日本の青少年たちへ ― 自分史を書いてみませんか

渡辺利夫 /公益財団法人 オイスカ 会長
経験と経験知

ある年齢になったら自分史を書いてみる。大変に貴重なことだと私は考えます。

文章というのは不思議なものです。それまでの人生の過程で直面したさまざまな経験について、あれやこれや思いめぐらせてもその像はぼんやりしたものでしかないのですが、これを思い切って文章化してみますと、その文章の背後から連想が次々と浮かんでは再現され、書きだす前には想像もできなかったようなストーリーができあがってきます。

私は大学や新聞社などの主催する作文・論文コンテストなどの審査員をいくつか務めてきました。授賞式の挨拶などに引っ張り出されると、次のようなことを生徒や学生たちに毎度のように伝えています。

“君たちは、私などに比べればはるかに若い世代の人たちですが、それでもいろんな経験を蓄積してこられましたよね。家庭、学校生活、海外研修、地域社会活動、その他のさまざま場で経験を積んできましたよね。しかし、そうした経験もこれを文章化しませんと、それらはいつの間にやら、人生のささやかな経験の一つとしてほとんどは忘れ去られていきます。

経験は、これを文章化することによって、はじめて「経験知」となり、これが一つの確かなブロックとなります。別の経験を文章化してもう一つの経験知のブロックができあがっていきます。いくつもの経験知のブロックを積みあげていくと、簡単には崩れない経験知の大きな塊になります。このブロックの塊の大きさこそ、人間が成長したことの証なのではないでしょうか”

さまざまな経験を、本当に自分自身の人生にとってかけがえのないものとするには、文章化がどうしても必要です。経験の文章化を継続すること、これを自分のクセのようにしてしまったらどうでしょう。人間として成長していくには、そういうクセを欠かすことはできないと私は考えます。

「人生量」と「感情量」

人間は喜怒哀楽、さまざまな感情を抱きながら生きています。時に躍りあがらんばかりの喜びに湧くこともありましょうが、逆に胸を塞がれて身動きもできないほどの絶望に陥ることもありましょう。情動といったらいいのでしょうか。人生がこうした感情と無縁であるはずがありません。

普通の人であれば、今日は昨日のように、明日は今日のように、まあどちらかといえば平穏な毎日を過ごしているものと思われます。しかし、時に激しい情動に翻弄されることがあります。私自身にも経験があります。

遠い過去のものであっても、ひどく辛い経験であれば、これがある種の「心的外傷」(トラウマ)となって、長いこと人間を苦悩させることがあります。「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)という言葉を聞いた方もおられることと思います。過去の手ひどい経験が「フラッシュバック」を引き起こして、物事に集中できなくなったり、眠れなくなったりして、感情のコントロールがうまくいかないといったことがあります。

阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件、東日本大震災などを経験した方々の中には、いまなおこの症状に悩まされている人が多くおられると聞いております。新型コロナ感染症への恐怖だってそうなんでしょうね。これだけの長期にわたり恒常的に不安と恐怖にさらされ続けたのですからね。終息後もなおトラウマが居座り、さらに不安と恐怖がよみがえってきて人々を苦しませるのではないでしょうか。

それほど劇的な体験ではないまでも、人は「どうしてあんなことをしてしまったのか」とか「なぜそういうふうにいってしまったのか」とか、小さなことでもぐずぐずと悩むものです。そして、そういう自分が嫌になる、受け入れられない、という気分にさせられることがよくあります。私もそうです。「否定的自我」といえば何やら面倒な表現ですが、そういうことです。「くよくよするな」だけでは到底すまない気分なのです。

これを癒す心理療法などもあるとは聞いておりますが、そしてその療法のことに私が詳しいわけではありませんけれども、過去の苦しく辛い体験については、思い切ってそのことを文章化してみてはどうでしょうか。心の中の「悶々」を心の中に閉じ込めておくと、これはなかなか克服することが難しい。

文章化とは自分を「客体化」することです。「悶々」の感情を文章化してしまえば、書いた人はもうこの悶々を外から眺めるもう一人の自分となることができます。平静な心をもって悶々の事実を眺められるようになるのです。自分の心の中の悶々から解放されるようになるのです。「否定的自我」から「肯定的自我」へと変じていくことができる、私はそう考えます。「魂の救済」といったらいい過ぎでしょうか。辛い苦しい過去について書いている最中は、辛く苦しいこともありましょう。しかし、辛い苦しい経験をその経験のままに書いていくと、書き終える頃には自分の心が随分と軽くなっていることに気づくはずです。

五木寛之さんが、最近、どこかの雑誌に書いておられましたが、“辛い時には辛い唄を、悲しい時には悲しい唄を”というのです。辛く悲しい時に自分を励まそうと明るく楽しい歌を歌っても、元気にはなれません。辛い時には辛い唄を、悲しい時には悲しい唄を歌うことによって、私どもの心が癒される。そういう逆説が真実のように私にも思われるのです。演歌のほとんどが辛く切ない歌です。実は、演歌は「人生の応援歌」なのではないかと私には思われます。

