東アジアの文明と日本

 宇山卓栄/著 作 家
注目を集める長江文明

「世界四大文明」という括り方は恣意的に創作されたものです。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明の四つが「四大」などと誰が決めたのでしょうか。それを決めたのは中国の思想家の梁啓超です。梁啓超は一八九八年、変法自強運動で清王朝の改革を進めようとしますが、戊戌の政変で西太后に弾圧され、康有為とともに日本に亡命しました。

梁啓超は自らの詩集『二十世紀太平洋歌』で「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と記しています。梁啓超ら中国の進歩派知識人たちが「世界四大文明」という概念を意図的に広め、中華の優位性を再確認しようとしたのです。

二〇一七年、トランプ大統領(当時)が訪中した際、習近平主席は大統領を紫禁城に案内し、「四大文明の中で中華文明だけが中断なく続いている」と説明しました。「四大文明」は中国にとって、政治的にも利用しやすいツールなのです。

日本でも、この中国式の「四大文明」が教科書のトップに記され、根拠ないものに基づいて、間違った歴史教育が公然となされています。

中国では、黄河文明と共に、長江(揚子江)文明も栄えており、稲作が盛んであったことを示す遺跡が一九七〇年代以降、浙江省余姚(よよう)市の河姆渡(かぼと)遺跡などをはじめ、多く見つかっています。日本の稲作も長江流域から直接伝わりました。長江文明は黄河文明に匹敵するような豊かで巨大な文明でしたが、教科書や一般の概説書では、ほとんど扱われていません。何故でしょうか。

第一に、黄河文明を擁した漢民族こそが中国唯一の文明の発現者であるとする定型的な中華思想の歴史理解の中で、長江文明の存在を意図的に扱わなかった、或いは扱いたくなかったということが背景としてあるでしょう。高度な文明を持つ北方の漢民族が南方の長江流域の「未開の地」を文明化するという構図の中で、黄河流域を本拠とする秦以降の中国の歴代統一王朝が南方を征服支配したことの正当性が強調されます。

第二の理由として、文明には、文字の存在が欠かせないにも関わらず、長江流域には文字の存在がないため、正式な文明として認められないとされてきたことが背景にあります。しかし、これは間違いであることがわかってきています。

インダス文明の印章文字、メソポタミア文明の楔形文字、エジプト文明の象形文字、そして、黄河文明には、甲骨文字があります。長江文明には、こうした体系化された文字がないとされてきましたが、近年、多くの研究や議論の中で、長江文明の文字と見られる巴蜀(はしょく)文字の存在が指摘されています。

巴蜀文字は紀元前二千年頃から紀元前六百年頃まで使われ、百種類以上の文字が今日見つかっていますが、未だ解読されていません。研究者によっては、これは文字ではなく、図符の類いであると見なされていますが、その規則的で組織的な配列を見る限り、文字である可能性が高いとされます。複数の遠隔地の出土品(青銅器や武器)に、共通する巴蜀文字の配列が見られることでも、何かを意味する文字であると捉えられます。図符と文字を組み合わせて、意味を構成しているとも考えられています。

巴蜀文字が文字であるならば、紀元前千三百年頃に使われていた黄河文明の甲骨文字よりも古いということになります。

さらに、巴蜀文字はそのルーツが長江下流域にあった良渚(りょうしょ)文化の文字にあると主張する学者もいます。良渚文化とは紀元前三千三百年頃~紀元前二千二百年頃、稲作で栄えた長江文明を代表する都市文明で、大洪水に見舞われて衰退し、黄河流域の人々により征服されたと考えられています。

『長江文明の発見』の著書でも知られる中国の考古学者・徐朝龍氏は、良渚の文字が都市の崩壊後、遺民により長江中・上流域に伝えられて、進化を遂げ、巴蜀文字になったと主張しています。いずれにしても、長江文明は黄河文明に匹敵する独自の文字文化圏を形成していたと言えるのです。

漢字という文化侵略

巴蜀文字は漢字の最古の祖形である甲骨文字とは系統が異なる言語とされています。かつて、中国の研究者が巴蜀文字は幻の夏王朝文字の生き残りとする見解を示しました。夏王朝は黄河流域を版図にした伝説の王朝で、この王朝で使われていた文字が長江上流域に伝播したと述べられていますが、ほとんど根拠はありません。長江文明の文字を黄河文明の文字の模倣に貶めようとする作為さえ感じます。

元々、黄河流域と長江流域とでは、言語や文化の異なる民族が住んでいました。黄河流域には、シナ・チベット語派の漢民族が居住し、長江流域には、中国語と関係がないオーストロアジア語派が居住していました。オーストロアジア語派は東南アジアのインドシナ半島系の民族と同じです。 気候も大きく異なり、黄河流域は乾燥気候で麦作中心、長江流域は湿潤で稲作中心です。古代において、両者の隔絶は明確であり、異国の異形文字を容易に取り入れる程の親近性はどこにも見られません。漢字を使う人々を漢民族と定義するならば、元々、漢民族は黄河流域にのみ生存していたのであり、この一部の人々を指して、原シナ人と呼ぶことができるでしょう。

長江流域の都市遺跡の多くは紀元前四千年頃のものとされ、焼きレンガの壮麗な建築物を擁する高度な都市文明が形成され、それは黄河文明を凌ぐ先進的な文明であったことがわかっています。このような豊かな都市文明を可能にしたのは稲作農業でした。紀元前一万二千年頃にはじまった長江流域の稲作文化がその後の都市文明へと繋がっていくのです。

