大東亜戦争が始まった日

田村一二/元新潟県小学校長

日本機動部隊、真珠湾奇襲

七十九年前の昭和十六年(一九四一)十二月八日は、南雲忠一(なぐもちゅういち)提督指揮する機動部隊(空母六隻基幹)がハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲攻撃した日、すなわち大東亜戦争の始まった日です。

機動部隊の第一次攻撃隊長・淵田美津雄(ふちだみつお)中佐は、ハワイ時間七日午前七時四十分、全軍突撃を命じ、同五十二分、機動部隊指揮官・南雲提督へ「トラ・トラ・トラ(われ奇襲に成功せり)」と打電し、真珠湾攻撃の火ぶたが切られたのです。

続く第二次攻撃隊は、八時五十四分に真珠湾に殺到して、第一次の攻撃を免れた艦船、航空機、飛行場及び施設へ徹底攻撃を加え、完膚なきまでにオアフ島の軍事施設を破壊しました。

一時間五十分の攻撃によって米国側の被害は、アリゾナ、オクラホマ等の戦艦五隻が沈没、駆逐艦等十隻以上が破壊、航空機は百八十八機が撃墜または破壊、さらに戦死者は二千四百余名という甚大さでした。

一方、日本側の被害は、航空機二十九機が撃墜され、特殊潜航艇五隻、潜水艦一隻が未帰還、戦死者と未帰還者等は百八十五名でした。

米国にとっては、太平洋艦隊壊滅に等しい膨大な被害を受けたのです。

ワシントン時間の翌八日、大統領ルーズベルトは、議会において「昨日、十二月七日は、屈辱の日として今後ずっと記憶に残るであろう。アメリカ合衆国は日本帝国の海・空軍によって突然かつ計画的な攻撃を受けました。合衆国は太平洋における平和の維持を見据えてかの国と交渉をしている最中でした。…」と演説し、連邦議会に宣戦布告を求めました。「真珠湾を忘れるな」という演説は、欧州戦争(第二次大戦)への参戦に強く反対していた国民を、一致団結させて参戦へと激しく奮い立たせました。

しかし、米国は突然攻撃されたのではなく、ルーズベルトは、日本軍の真珠湾攻撃を誘導し、事前に知っていたことが、その後明らかになっていくのです。全責任をハワイ陸・海軍司令官に負わせる

ルーズベルトは、同月十八日、大統領命令による真珠湾の大惨事の調査をする「ロバーツ調査委員会」を設置し、同委員会は、早くも翌一九四二年一月二十三日には、大統領に報告書を提出しました。

報告書には真珠湾の大損害は、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将と陸軍司令官ショート中将の職務怠慢と判断ミスによって生じたと指摘し、全責任を両司令官に負わせた一方で、ワシントンのルーズベルト大統領以下は、職務を果たしていて責任は無い、と結論しました。連邦議会は、この一方的措置と同報告書を全て認めたわけではなく、大統領命令による調査では限界があり、再調査が必要と考えましたが、戦争の最中に事件の調査は不適切と考えていました。

真相究明の高まり ―― 陸・海軍調査委員会

一九四二、四三年と過ぎ、上下両院議員が集めた真珠湾の責任をめぐる情報量は着実に増えて、ルーズベルトはじめ高官達を、責任なしとしたロバーツ報告書に対する疑問が、大きく湧き上がってきました。

一九四四年、米国の勝利がほぼ確実になると、真珠湾事件の責任究明が改めて求められ、同年六月、上下両院は、陸・海軍両長官に、真珠湾大惨事に関する新たな調査を命じる法律を成立させ、陸・海軍に再調査を指示しました。そこで陸・海軍の査問(調査)委員会が設置され、調査では一般には知られていない多くの事実が明らかになったのです。その一つは海軍情報部が、真珠湾攻撃以前から、日本の暗号電文を傍受・解読していた「マジック」と呼ばれる文書の存在でした。この存在をキンメル大将は、初めて知ったのです。

「マジック」は、ルーズベルト他、ごく一部の高官しか読むことのできない最高機密文書でした。その中には、日米交渉が決裂し、ハワイ攻撃も想定される重要情報があり、当然真珠湾へ情報を伝達し、同時に戦争警告を発令することが、陸・海軍長官、さらにはルーズベルトの最も重要な責任だったのです。

しかし、ルーズベルトはこれを隠し、これらの情報は、ハワイのショート、キンメル両司令官には全く伝えず、二人に全責任を負わせてきたのです。

陸軍報告書は、ハル国務長官はじめ陸軍参謀総長等の責任に言及、またショート陸軍司令官には職務怠慢は無く、判断ミス有りとしました。一方、海軍調査報告書は、海軍作戦部長の判断ミスを厳しく指摘し、キンメル大将には職務怠慢は無し、と断定しました。

徹底した真相究明 ―― 真珠湾調査委員会

連邦議会は、これでもまだ十分な責任追及が行われていないと判断し、終戦直後の一九四五年九月、連邦議会上下両院に、真珠湾大敗の責任を徹底的に追求するため、民主党六名、共和党四名からなる「上下両院合同真珠湾調査委員会」を設置して、強大な権限を駆使し、膨大な資料と証言を収集しました。

七〇〇通以上の「マジック」と、ルーズベルト政権の閣僚の言動等の重要情報から、真珠湾攻撃は予想できていました。最も重要な証拠は「陸軍長官スチムソンの日記」です。日記中の一九四一年十一月二十五日の条には「大統領は、合衆国は早ければ十二月一日には攻撃されるだろう。問題はいかにしてわが国〔米国〕が甚大な被害を受けずに、奴ら〔日本〕に最初の発砲を誘導するかだ」と、書かれています。(傍点筆者)

ルーズベルトは念願であった欧州の戦争に参加するため「日本に米国を攻撃させた」のです。しかし、大きな誤算は、二千四百余名の戦死者を始めとする、人的、物的な甚大な被害を受けたことでした。

上下両院調査委員会は、膨大な資料を収録した報告書を公表しました。ビーアド博士は、それを更に分析して『ルーズベルト大統領と一九四一年の開戦』(『ルーズベルトの責任』藤原書店)を、またモーゲンスターンは『真珠湾』(錦正社)を著(あらわ)して、「真珠湾大惨事の最高責任はルーズベルトにあり」と断定して、彼の責任を厳しく追及し真実を明らかにしたのです。