広島「二十万の霊」を慰めるには ― 平泉澄博士『山河あり』を読んで ―

 井上寶護/ 国柱会講師
清澄にしてリズムある文章

平泉博士の著作と言へば僅かに『日本の悲劇と理想』(原書房)くらゐしか読んでゐなかつた私にとつて、ある人が蔵書の中から贈つてくれた『山河あり』(立花書房)との出会ひはまことに感動的でした。

その同じ知人によつて本誌を紹介してもらひ、誌友になつたのも最近のことです。毎号の巻頭に置かれる博士の文章の力強さと美しさに次第に魅了されてきた頃合ひに、まるで見計らつたやうに本書を送つてくれたのです。彼女(国を愛する心に篤い刀自です)にはいくら感謝しても足りません。この不肖を、汲めども尽きぬ「平泉ワールド」に導いてくれたのですから。

博士の文章は、御名の通り清澄そのものです。「名詮自性(みょうせんじしょう)」とはこのことかと思ひました。「文は人なり」と言つたのは高山樗牛(ちょぎゅう)ださうですが、心に曇りのない人の文章は澄み切つてゐます。

本誌の読者各位にとつては自明のこととは思ひますが、もう少しだけ言はせてください。清澄たるに止まらず、文章にリズムがあります。むろん心地よいリズムです。リズムが乏しい本は読むのに疲れます。博士の文章は内容が高度なのに疲れません。清澄かつ美しく、リズム感溢れる文章―およそ筆を執る者にとつての理想ではないでせうか。

ついでに言へば、博士のお話の巧みさにもほとほと感服しました。活字に起こしてあれだけの面白さです。直接耳にしたらどんなに心を揺さぶられたことでせう。博士を慕ふ人が後を絶たなかつたといふのも当然です。本誌の存在は、その何よりの証明でせう。

神子の桜

『山河あり』は昭和三十二年初版、その後新版再刊されました。公職追放こそ解除されたものの、中央の言論界はまだ還暦を過ぎたばかりの博士を徹底して忌避します。博士はやむを得ず故郷・白山神社の宮司を務める傍ら、時に招かれて各地に出講します。その中から、地方に残された美しい風物・人情と共に土地にゆかりの歴史上の人物を生き生きと描き出し、祖国復興への悲願を籠められたのが本書です。

「国破れて山河ありとは杜甫の歎じたところであるが、此の美はしき風景と此のあたゝかい人情との存する限り、日本は再び其の正気と雄心とを取り戻す事が出来るに違ない」(「神子(みこ)の桜」結び)

「神子の桜」を見るために、博士は越前勝山の平泉寺から福井に出、敦賀を経て小浜に入り友人宅に一泊、その翌る日、三方(みかた)五湖の方面に引き返して常神半島に足を運びます。博士の動きは合理的で少しの無駄もありません。それなのにどこか悠然としてゐる。

前日の敦賀では乗換への合間に気比(けひ)神社に参拝し、小浜では宇波西神社の祭礼を見学します。歌枕で名高い「恋の松原」を見、近くを流れる浦見川で開鑿(かいさく)工事の昔を偲び、海山村でまたも一泊、三方湖の風光を心ゆくまで楽しみます。

翌日はいよいよ「神子の桜」ですが、ここでも決して先を急ぎません。先づは半島の先端、常神村にある有名な「蘇鉄」の古木を見学、常神の神社に参拝してお堂の古佛まで確かめてゐます。

神子の村でも土地の旧家を訪ねて山と積まれた古文書や系図を確かめ、近くの寺の祠の中まで覗き、和尚も知らなかつた弘安の懸佛(かけぼとけ)を発見するといふ具合で、史跡に対する博士の恐いほどの鋭い意識が窺はれます。

さて、いよいよ「神子の桜」ですが、ここばかりは博士自身の筆に拠るのが適当と思はれます。

「その道をゆく事しばらくにして、咲き誇る桜の花に、あたり一面まばゆくなるを覚えた。見上ぐる山の上も花である。見おろす谷の底も花である。しかもすべて山桜である。彼の浅俗軽薄なる染井吉野では無い。敷島のやまと心の山桜、花と葉と時を同じうして出で、艶麗にしてしかも毫も媚態を存せざるものである」

ここまで言はれると、染井吉野が少し気の毒になりますが、博士の美的感覚の中の花はあくまでも山桜なのでせう。江戸時代に交配の工夫によつて「染井吉野」が創り出されるまで、先人たちが数千年間愛好したあの山桜です。こんな所にも、伝統を尊ぶ博士の姿勢が滲(にじ)み出てゐるやうに感じられます。

博士の見た「神子の桜」は、現在でも山桜の名所として敦賀・小浜あたりではよく知られてゐるやうで、特に海上からの眺めは絶景とのことです。

奇怪なる弔辞、解すべからざる挨拶

「神子の桜」から余り間を置かずに、博士には広島訪問の機会がやつてきたやうです。 「広島は、原子爆弾の為に、全世界の注目する所となりました」

博士は「三 広島」の記事をこのやうにさり気なく書き始めてゐます。そして、おもむろに八年前の惨状と目の前に見る復興の様子を述べ、爆心地に近い城址から広島城の歴史を回顧し、中でも日清戦争に際してここに大本営を置かれた明治天皇への「申訳のない気持」を吐露します。

