梅里先生碑陰幷銘(上)― 水戸藩主徳川光圀の自叙伝 ―

 宮田正彦/ 水戸史学会会長

これからしばらくの間、江戸時代に書かれた文章の中から、私共の魂を鍛へ育てるために是非読んでおきたい文章を選んで、ご一緒に勉強して行きたいと思ひます。少しづつ読んで行きますので、よろしくお付き合ひの程お願ひいたします。

初めに、水戸藩第二代藩主徳川光圀(みつくに)公( 諡(おくりな)は義公)の自叙伝でもある『梅里(ばいり)先生碑陰』を取り上げます。生前に立てておく墓を寿蔵(じゅぞう)といふので、『梅里先生寿蔵文』ともいひます。

この文章は元禄四年(西暦一六九一)、光圀六十四歳の作文です。光圀は三十四歳で藩主になつてから、丁度(ちょうど)三十年、幕府から漸く隠居を許され、隠棲(いんせい)の地を常陸太田(ひたちおおた)の西山(にしやま)に求めて一つの山荘を造らせました。それは西山御殿(にしやまごてん)(現在は国指定重要文化財、史跡名勝天然記念物、西山御殿跡「西山荘(せいざんそう)」)と呼ばれました。この地で悠々自適の生活に入り、長年にわたる公務の重責から解放された光圀は、自分の生涯を顧みてこの文章を作りました。なほ、光圀は初め光国と書きましたがこの文では光圀に統一します。

梅里先生碑陰(ばいりせんせいひいん)(なら)ビニ銘(めい)

(語釈)
梅 里=光圀公の号の一つですが、呉の太伯(泰伯)が住んだといふ常州(江蘇省) 無錫(むしゃく)県の東南六十里(約四十キロメートル)に在る郷の名。
先 生=自分のことを指す。他人が書いてゐるやうに見せかけるため。
碑 陰=墓碑の裏面。
=碑文の最後に簡潔に韻文(いんぶん)で付した賛文。

先生(せんせい)ハ常州(つねしゅう)水戸(みと)ノ産(さん)ナリ。

(通釈) 「梅里先生は常陸の国(今の茨城県)の水戸の生まれです」
(語釈)
常 州=「じやうしう」と読んでもよいが、上州と区別するために、水戸の先輩は「つねしう」と読んでゐる。

(解説)

シナの歴史の伝へるところでは、殷の時代、岐山(陝西省)地方を開いて、周といふ国を興した古公亶父(たんぽ)の孫を昌(しょう)といひますが、昌が生まれた時に、この子は聖人になるであらうといふ祥瑞があり、古公亶父は「周を興隆させる者は昌の子孫であらうか」と、この昌に期待を寄せました。そこで、古公亶父の長男の太伯(たいはく)と次男の虞仲(ぐちゅう)は、父親がゆくゆくは昌に跡を継がせたいと考えてゐることを察して、姿をくらまし、遠く南方の異民族(荊蛮(けいばん))の地に逃れたので、昌の父である三男の季歴(きれき)が跡を継ぎました。

この昌が西伯(せいはく)となり、後に諡して周の文王と云はれる人です。孔子は、太伯の行為は徳の至つたものだと称揚してゐますが、光圀は、自分が三男でありながら水戸家を継いだのは「大義ちがひ」であると考へてゐたので、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)に学ぶと共にこの太伯の生き方にも深く学ぶところがあり、その住所と伝へる地名である梅里を自らの号としたのです。

また、この碑陰文は、文体の分類の上からは「伝(でん)」の仲間で、一種の自叙伝といつてよく、シナの陶潜(とうせん)(西暦三六五~四二七年、字は淵明、晋時代の人)の「五柳(ごりゅう)先生伝」に傚(なら)つたといはれてゐます。このやうに他人が書いたやうに、自分の伝記を客観的に書いたものを「托伝」といひ、漢の東方朔(とうはうさく)の「非有先生伝」魏の阮籍(げんせき)の「大人先生伝」などが有名です。

