南極観測を推進した日本学術会議 ― 国民に夢と希望を与えた創設期 ―

 徳田八郎衛/平和・安全保障研究所客員研究員
少壮学者の手で改編した学術体制

本誌の平成二十九年八月号で「安全保障と日本学術会議 ― 国の安全を損ねて学術会議が栄えるのか」と題し、日本学術会議が十五名の委員からなる「安全保障と学術に関する検討委員会」を設け、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」受入れの是非を検討した過程を検証した。同会議の公的な安全保障問題の認識が、警察予備隊も日米安保条約もない「占領軍による平和の時代」に留まっているのは驚くべきことであるが、同会議を所管する内閣は、不作為のまま三年を過ごす。その間に、同会議の声明・報告をお墨付きとする「軍学共同反対連絡会」などの団体がキャンパスを蹂躙し、安全保障技術研究推進制度への応募や研究遂行を妨害し続けたのである。

菅義偉・新政権は、六人の新会員の任命拒否で国民の関心を同会議に集めた上で、「日本学術会議の在り方を問う」と揺さぶりをかけた。だが、このやり方では同会議の現状に批判的だった元会長等も、その立場上、会議側を援護せざるを得ない。科学技術立国・日本の崩壊を挙国一致で食い止めねばならない非常時に、ことさらアカデミアと政府の対立を煽るのは百害あって一利なしであろう。

さらに遺憾なのは、同会議を非難する論客の多くが、同会議の発足事情や果たしてきた役割を正しく理解していないことだ。「日本学術会議、発足時から共産介入」(産経新聞、令和二年十一月十八日)などと、同会議が最初から左翼団体の巣窟であったように描く報道も少なくないが、これも誤りだ。日本学術会議の前身は、大正九年(一九二〇)創設の「学術研究会議」である。パリに本部を置く万国学術研究会議の相方となり、「国際極年」のように複数の学会や省庁が対応する国際科学事業では日本を代表して活躍した。終戦直後の昭和二十年九月には原子爆弾災害調査研究特別委員会を設立し、学際的に活動した。

ところが戦後、数多くの組織や制度が解体や改編にあい、その一環で学術研究会議も日本学術会議に改編された。それを連合国軍総司令部(GHQ)の指示によるものとする解説が多いが、実態は異なる。終戦の翌年、文部省を介さずに直接、日本の科学者との接触を図ろうとしたGHQ経済科学局は、全国の大学から二十名程度の中堅学者を集めてサイエンス・リエゾン・グループ(SL)と称する委員会を結成させ、彼らに制度改革を討議させた。日本人学者を使った間接統治と見ることもできるが、彼らも米軍御用学者ではなかった。委員長は、北大教授から東大教授となって四年目の茅誠司氏。東大理学部に設けた事務局の長は、元陸軍技術将校で物理学者の竹下俊雄氏。そして参加者の共通認識は、機能が重複する学士院、学術研究会議、学術振興会の三組織の改革にあった。①

一方、これについては早くも終戦直後の秋、山崎匡輔文部次官が関係者を呼んで意見を求めたこと、参加者への土産は薩摩イモ二本だったことを、茅氏が書き残している。(註) 茅氏は学術研究会議の幹事も務めていたので、自然に改革のコーディネーターとなって行ったことが、手記から読み取れる。①

文部省の求めで一足早く作られた三組織の代表による改革委員会では、長老学者で構成される学士院の発言力が強く、学術研究会議を解散して学士院に併合する案にまとまりかけた。だが、これをSL委員会経由で知ったGHQ経済科学局顧問のハリー・ケリー博士が不同意で、ご破算になる。文部省が収拾に乗り出し、全科学者の総意を代表する全国的機関として「学術体制刷新委員会」を作り、新たな体制を検討させる大事業に発展する。
註: 山崎匡輔氏は当時、正しくは科学教育局長であり、次官となるのは昭和二十一年一月である(文部省記録)。