「申訳が無いといひますのは、我等の智謀、我等の勇断、我等の努力、攻めくる敵の大軍を粉砕するに足らずして、遂にかゝる敗れを見るに至つた点を慚愧(ざんき)するのであります」

ところが、市内を見回つてゐる内に博士はとんでもないものを見つけてしまひます。

「しかるに、広島の市中を巡歴して、犠牲となつた二十万の、冥福を祈つて造られた墓へ参りますと、不思議なる銘が掲げてあります。

安らかに眠つて下さい
(あやまち)は繰返しませぬから

かういふ銘であつたと覺えます。或は一二字ちがつてゐるかも知れませぬが、意味は正にかやうでありました。是れは奇怪な弔辞であります。解すべからざる挨拶であります」

博士が広島を訪問して講演をされたのが、昭和二十八年六月十八日でした。あの慰霊碑の除幕が昭和二十七年、この記事の初出が二十八年八月であることからして、碑文に対する違和感の表明としては最も初期のものに属すると思はれます。

ただし昭和二十七年の秋、あのラダ・ビノード・パル博士が慰霊碑を訪れたことはよく知られた事実です。東京裁判で日本無罪の判決書を書いた元判事です。パル博士は碑文の意味を確かめ、「日本人が日本人に謝罪してゐるのか」と、その矛盾を厳しく非難します。平泉博士が懐いた違和感と全く同じです。

パル博士は広島市小町の法華宗本照寺の住職・筧義章氏の請ひに応じ、「本来あるべき」碑文をベンガル語で起草して筧に渡します。堂々たる「大亜細亜悲願の碑」は今も本照寺の境内に立つてゐます(ただし、かなりの長文なので「碑文」向きではありません)。

パル博士の非難に対して碑文の原作者・雑賀(さいが)忠義氏(広島大学教授・英文学)は直ちに筆を執つて反論します。巷間パル博士に賛同する者、雑賀に与(くみ)する者入り乱れてかなりの騒ぎになつたさうです。ひよつとするとこれが平泉博士の耳にも入り、広島行きの動機の一つになつた可能性も排除出来ないと思ひますが、実際はどうだつたのでせうか。

真実に背く者たちへの怒り

平泉博士は怒りました。その深刻なる悲憤の情は博士の五体を震はせたに違ひありません。しかし博士の頭脳は冷静さを失ひません。先に引いた文章に続けて、皮肉たつぷりにかう述べます。

「罪なくして生命を奪はれ、武装せずして倒されたる二十万の不幸なる霊魂は、果して此の奇怪なる弔辞を受け、此の不可解なる挨拶を諒とするでありませうか。『過は繰返しませぬから』といふところから見れば、之を書いた人は二十萬の生命を奪つた人らしく見えます。さも無ければ意味をなさぬ言葉ではありませぬか。実際は、どうであるか。実際は原子爆弾は、アメリカのつくる所であり、米軍によつて投下せられたものであります。それ故に若し米国によつて此の銘が書かれたのであれば、下の句は先づ意味が通じるでありませう。(しかしそれにしても上の句は意味をなしませぬ、人を殺しておいて、安らかに眠つて下さいとは、人を馬鹿にした挨拶であります。) 而(しこう)して此の墓が、日本人によつて造られ、此の銘が日本人によつて書かれたといふのであれば、これは全然意味をなさざる文句であり、東西をわきまへず、明暗を知らざる者の妄語(たわごと)といふの外ありませぬ」

東西をわきまへず、明暗を知らざる者の妄語、といふ手厳しい表現に、博士の嘆きの深さが見て取れます。しかし嘆きながらも博士は、この碑文を起草した者の心地を想像します。一体誰が、どのやうな意識で、このやうな碑文を作つたのかと。そして博士の推定は、その後長きに亙つて多くの日本人の心を呪縛し、いまなほ国論の統一を妨げてゐる最大の迷妄をぴたりと言ひ当ててゐます。

「恐らくこの銘を作つた人、及びこの銘を掲げる事を諒解賛成した人々の考では、今度の大戦の挑発者は日本であり、日本の軍閥の飽くことを知らざる野心が、侵略に侵略を重ねて無理押しをした為に、遂に米国の怒りを買ひ、それにも懲りずやがて真珠湾に奇襲を加へるに及んで、未曽有の大戦となり、大敗となつたものであつて、その責任は一(いつ)に日本に在り、特に日本の軍閥に在る、と、かやうに考へてゐるのでありませう。そして自らは其の軍閥を押へる事が出来なかつた事について自責の念に堪へず、あのやうな銘を書くに至つたのであらうかと察せられます」