「水戸ノ産」、となにげなく読み飛ばしさうですが、水戸藩は定府(藩主に参勤交代の義務がなく、原則として江戸に住まひすること)であつて、その本邸は小石川(明暦大火までは江戸城中吹上(ふきあげ))に在つたのだから、水戸家二代目となる光圀は、本来ならば「武州江戸ノ産」でなければなりません。何故「水戸ノ産」なのかは次項で。

(そ)ノ伯(はく)ハ疾(や)ミ、其(そ)ノ仲(ちゅう)ハ夭(よう)ス、先生(せんせい)夙夜(しゅくや)膝下(しつか)ニ陪(ばい)シテ、戦々恐々(せんせんきょうきょう)タリ。

(通釈)
「先生の長兄は病身であり、次兄は早く亡くなりましたので、先生は世子となり、朝夕、父頼房(よりふさ)公のお側に居りながら、常に戦々恐々として過ごしました」
(語釈)
=長兄
=次兄。伯・仲・叔・季は兄弟の順序をいふ。
夜=朝から晩まで。
=目上の人の側に附き従ふこと。陪席、陪従。
戦 々兢々=びくびく、おそれ慎む様子。詩経に「戦々恐々トシテ、深淵ニ臨ムガ如ク、薄氷ヲ履(ふ)ムガゴトシ」とある。恐々は兢々に同じ。

(解説)

光圀は、寛永五年六月十日、水戸城の南崖下(現在の柵町(さくまち))に在つた三木仁兵衛之次(みきにへえゆきつぐ)の屋敷で、誕生しました。母は頼房(よりふさ)の側室谷(たに)久子。兄は後に高松藩主となつた頼重(よりしげ)。次兄は亀丸といひましたが四歳で亡くなりました。

なぜ、御殿ではなく臣下の屋敷で誕生することになつたのでせうか。
実は頼重と光圀は久子の産んだ子ですが、二人とも堕胎(だたい)を命じられたので、頼重は江戸麹町(こうじまち)の、光圀は水戸柵町の、三木仁兵衛の屋敷でひそかに出産することになつたのです。これには頼房の意思とは別に、側室同士の勢力争ひが関係してゐるらしいのですが、詳しいことは分かりません。したがつて光圀は五歳まで三木氏の子として育てられました。五歳で水戸城に招かれ、六歳の時に世子(せいし)(跡継ぎ)と定められました。

此のとき兄頼重は病気であつたやうですが、未だ頼房の子として正式に認知されては居りませんでしたので除外されたのでせう。普通の武士の子として育てられたことは、光圀の人間形成に大きな意味を持つたことでせう。光圀は致仕(ちし)したことを亡き父に報告する文を作つてゐますが、その中でも「幸カ不孝カ、兄ヲ超(こ)エテ宗ヲ承ク。内ニ顧ミテ安カラズ、(中略)戦戦兢兢トシテ三十年ヲ経ル」と記してゐます。

(そ)ノ人(ひと)トナリヤ、物(もの)ニ滞(とどこお)ラズ、事(こと)ニ著(ちゃく)セズ、

(通釈)
「その人柄は、全ての物事に対して固執したり執着したりすることがありません」
(語釈)
滞る=とどこほつて動かない様子。囚(とら)はれるの意。
=ぴつたりくつつく意。着は著の俗字。

(解説)

囚はれぬ心を以て万事に臨むことは、君子たる者の第一に心がけなければならないところでせう。光圀は、常に物に執着しないことは人間修行の第一であるとして、自分でもそのやうに努め、家来にも諭すところがありました。それは物欲に限りません。人間のいはゆる常識や思い込みについても言へることです。「人は最初に知つたことや聞いたことに拘(こだわ)つて、より正しいものや新しいものに出会つても、とかく素直に訂正したり認めたりすることが難しいものです。そのために理非に迷ふのである。よくよく心得て修行するやうに」(『桃源遺事(とうげんいじ)』)とは光圀の言葉です。