教科書や一般の概説書では、中国文明は黄河流域から発祥し、文化や人口が南方にも拡がっていったと解説されます。中心たる黄河流域に対し、長江流域は周辺であったと位置付けられていますが、この捉え方がそもそも間違っています。黄河流域と長江の流域には、それぞれ独自の文明があったのです。

紀元前二千二百年頃、良渚文化が洪水で衰退して、黄河流域の勢力に征服されて以降、黄河文明が優位的となりますが、それ以前は、二つの文明が併存していました。また、北方による征服で、黄河文明の影響力は長江下流域に及びましたが、長江上流域の四川省方面には及ばず、黄河文明の甲骨文字に対して、巴蜀文字が使われ続けたのです。この地域においてだけ、長江文明が維持されます。

しかし、その後、この地域もまた、戦国時代の紀元前四世紀、秦によって征服され、漢字文化圏の版図に組み入れられることになります。

漢字というツールは文化侵略を容易にするため、甲骨文字から高度に発展し、他地域の文字異形を排斥してきました。その支配の力は武力よりも遥かに強く、効果的であることを漢民族はよく理解をしていました。これは明確な文化侵略と言うことができます。

厳格な規則性や多元的機能を持ち、また簡素で習得しやすく、伝達手段に優れた言語が言語戦争に勝ちます。漢民族は文字を発展させることに執着し、漢字は良渚文字などの長江流域で使われていた文字よりも優位性を持ちました。長江文明では、そうした文字への執着や努力が黄河文明ほどにはなかったため、あっさりと言語戦争に敗退したのです。

春秋戦国時代に長江流域で、楚・呉・越などの国が勃興しますが、これらの国の人々は長江文明の子孫であり、元々は長江人ともいうべき、民族の独立性を保っていましたが、文化侵略により、漢字文化圏に取り込まれていき、漢民族に同化していくことになります。

長江文明と日本

長江文明における長江人が長江を下り、海路で日本にやって来て、稲作文化を伝えています。従来、稲作文化は弥生時代の特有のものとされてきましたが、縄文遺跡からも稲作の痕跡が発見されています。いくつかの九州地方の縄文遺跡から発見されたのは昭和三十五年以降のことですが、どういうわけか、今日でも、教科書では取り上げられません。

これらの痕跡により、約三千年前の縄文時代後期には、大陸から稲作が伝わっていたことが判明しており、更に、この時代よりもずっと前に、原始的な稲作がなされていた可能性も指摘されています。

長江文明に見られる高床式の倉庫や水田、住居の構成などが日本の縄文末期から弥生時代の村にも見られるのは、大陸の稲作の影響を受けた例として考えられています。また、長江人と古代日本人の漁の仕方に多くの共通点があることも指摘されています。黄河流域には、こうした生活習慣はありません。

その他にも、長江文明の民が黄河文明の漢民族に追われて、南西の貴州省や雲南省に逃れて、苗族となったとされますが、苗族の子孫の村が日本の古代の村と似ており、急勾配の山地に棚田を作ったり、味噌や醤油などの発酵食品を食べることも日本人と共通しています。日本人が雲南省の苗族をはじめとする少数民族の村で、安らぎを感じるのは同類の文化だからだとも言われます。

日本人は様々な方面からの民族の雑多な混合形であるものの、文明や民族の血ということにおいて、その多くを長江人に負っていると言えます。両者の遺伝子が近似していることからも明らかです。

一方、日本は畑作牧畜の黄河文明からはほとんど影響を受けていません。この時期に、中国の北方から朝鮮半島を経由して渡来人が多くやって来て、日本に文明をもたらしたという教科書や概説書に書かれている従来の説は明らかに間違っています。

もし、稲作が本当に朝鮮半島から伝わったのであるならば、朝鮮半島に、日本よりも古い稲作の痕跡が見つかっていなければなりません。しかし、日本に稲作が伝わった約三千年前よりも以前の痕跡は朝鮮半島では一切、見つかっていません。「弥生の渡来人」なるものが日本に稲作を伝え、弥生時代の文明開花に繋がったなどという従来の説は何の根拠もありません。

朝鮮半島南部で見つかっている約二千年前から約千五百年前の遺跡の水田跡はその方式から見て、九州からの伝来と見られています。しかも、こうした水田跡は朝鮮半島の北部では見つかっておらず、南部にのみ存在するのは、それが北部からやって来たものではなく、南部からやって来たものであることを示しています。

日本の古代稲の遺伝子分析によっても、稲作は朝鮮半島を経由することなく、長江流域から直接、日本に伝来したことがわかっています。大阪や奈良で見つかった紀元前三世紀頃の米のDNA分析を行なったところ、その種の遺伝子型(RM1-a、RM1-b、RM1-cの三種類)は朝鮮半島には存在しないもので、長江流域の種であることが判明しました。

そもそも、黄河文明と日本文明には大きな乖離があります。黄河流域は乾燥し、土地が痩せており、畑作で一度使った土地は使えず、牧畜や狩猟で土地を転々としなければなりませんでした。彼らは自然や土地に対して、エネルギー源を強制的に奪取する収奪型にならざるを得ず、日本のような循環型とは異なります。

一方、長江文明の民は水田耕作と漁撈によって、循環型の定住をしており、長江人が日本にやって来た時、日本の先住民と争わず、宥和的な生活を営むことができ、稲作をはじめとする文明もまた自然に日本の地に浸潤していったのです。

黄河文明と長江文明を明確に区別せず、中国という枠組みで一括りにして、「大陸から影響を受けた」とする捉え方に固執していることが、従来の説のような間違いが起こる最大の原因です。漢民族とは異なる長江文明という独立した文明圏の存在を視野に入れて、日本の古代史を大きく捉え直すことが必要です。