知してゐた三島氏は内(精神志気)と外(礼儀)の両面から「楯の会」隊員を徹底的に鍛へ上げ、言動も見た目も美しい軍人に仕立て上げた。

孔子は極致に到達した人間を称して「知者は惑はず、仁者は憂へず、勇者は懼(おそ)れず」と語つた。これらの三つの徳の概念を三島氏に当てはめてみると、全てに当てはまるやうに思はれる。その三島氏が、ある価値に「惑はず」殉じたことを、大澤氏をはじめ多くの人たちは「矛盾がある」として戸惑つてゐる。

一体、三島氏が「惑はず」殉じた価値とは何か、そしてそれはいかにして氏の中で形成されて行つたのかについて次回は考へてみたい。