先人たちが学んだ日本の歴史(二)

藏重昂之/神 職

一 天皇陛下は日本の象徴か

皆さんは社会科、とくに公民科目で日本国憲法について学ばれると思います。憲法が天皇陛下をどのように説明しているか見てみますと、天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。とあります。

この文章をかみ砕いて言えば、「日本国民の全ての意思によって、天皇陛下は日本国と国民統合を象徴する存在とされる」と言えるかと思います。ということは、日本国民の意思しだいで、天皇陛下のお立場を左右できるのだ、とも考えることもできてしまいます。

そもそも、天皇陛下が日本の象徴であることに反対する方もいるでしょう。一方で、「それは違う。日本にとって特別な存在である」と思う方もいるでしょう。天皇陛下に対する思いは様々であると思います。しかし、日本の歴史を踏まえて、賛成あるいは反対の意見を述べることができる方は少ないのではないでしょうか。

では、現在とは異なる歴史教育を受けた先人たちは、どのような歴史を学び、天皇陛下のことをどのように思っていたのでしょうか。そうしたことを知る上で重要な手がかりが、この連載で紹介している『初等科国史』にはたくさん出ています。その一つである「橿原(かしはら)の宮居(みやい)」を見てみましょう。

二 「橿原の宮居」

日向(ひゅうが)三代ののちは、神武天皇の御代であります。雲間にそびえる高千穂の峯から、御恵みの風が吹きおろして、筑紫の民草は、よくなつきました。ただ遠くはなれた東の方には、まだまだ、御恵みを知らない悪者がいて、勢を張り、人々を苦しめていました。天皇は「東の方には、青山をめぐらした、国を治めるのによい土地があるという。都をうつして悪者をしずめ、大神(おおみかみ)の御心を国中にひろめよう」と仰せられ、兄の五瀬命(いつせのみこと)たちといろいろ御相談の上、陸海の精兵を引きつれて、勇ましく日向をおたちになりました。

日向灘から瀬戸内海へ、御軍船(みいくさぶね)は波をけたてて進みました。行く行く御船をおとどめになって、各地の悪者をお平らげになり、また苦しむ民草をお恵みになりました。御稜威 (みいつ)(ご威光)をしたって御軍(みいくさ)(天皇の軍隊)に加わる者も、少くありませんでした。島山の多い内海のこととて、春の朝、秋の夕の美しい眺めが、御軍人のつかれをなぐさめたこともありましょう。こうして長い年月をお重ねになりながら、天皇はようやく難波へお着きになりました。

生駒山を一つ越えると、めざす大和の国であります。御軍は、勇気をふるって東へ進みました。ここに長髄彦(ながすねひこ)という豪族が、饒速日命(にぎはやひのみこと)を押し立て、多くの手下を引きつれ、地の利にたよって、御軍に手むかいました。孔舎衛坂(くさえさか)の戦いでは、おそれ多くも五瀬命が敵の流矢のために、深手をお負いになりました。それほどの激戦だったのです。天皇は「日の神の子孫が、日(太陽)へ向かって戦を進めるのはよくない」と仰せになり、海路、紀伊半島を熊野へと、お回りになりました。しかも、途中の御難儀は、大変でした。五瀬命は竈山(かまやま)お亡くなりになり、悲しみに包まれた御船は、さらに、熊野灘の荒波をしのいで進まなければなりませんでした。紀伊へ御上陸になっても、さらに大和に入る道すじは、山がけわしく谷が深く、まったく道なき道を切り開いての御進軍でありました。しかし、御軍には、つねに神のお守りがありました。熊野では、高倉下(たかくらじ)という神様が神剣をたてまつり、山深い道では、羽ばたきの音高く、八咫烏(やたがらす)が現れて、御軍をみちびき申し上げました。こうして大和へお進みになった天皇は、途中、従う者はゆるし、手むかう者は平らげて、最後に、長髄彦の軍勢と決戦になりました。