全米科学アカデミーが送ったケリー博士

沖縄のように軍政下にはなく、日本国政府による間接統治だったとはいえ、科学界や文部省を一喝できたケリー博士とは、どのような人物なのか。海軍兵学校の物理学教授であったが、第二次大戦勃発で母校マサチューセッツ工科大のレーダー開発チームに加わっている。戦後は大学への復帰を考えていたが、昭和二十年十一月、米陸軍が「日本の原子力エネルギー関連施設と研究者全てを管理下に置け」という統合参謀本部の指令に従って、理化学研究所のサイクロトロンを破壊して東京湾へ沈める事件が起きた。この「蛮行」に全米科学アカデミー(NAS)が驚き、日本の科学崩壊を案じ、適任の科学者をGHQ顧問とするよう米政府に勧告。翌年、派遣された科学者の一人であった。

建前の任務は、教育・研究機関から廃棄すべき軍事器材とそうでない学術器材の区分だったが、仁科芳雄博士を公職追放から守るなど、戦後の学術復興に大いに貢献した。SLの他にもML(医学渉外連絡会)、EL(工学渉外連絡会)、AL(農学渉外連絡会)などを結成させている。これからも分かるように、「ケリーの肝いりで学術会議が誕生した」という表現は一面的な見方であり、「NASの働きかけが無ければ、(ケリーの来日もなく)今の形の学術会議は誕生しなかった」と考えるのが妥当であろう。

東大教授も落選続出の第一回会員選挙

文部省のテコ入れも受けた学術体制刷新委員会は、文・法・経・理・工・農・医の七分野から十五名ずつ、どの分野にも属さない三名を加えて百八名の委員を全国から選び出し、昭和二十二年八月、首相官邸で発会式を行う。科学者を代表して決意を述べたのは、間もなく米国に招かれる湯川秀樹・京大教授だった。委員長は後に東大生産技術研究所長を務める兼重勘九郎・東大工学部教授で、茅氏は副委員長を務めた。

まだ列車旅行も宿泊も厳しい状況だったのに、刷新委員会は毎月の会合を開き、そこへSL、ML、EL、ALや、結成間もない進歩的文化人中心の民主主義科学者協会も新体制案を提出した。これらを討議した結果、学者の代表機関である学術会議、それと政府との中間の機関として科学技術行政協議会の創設が決定され、吉田茂首相に答申した。「押し付け憲法」に較べると、十分審議されたと言える。

二十三年十月、日本学術会議法案が国会を通過し、十二月には前記の七分野から三十名ずつ、計二百十名の構成会員を選ぶ同会議の選挙が行われ、翌年一月に同会議は発足した。二十三年十二月二十三日付の朝日新聞は「これまでの学術研究会議や学術振興会のメンバーに較べると、東大教授に意外な落選者が多く、その反面、私大や民間の学者の進出が目覚ましい」と報じている。嵯峨根遼吉・東大理学部教授も「意外な落選者」の一人である。長崎で、風船玉に縛り付けた米国の友人から嵯峨根氏宛ての手紙が投下されたことがある。「これは君も知る原子爆弾だ。すぐに終戦を上申せよ」と記されていたというほど、国際的に著名な原子核物理学者だった。

第四部(理学)の会員を見ると荒勝文策、茅誠司、坂田昌一、武谷三男、朝永振一郎、仁科芳雄、広尾徳太郎、伏見康治、藤岡由夫、三村剛昂、湯川秀樹の各氏のような物理系が多いが、誰もが働き盛りで「長老」は見当たらず、共産党のスターもいない。「発足当時から共産党介入」というのは、せっかく会員に推挙された文系の三氏が、直ちに代議士に転身したからだろうか。新派刑法学の先駆者でありながら九州帝大法学部教授の職を追われ検挙され、一切の研究活動や教職から締め出されてきた風早八十二、同じく検挙歴のある経済学者の川崎巳三郎、検挙を契機に日本古代史研究家となった渡部義通の三氏は、所属の部会から学術会議会員に選ばれたのに辞退。二十四年一月の第二十四回総選挙に共産党から立候補して当選する。