神儒(しんじゅ)ヲ尊(たつと)ンデ神儒(しんじゅ)ヲ駁(ばく)シ、仏老(ぶつろう)ヲ崇(あが)メテ仏老(ぶつろう)ヲ排(はい)ス

(通釈)
「神道も儒教も仏教も道教も、それぞれに勝(すぐれ)た内容を持つ思想体系であることはよく理解し尊重しますが、どれか一つに拘(かかわ)ることなく、それぞれの得失についての自分自身の判断を持つてゐます」
(語釈)
=正す。理に合はぬことを正す。また、他人の説などを非難攻撃すること。
=老荘思想。道教のこと
=おしのける。しりぞける。

(解説)

神・儒・仏・老は当時の主要な思想。尊重はするが、盲信はしない。一つに偏ることも無い。

意味の深い言葉です。井上玄桐(いのうえげんとう)は「神道は神道、仏道は仏道、修験(しゅげん)は修験、おのおの其の道を専(もっぱら)にして他を混雑してはならないと教へられた。僧侶に対してもその本来の宗旨に他宗派の宗旨をまぜこぜにすることを大いに嫌はれた」「度々仰(おお)せられたことは、孔子の教へは煎(せん)じ詰めれば仁の一字に集約され、釈迦一代の説法は慈悲の二字を説き続けたに過ぎない。政治に当たつては慈悲を専らにすべきであると。このことは繰り返し仰せられた」等と伝へてゐます。(『玄桐筆記(げんとうひっき)』))

光圀自身は特定の思想・宗派に囚はれず自在に学んだと思はれ、神・儒・仏・老いづれにも深い知識と理解を持つてゐました。仏教についても、特定の宗派を外護(げご)(旦那となつて保護すること)することはありませんでした。これは、政治的配慮からかもしれませんが、「わしは釈迦宗(しやかしゅう)じや」と言はれたといひます。

光圀の態度は、特定のものを支持したり排除したりすることではありません。それぞれが長い歴史の中で生まれ培(つちか)はれて存続してきた以上、無意味といふことは無い。大切なことは、それらが本来持つていたはずの意味・価値が曲げられないことであり、それは、その本来の純粋さを保つことによつて可能になります。元(はじめ)を元とし本(もと)を本とすることで、また逆にそのものの本当の姿や意味・価値が見えてくる、それを理解した上で取捨は各自の判断である、といふことであらうと思ひます。

『玄桐筆記』は、光圀の歿後間もなく、その伝記の編集が始められた際、担当者の安積澹伯(あさかたんぱく)の求めに応じて、井上玄桐(京都の人・光圀の侍医として西山荘に仕へた)が、その光圀に近侍して見分したところを箇条書きにして提出したものですから、記録の内容は信頼できると思ひます。

(つね)ニ賓客(ひんかく)ヲ喜(よろこ)ビ、殆(ほとん)ド門ニ市(いち)ス。

(通釈)
「いつでも喜んでお客さんをお迎へするので、大勢の人が次々と訪ねてきてくれます」
(語釈)
門 ニ市ス=市は物品を売買する所、人が多く集まる所。つまり、門の前は市が立つてゐるかのやうに、常に人が出入りする賑やかな様子をいひます。

(解説)

山荘に出入りした人々は武士だけではありません。光圀は、山伏、神官、僧侶、百姓、町人、きこりなど、あらゆる階層の人々と隔てなく接しました。世間話に興じたり、碁や将棋の相手もしてゐます。当時の西山荘の雰囲気を安藤年山(あんどうねんざん)は、「彰考館(しょうこうかん)の学者たち四五人づつ、代るがはる参上しては、詩歌の唱和、あるひは『本朝史記(ほんちょうしき)』(後に『大日本史』と命名)や『釈(しゃく)万葉集』以下の書物の編纂上の議論などが活発で、とても楽しい毎日でした。あるひはまた、神官僧侶など、御領内ばかりでなく、江戸や近国からも、なんらかのご縁のある者たちがなにくれとなく慕ひ来ては、学問その他諸々の話題で、藩主として水戸に居られたときよりも一層隔てなく親しく交際されました」(『年山紀聞』)と伝へてゐます。