御軍人たちは、一せいにふるいたちましたが、賊軍も必死になって防ぎます。またまた、はげしい戦いになりました。折から、空はまっ暗になり、雷鳴がとどろいて、ものすごいヒョウさえ降って来ました。すると、どこからともなく、金色のトビが飛んで来て、天皇の御弓の先に止りました。金色の光は、カミナリよりもするどくきらめいて、賊兵の目を射ました。御軍は、ここぞとばかり攻めたてました。賊はさんざんやぶれました。かねて、天皇に従うことをすすめていた饒速日命は、ついに長髄彦を斬って降参しました。

大和の地方はすっかりおさまって、香具(かぐ)・畝傍 (うねび)・耳成(みみなし)の三山が、かすみの中に、ぽっかりと浮かんで見えます。人々は、よみがえったように、田や畠でせっせと働いています。やがて天皇は、畝傍山のふもと、橿原に都をおさだめになり、この都を中心にして大神の御心を広めようと思し召し、かしこくも「八紘(あめのした)を掩(おおい)て宇(いえ)となす」と仰せになりました。そうして、この橿原の宮居で、即位の礼をおあげになって、第一代の天皇の御位におつきになりました。

この年が、わが国の紀元元年です。天皇は、功ある将士をおほめになって、それぞれ、神をおまつりしたり皇居をおまもりする重い役目にお取り立てになりました。やがて鳥見の山中に、天照大神始め神々を、おごそかにおまつりになり、したしく大和平定をおつげになりました。日本の国は、神武天皇のこうした御苦心と御恵みとによって、いよいよ固くなって行きました。

今、畝傍山の陵(みささぎ)(天皇のお墓)を拝し、橿原(かしわら)神宮にお参りして天皇大御業をはるかにおしのび申し上げますと、松風の音さえ、二千六百年の昔を物語るようで、日本に生まれたよろこびを、ひしひしと感じます。

三 国民の総意とは

神武天皇は、兄君が戦死する激戦の中にあってさえ、敵であっても従うものは許され、さらに「八紘を掩いて宇となす」と宣言されました。これは全世界をまとめて、一つの家のようにしようということです。

敵を憎み、決して許すことなく殺したり、奴隷のようにしたりするのではなく、たとえ敵であろうとも一つの家、すなわち家族となっていこうというのです。これは現代でもなかなか言えず、できないことではないでしょうか。

先人たちは、日本の歴史を学ぶ中で、このような神武天皇のお志を知り、日本が何度も直面してきた困難においても、それぞれの利害を乗り越えて団結し、争いを乗り越えて来られたのは、歴代の天皇陛下が神武天皇の「八紘を掩いて宇となす」というお志を受け継ぎ、国民がそのお志に応えて来たからであることを学んだのです。

ところで、日本国憲法は大東亜戦争後の日本を占領統治したGHQの意向に沿う形で作られたものです。憲法に示されている「国民の総意」に基く天皇陛下のお立場は、この憲法が成立してから八十年足らずの歴史があるに過ぎません。しかし、歴代の天皇陛下と国民が一丸となって、「八紘を掩いて宇となす」ことを目指してきた歴史がなくては、このような空前のお立場ですら成立しなかったかもしれません。上皇陛下・今上陛下ともに、ご即位に際して、この憲法を遵守されると宣言されたことを、私たちは深く考える必要があるのではないでしょうか。

いま、憲法を改めようとする動きが活発化してきましたが、それは感情的な議論によってなされるべきではありません。神武天皇の「八紘を掩いて宇となす」というお志を受け継ぎ、国民と共にあゆまれる天皇陛下を、現在のような不安定な状態のままにしておいて良いのでしょうか。天皇陛下と共に歩んできた先人たちの思いを知り、日本国憲法の下、いまもなお国民と共に歩まれている天皇陛下のお立場を改めて考えれば、わたしたちは、これからも天皇陛下と共に歩み続け、歴史を刻んで行くのだ、という「国民の総意」によって、天皇陛下を象徴から元首へと戻すように、憲法を変えるべきではないでしょうか。