ただ、当時の国民が共産党を見る目は優しかった。十八年も獄中に繋がれた徳田球一書記長、帝国大学教授でありながら投獄された河上肇氏や向坂逸郎氏は、転向しなかった殉教者として尊敬され、自衛軍の必要性を説いて「押し付け憲法」に抵抗する共産党は、戦地帰りのナショナリストの支持も集めた。前記の総選挙では三十五議席を獲得するに至った。二十六年に山村工作隊などの武装闘争路線を採用したため支持を失い、二十七年の第二十五回総選挙では候補者全員が落選して、党勢は衰退する。渡部氏は、共産党を離れた。

物理学会から推されて会長に当選した茅氏は、二十三年八月から文部省科学技術局長兼東大教授という身分であった。学術会議と文部省との円滑な関係維持に奮闘したが、「GHQ、特に民間情報教育局の強力な圧力の中で行政に当たった。経済科学局のケリー博士の支持で、辛うじて任に堪えた」と記録を残す。①

国際地球観測年の対応に学術会議が動く

地球上で発生する物理的現象を詳しく知るには、できるだけ広範囲で同時に観測したい。そこで、理学分野初の国際協力体制が組織される。まず、一八八二~三年を国際極年として十一か国が北極地域十一か所、南極地域四か所で気象と地磁気を観測。その五十年後の一九三二~三年には、第二回国際極年として三十四か国が北極圏四十二か所、南極圏五か所で気象、地磁気、輻射、極光、電離層、太陽現象、電波伝播などを共同観測。それぞれに日本も国内観測で参加した。

第三回国際極年は、五十年後の一九八三年に予定されていたが、第二次大戦前後の科学技術の急速な進歩に鑑み、二十五年前倒しにして一九五七~八年とすることを万国学術研究会議の後身の国際学術連合会議(ICSU)が一九五二年(昭和二十七)一月に決定した。名称は国際地球観測年(IGY)となり、観測点も極地だけでなく熱帯と中緯度帯も含み、①高層気象②地磁気③極光④夜光⑤宇宙線⑥太陽現象⑦電離層⑧緯度・経度の八項目が重要テーマとして選ばれた。地球全面での観測は不可能なので、大陸や群島が存在する東経一〇度、東経一四〇度、西経七〇度(北半球)と六〇度(南半球)の四本の子午線沿いの地域に、観測点を重点配置することになった。

これらの決定はICSUの相方である日本学術会議に通知されたが、実質的な調整はICSUの下部組織IGY特別委員会が行うので、学術会議も、これに対応するIGY研究連絡委員会を下部組織として発足させた。委員長は長谷川万吉・京大教授、代表幹事は永田武・東大教授で、いずれも重要テーマ八項目の大半を占める地球電磁気学の権威だ。関係者に南極観測の意図はまだなく、東経一四〇度線上の赤道付近での重点的観測を計画したが、南洋群島への立ち入りを米国が認めない。

昭和二十九年のビキニ水爆実験で、米国が立ち入りを拒む理由も判明したが、ここを追われた日本は真剣に南極観測への参加を検討する。三十年七月のパリでの南極会議で、日本は非公式に参加意図を伝える。さらに政府関係への根回しを行い、九月のブリュッセルでの会議で正式に意思表明したが、これは各国の観測点の配置を最終的に調整・決定する場であった。この二か月間、国内調整も難航したが海外からも逆風があり、オーストラリアとニュージーランドは日本参加に強硬に反対し、それに同調せざるをえない英国も反対する。しかし、米国とソ連の後押しで参加が認められ、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、チリ、フランス、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ、英国、米国、ソ連に続く十二番目の参加国となった。

出席した永田氏は、「会場を見渡すと他の参加国はすべて白人国、かつ第二次大戦の戦勝国だ。そしてアジアからの参加は日本だけ。日本が担う責任の重さをひしひしと感じた」と書き残している。② だが、最後の参加国に観測点の選択自由はなかった。与えられたのはノルウェーのプリンセス・マーサ海岸基地(西経二度)からオーストラリアのモーソン基地(東経六二度)までの約一千マイルに及ぶ空白地帯である。最終補給基地のオーストラリアと南アフリカのいずれからも遠く、地形や氷状から接近困難なので敬遠されてきた地帯だ。これらの中間、東経三五度付近のプリンス・ハラルド海岸に観測基地を設けるよう勧告を受けたのだ。