(いとま)(あ)ル毎(ごと)ニ書(しよ)ヲ読(よ)ムモ、必(かなら)ズシモ解(かい)スルヲ求(もと)メズ

(通釈)
「公務の余暇を利用しては、よく書物を読みますが、文字の詮索考証などの細部には拘
(こだわ)りません」

(解説)

「読ムモ」と読んでも「読メドモ」と読んでもよい。
『五柳先生伝』に、「好ンデ書ヲ読ムモ、甚シクハ解スルヲ求メズ。意ニ会(かい)スルゴトニ、便(すなわ)チ欣然トシテ食ヲ忘ル」という句を踏まへた表現でせう。つまり、書物を研究分析の対象として見るのではなく、読書を自分のものとして、例へば、道を求め、あるいは古人との対話を楽しむような読み方をする、といふことで、「必ズシモ解スルヲ求メズ」といふのは、無理に解(わか)らうとはしない、と訳すことが出来ますが、それは、解らないことをそのままにして、解るところだけ解れば良いといふ意味ではありません。文字や語句を事細かにあれこれと吟味することは悪いことではないにしろ、枝葉末節に拘つて全体の本意を見失ふことがあります。光圀は、書いた人の声を直接聞かうとしたのです。

(よろこ)ビテ歓(よろこ)ビヲ歓(よろこ)ビトセズ、憂(うれ)ヒテ憂(うれ)ヒヲ憂(うれ)ヒトセズ。月(つき)ノ夕(ゆうべ)、花(はな)ノ朝(あした)、酒(さけ)ヲ酌(く)ミ、意(い)ニ適 (てき)セバ、詩(し)ヲ吟(ぎん)ジ情(じょう)ヲ放(ほしいまま)ニス。

(通釈)
「嬉しい時には素直に歓ぶけれども、其の喜びに溺れず、心配事があつてもいつまでもくよくよせず、それらに囚はれることはありません。月の綺麗な夜や桜の見事に咲いた朝など、季節季節折々の自然を愛(め)でては酒を飲み、自由な楽しい気持ちのままに、気が向けば詩を作つたり吟じたりして楽しみます」
(語釈)
=制約からときはなち、自由気ままにさせること。

(解説)

事に触れて素直に感情を表出するけれども、その感情に溺れ流されて偏見を持つたり判断を誤つたりすることはない。物に囚はれないから真の自由が得られるのです。したがつて、感情の放出を自然に任せても道を外(はづ)れることはないのです。

光圀の詩文は、『常山(じょうざん)文集』、和歌和文は『常山詠草(えいそう)』と名付けられて早く出版されてゐます。常山は光圀の号です。現在では、さらに増補されたものが『水戸義公全集』(全三巻・㈶水府明徳会刊)に載せられてゐます。この全集に収載されてゐる漢詩文の数は、合わせて一七九一点、和歌和文は同じく一〇二四点に及んでゐます。また、その他、謡曲・仕舞は好まれたが、三味線は嫌はれたと伝へられてゐます。

声色飲食(せいしょくいんし) 、其(そ)ノ美(び)ヲ好(この)マズ、第宅(ていたく)器物(きぶつ)、其(そ)ノ奇(き)ヲ要(よう)セズ。

(通釈)
「女性の色香にはあまり関心は無く、食べ物の美味(うま)い不味(まず)いにもとやかく言ひません。また、自分の住まいや日常に使用する道具などについても、特に珍しいものを選り好みしたり、意匠に凝ることもありません」
(語釈)
声 色=ものをいふ声と顔色のこと。また音楽と情事をも意味する。
好 マズ=「嫌い」でないが、「拘(こだわ)らない」「どちらでもよい」といふこと。
飲 食=普通には「インショク」と読みますが、水戸の先輩達は「インシ」と読みならはしてきたらしい。「ショク」でも「シ」でも意味は同じですが、「ショク」は入声、「シ」は去声で、声調が異なります。ここは対句になつてをり、第宅器物の「物」は去声なので、これに合はせて「シ」と読ませたのかとも思ひます。
第宅=「ダイタク」と読む人もある。テイは漢音。ダイは呉音。
=もとめる。待ち構へて是非欲しいと願ふこと。