「左樣に戦争の原因を理解し、専ら日本、特にその軍閥を非難してやまないのは、占領下八年の間の、一般的風潮でありました。それはマッカーサー司令部によつて作為せられ、戦争裁判といふ彼の大仕掛の芝居によつて宣伝せられ、而して当時虚脱状態にあつた日本人の間には、容易に一般化していつたものであつて、いはゞ一時流行を極めた精神的熱病であつたのであります」(傍点筆者、以下同じ)

主客顚倒の慰霊碑碑文、そのよつて来るところを分析し推測する博士の文章は、今これを読んでも簡潔明瞭で聊かの淀みもありません。そこには学者として、人間として、真実に背く人々に対する静かな怒りが湛へられてゐます。

口惜しさを忘れられない

さて、令和の今日、博士が述べた達意の文章を読む私どもの胸中をよぎるものは如何なる感慨でせうか。博士がこれを書いて世に出されたのは今から約六、七十年も前のことです。戦争を挟んであの時代を生きた当事者の目にはつきりと映つてゐた「精神的熱病」を、我らは幾分でも克服し得たでせうか。

確かに心ある人々により過去何度もこの碑文への疑問と抗議が繰返されました。特に昭和四十年代半ばには所謂「碑文論争」の激化に伴つて地元住民の抗議運動が盛り上がり、一時は地元紙の論調も碑文修正に傾いたほどです。当時まだ辛うじて是は是、非は非とする健全な常識が生きてゐたといふことでせうか。

しかし、混乱を恐れた山田節男市長の「碑文の見直しはしない」決定によつて論争は次第に下火となり、現在に到ります。平泉博士によつて「明暗を知らざる者の妄語」と断定された碑文、それを刻んだ原爆慰霊碑は、今も広島平和公園の真中に鎮座してゐます。広島市はこの慰霊碑の碑文を見直さないことを公的に表明しました。おそらくここ当分の間、碑文見直しはあり得ない―さう判断してもよささうです。

しかし、です。当局者がどんな決定を下さうと、抗議運動が下火にならうと、をかしいものはやはりをかしい。何十年、何百年経(た)たうが、論理の矛盾が正当化されることはありません。原爆を落とした側が免責されることもありません。

近年の調査では、「原爆攻撃は正当だつた、又は已むを得なかつた」と考へる米国人はおよそ六割に上るさうです。先年、大統領として初めて広島を訪問したオバマ氏は慰霊碑の前で何と言つたでせう。「七十一年前、雲一つない晴天の朝、空から死が舞ひ降りてきて世界は一変しました…」かう言つたのですよ。まつたく何といふ言ひ草でせう。「ふざけるな、この野郎!」と叫んだのは私だけではないと思ひます。

生きの身を火にて焼かれし幾万の
恨み広島の天にさまよふ
親呼びて叫びたらむか口開けし
まま黒焦げし幼児(をさなご)の顔

私どもはたつた七十五年前の同胞の、この悲しみと怒り、口惜しさを忘れられるものでせうか。子供たちは「ヘイタイサン、コノカタキヲトッテクダサイ…」と言ひながら死んで行つたではありませんか。

世界平和に貢献するのも、反核平和を叫ぶのも大いに結構でせう。しかし、「『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは、世界に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰り返さぬことは不可能となり、霊前でものをいう資格はない」(雑賀教授)とまで決めつけられて、二十万の霊が「安らかに眠れる」ものでせうか。

「死者の霊を慰める」とは

それにしても、広島市民はいつの間に人類代表に成り上がり、神のごとき眼差しで「世界平和」を指図するやうになつたのでせうか。平和も、反核も、あの戦争で尊い命を国に捧げた三百万の同胞に対する熱い涙の中から出たのでなければ本物ではないと思ひます。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ
たちなほる見えてうれしかりけり

昭和二十二年の地方巡幸で広島に行幸された昭和天皇さまの御製です。ああ広島――この初句に陛下の万感の思ひが籠められてゐます。自身被爆者でもあつた雑賀教授にも、当然この思ひはあつたことでせう。それならばなぜもつと正直に、もつと素直に、慰霊の真心を表現しなかつたのでせう。広島の為にも雑賀教授の為にも、実に残念です。

原爆慰霊碑の碑文は、あらゆる「戦後的なもの」のシンボルである――全くの私見ですが、私はそのやうに思つてゐます。神子の山桜を愛で、中龍鉱山の住民の振舞に日本人らしい優しさを見る平泉博士の精神と対極をなす諸々です。憲法問題から靖國神社の問題、国防から経済まで、何もかもです。いつの日か日本人が日本古来の「明く清く直き」心を取り戻した時、碑文のことも必ず円満解決に向かふことでせう。

平泉博士は次のやうに一文を結んでゐます。

「私は広島の市街が、見事に復興しつゝある事を感歎します。あの惨害にも拘らず逞しく復興されたことに感謝します。同時にかやうな復興が、ひとり建築や商業の上に於いてのみならず、精神の上に於いてもまた、一時の荒廃虚脱の後に、再び力強く起って、日本復興のめざましき先駆とならむ事を念願し、且つ期待いたします。二十万の霊は、その時こそ真に安らかに眠られるでありませう。