基地選定での不満は残ったが、日本は受け入れた。まだ日本の国連加入も認められていない戦後十年目の秋、日本学術会議は日本政府を代行し、日本の科学陣を国際社会へ送り出すことに成功したのである。 だが案じた通り、輸送には最悪の地域だった。南極観測船「宗谷」の接岸は最初の年こそ円滑だったが、第二回以降は度々難渋し、第二次隊は米国の「バートンアイランド号」の、第四次隊はソ連の「オビ号」の同行を南極入りの最初から要請するほどの難所であった。三十六年に京都で開催された「宇宙線・地球嵐の国際会議」で、まだ見習研究者だった筆者は、IGY会長シドニー・チャップマン・オックスフォード大学名誉教授の秘書を務めた。お陰でブリュッセルでの陰惨な日本イジメの様子を聞き、愕然とした記憶がある。

南極観測へ政府、官僚、学界をまとめる

欧州での折衝に対応し、国内でも日本学術会議は果敢に行動した。同会議は元々、昭和三十年に赤道付近で観測を始めるための特別予算措置を二十九年から政府に要望していたが、三十年に入ると国際地球観測年や南極観測の話題をメディアが伝え始めた。中でも、白瀬探検隊への支援以来、南極に強い関心を寄せる朝日新聞社は、社として船をチャーターし探検隊を送る企画を七月に学術会議へ持ち込んだ。国の機関が新聞社の後押しで事業を興すのも奇異だが、慎重派の学者や政治家への説得に朝日新聞は強力な援軍となった。

学術会議全体だけでなくIGY研究連絡委員会でさえも、乏しい科研費の現状や観測意義への疑問、冒険への危惧や輸送の困難性を理由に、南極観測参加には慎重だった。文部省の科研費全体が十一億円なのに、結果的には南極派遣に国費だけでも八億五千万円が支出され(「宗谷」改修だけで五億円)、これでも不足なので国民から募金したのである。国家予算全体が約一兆円弱だから、その〇・一%を使う事業が飛び込めば政府も当惑する。輸送で期待される海上保安庁も、李承晩ラインでの漁船保護に巡視船四隻を常時配置する状況で、乗員のやり繰りに四苦八苦していた。③

だが、前年から学術会議の会長を務める茅誠司氏は、かなり強引な会議運営で参加を承認させた。ブリュッセルでの日本の南極観測参加表明直後の九月二十九日、同会議は政府に観測実施の具体策樹立を要望し、計画素案も提示する。予備観測を翌三十一年の十二月から、本観測を翌々年十二月から実施したいというのだから、非常事態的な予算要求である。また、「越冬観測は本観測で実施し、設営は朝日新聞の協力を得る」とあるのも異例である。

政府はこれを呑んだ。十月二十四日、根本龍太郎内閣官房長官から田中義男文部事務次官に「南極地域観測実施本部(仮称)を早急に設置し、それを文部省が所管すること」と依命通知した。南極観測参加の閣議決定は十一月四日であるが、それから一年後の三十一年十一月八日、昼夜兼行の突貫工事でエンジンを交換し、両舷にバルジ(膨らみ)を設けて灯台補給船から砕氷船に改造された「宗谷」は、七十七名の乗組員と五十三名の観測・設営隊員を乗せて晴海ふ頭を出港する。平時には有り得ない緊急事業であるが、それを要望し、根回しし、実行したのは日本学術会議であった。要望や勧告だけの学術会議ではなかったのである。

国民的な一大事業に発展

磁気物理学の専門家である茅会長が、岩石磁気学専門家の永田武氏との長い交流から、この新事業を深く理解していたことも推進に幸いした。日本学術会議として参加を決定するや、茅会長は大蔵省の主計官を訪ねたが、「税金の無駄」と一蹴される。一万田尚登蔵相を訪ねて賛意を得たが、経費に文部省の科研費を充てよとの示唆に愕然とする。学者が奪い合う貴重な科研費など使えない。日本学術協会(財団法人)に後援会を設け、各方面に寄付を依頼しつつ、予算折衝に奔走するが、茅氏は事務的な布石も忘れなかった。