(解説)

実際の義公の生活は、大名としては極めて質素でした。「御隠居の後は、朝夕の食事は香の物と一汁三菜であつた。また、天性精進がお好きで、野菜類の時はよく召しあがり、魚や鳥のときは食が進まなかつた。脂(あぶら)の強い鳥・魚を召しあがると、ややもすると御胸に支へて苦しがられた」と、井上玄桐は伝へてゐます。玄桐は医者ですから、これは信用できます。

また、「隠居後に用いられた紙は、悉(ことごと)く反古紙(ほごし)で、新しいのは一枚もなかつた。諸方から来る手紙の裏を剥(は)いで水張りをして皺(しわ)を伸ばし、日に乾かして使用された。また、剥せないものは、黒いところと白いところとを切り分けて取つておき、漉(す)きなほさせたりした」と『桃源遺事』にあります。

このやうなつましい生活ぶりは、実は藩主であつたころからで、同じく『桃源遺事』に、ある時、小石川の水戸邸に招かれた尾張公が家臣に語つたといふ逸話が載つています。「居間に招じ入れられて、見ると普請も粗末な狭い部屋で、天井や壁にはやたらに反故紙が貼つてある。見ると尾張公が出した手紙もある。これはゴミが落ちないやうに貼つたもので、自分はこれで事足りますといふ。給仕に出てくる女中達の着物も粗末な物で、また容貌のすぐれた者は一人も居らぬ。我が尾張藩三流の女中でも、家臣の召使でも、もう少しましな容貌の者を召し抱へるものだ。その内の奢(おごり)を抑へる心は誠に感じ入つたものだ」と。また光圀の普段の暮らしぶりは、千石取りの旗本くらいのものであつたとも伝へられてゐます。

勿論これは吝嗇(りんしょく)(ケチ)ではありません。光圀は必要なところには金銭を惜しみませんでした。『大日本史』編纂のための史局の職員は、最大の時で六十人を超え、『礼儀類典』編纂のための専属職員も最大で六十人を超えてゐます。これらには莫大な経費を必要としました。また、北海道の探検に「快風丸」を建造し、那須国造碑(なすこくぞうひ)の修復に、楠木正成の墓碑の建立に、費用を惜しみませんでした。逆にいへば千石取りの旗本のやうな生活の余剰を、興廃継絶(こうはいけいぜつ)の事業に用ゐたのです。興レ廃継レ絶とは、大切なもので失はれてしまつたものや、断絶してしまつたものを本来の姿に戻すといふことで、このことは光圀生涯の志でした。小にしては、由緒ある社寺の復興や古文書や文化財の保護保存に努め、大にしては国史に流れる道理を闡明(せんめい)しました。

(あ)レバ即(すなわ)チ有(あ)ルニ隨(したが)ヒテ楽胥(らくしょ)シ、無(な)ケレバ即(すなわ)チ無(な)キニ任(まか)セテ晏如(あんじょ)タリ。

(通釈)
「美味いものや高価なものが嫌ひといふわけでは無いから、あれば、それはそれで楽しむのはやぶさかではありませんが、無ければ無くとも一向平気で、不満を抱きもせず、強いて求めようともしません」
(語釈)
楽 胥=楽しむといふ意味。楽は苦の反対。胥は助辞で意味はない。『詩経』小雅に「君子楽胥」とある。楽胥を「たのしみ」と読む人もあるが、晏如と対になる語であるので、音で読む方がよいと思ふ。「たのしみ」と読む場合には、晏如は「やすらぐ」と読むか。
晏 如=安らかで落ち着いてゐる様子。晏は安に同じ。如は助辞。

(解説)

ここまでは、その人となりや生活ぶりを述べてをり、その姿は、悠々として天地の間に逍遥するの感があります。