十月の日本学術会議第二十回総会でIGY研究連絡委員会とは別個に、より実務的な「南極特別委員会」(南特委)を設け、会長自ら委員長となった。ICSUの南極委員会、文部省の南極地域観測統合推進本部の相方である。国際的にも国内的にも相方・カウンターパートがないと折衝が進まないことを、茅氏は良く知っていた。

茅氏の根回しは人事でも目覚ましかった。アウトソーシングが横行する今日ならまかり通るであろうが、観測基地の設営を朝日新聞社に依存するのは体裁が悪い。そこで日本山岳会、東大、京大、早大の学士山岳会に設営要員の推薦を依頼した。グループの代表に推薦されたのは、東芝社員でありながら戦前に米国陸軍省を訪ねて南極資料を集めるほど南極探検に熱心な京大学士山岳会長老、西堀栄三郎博士であった。設営担当の副隊長として、永田武・観測隊長を支えながら第一次南極観測に参加。事前に選抜した十名の山男を統率し、当初の予定になかった越冬を断行した。

地震や台風と違い、地磁気、電離層、宇宙線等の観測は一般の国民には縁遠い分野であったが、政府が南極事業に踏み切ると、国民の関心はにわかに高まり、一大国民的事業の観を呈した。観測隊の動向も、氷海に閉ざされた「宗谷」の救出も、トップ記事になる。敗戦後、海外での活動が許されない日本国民が、未知未踏の天地で活躍する。それも侵略や征服ではなく、科学の国際協力という形で。敗戦や東京裁判や水爆実験による放射能雨で鬱屈していた国民の心情に、明るい刺激となって共鳴したのである。国民の募金は、朝日新聞社扱いだけでも一億五千万円に達した。西堀副隊長等の山男たちが追う探検活動を、文部省も永田隊長も忌み嫌ったが、国民は越冬隊の探検・冒険的色彩に酔い、オングル島に掲揚される日章旗に拍手した。

防衛庁による南極輸送も主導

「宗谷」の寿命や海上保安庁の空輸能力の限界を勘案し、昭和三十七年二月に第六次観測隊が第五次越冬隊を収容した後、三年間中断した南極観測事業は、海上自衛隊が輸送を担当することになる。新観測船「ふじ」により四十年十一月から再開されたが、新造船の名前を募ると四十四万通も応募があった。

再開後の輸送担当を防衛庁に切り替える計画と根回しは、早くも三十七年秋から始まっていたが、学術会議の一部から、それも南極事業に関係のない分野から異論が出た。学者の世界だから「自衛隊アレルギー」の会員がいても不思議ではない。だが歴代の隊長・副隊長は、「輸送を任せられるのは防衛庁以外にない」と和達清夫・第五期、朝永振一郎・第六期会長を支持した。文部、防衛、運輸、外務等の関係省庁次官会議も、これを支えた。その結果、三十八年八月、学術会議南特委は、恒久観測体制の確立と輸送を防衛庁担当とすることを決定し、引き続き閣議決定となった。

この三十七年秋と四十年秋に第六期と第七期の会員選挙があり、まだ大学院生だった筆者も所属学会を通じて第四部(理学)の選挙人であった。立候補は自由なので、一匹狼の候補が学会長老を弾劾する過激な主張も見られたが、イデオロギー的な論議は少なく、「防衛庁の南極輸送に反対」という主張などはなかった。

この緊要な時期、西堀氏と第二次越冬隊長の村山雅美氏は、南特委専門委員として陸上幕僚監部武器課や防衛庁技術研究本部を訪ね、極点旅行に耐える雪上車設計の調査と根回しを行う。さらに社会党本部に出入りして、外交安保を取り仕切る石橋政嗣、勝間田清一両議員へ自衛隊に南極輸送の任務を与える防衛二法案成立の根回しまで行ったのである。十年後、新雪上車の耐寒性能試験中に、北海道を訪れた西堀氏が筆者に語った秘話である。

参考資料
① 『思い出の人 茅誠司』(茅先生遺稿・追悼文集刊行会、平成七年)
② 永田武著『南極観測事始め』(光風社、平成四年)
③ 鳥居鉄也ほか編『南極外史』(日本極地研究振興会、昭和五十六年)