「人生量」という言葉はありませんが、私はあってもいいと思うのです。一人の人間が生涯を通じてどのくらいの「量」の人生を送ったのか。この量は、おそらくこの人間が一生の間にどのくらいの量の感情を抱いたか。私は、この量が多い人ほど、その人の人生は豊かなものではないかと思っています。

「人生量」が「感情量」によって測られるとすれば、それは文章化された「感情表現量」によってだと私は考えます。優れた小説の多くは、感情表現の語彙がみごとに構成されたものだといっていいように思われます。

ここまででいいたかったことは、一つには、文章化によって「経験」が初めて「経験知」となり、これが私どもを成長させていくための「ブロック」となるのだということでしたが、二つには、経験といっても具体的な経験的事実だけではなく、その経験の過程で私どもが抱いた感情も、これを文章化しなければ人生量はそれほど大きなものにはならないのではないか、という私の思いです。

自己と他者

自分について自分が文章を書くわけですが、文章化された自分は、実はもう自分そのものではありません。自分の顔は自分では見えませんよね。鏡という自分ではない他者に映し出してみなければ自分の顔はわかりません。鏡に映し出された自分は、実は本当の自分ではありません。しかし、それなくして自分がどんな顔の人間かはわからないのです。

社会生活において自己を映す鏡とは、他者です。他者とはまったく関わりのない完全に孤独な自己を想像することは難しい。まったくの孤独状態の中にあっては、自分がどういう存在なのか、という自意識さえ生まれてこないのではないでしょうか。

私どもは、他者が自分をどう認識し、評価し、対応してくれるのか、この他者の認識と評価と対応に応じて、自分とはこういう存在なのだと悟らされ、そうして社会生活を送っているのです。私どもは、そういう社会生活の中で自己を形成しつづける存在なのだと思います。自己は自己のみを通じて直接的に確認されるのではありません。自己は他者の目の中に宿る自己を間接的に確認しながら形成されていくものです。

私どもは、母親の胎内で生成し、この世に生まれてきます。私どもが初めて出会う他者が母です。他者であるとはいえ、きわめて密度の濃い「共生的」関係が母子関係です。この母子の共生的関係から少し離れて存在するのが、父親です。母親とならぶもう一つの共生的関係にある他者が父親です。そして、その周辺にこれも多分に共生的な関係にある兄弟・姉妹さらには祖父母がいます。いうまでもなく、これが家族です。

この家族関係においては、自己と他者との関係は、それをみずからは選び取ることができない、そういう意味で運命的なものです。

私どもは、まずは家族という共生的な他者の目の中に映る自己を確かめながら人生を出発させます。人生における最初の他者が家族です。この他者に映る自己は、その後の私どもを待ち受ける、多分に緊張を要する人為的な人間関係に比べてはるかに深い愛に満ちたものです。「受容的」なものだといってもいいでしょう。

家族という他者の目に映る自己が受容的であることを確認し、そうして私どもは「肯定的な自我」を形成していくはずです。逆にいいますと、母子関係、父子関係、家族関係がスムーズにいかず、緊張をはらむものであったりすると、「肯定的自我」の形成が妨(さまた)げられ、逆に「否定的な自我」が増大し、その後の人生の過程で私どもはさまざまな心理的葛藤に悩まされることになりかねません。

幼児期、児童期を経て、少年・少女期、青年期に入っていくとともに、私どもは家族とは異質な他者との人間関係を取り結んで生きていかなくてはなりません。小学校、中学校、高校、大学へ進むとともに、血縁や出身地やその他のさまざまな属性の人々との人間関係の中で生きていかざるを得ないのです。

高校や大学を卒業していろいろな企業、団体などの組織の中で働くようになれば、そこで取り結ぶ人間関係は一段と錯綜したものとなりましょう。そうした人間関係の中でも、私どもは他者の眼に自分がどう映じているかを確認しながら、人生の船を漕いでいかなければなりません。きわめて多様な他者の眼の中に投影される自己を確認しながら、自己の他者への対応を変化させ、自我を確かなものとして形成していかなければならないのです。

「自己を貫く」といえば、なんだか勇ましく、潔(いさぎよ)いことのような響きがあります。しかし、これはとかく単なる自己満足であったり、他者との間に無用な摩擦をつくり出したりして、結局は、その人の人生を不幸で悲惨なものに陥らせかねません。他者の眼に映る自分をつねに理性的に見据え、柔軟かつ自在に自己を変容させながら、人生をしなやかに送るよう努めること、これが真に自立した人間の行動なのだと私は考えます。

さて、自分史のことです。幼児期から児童期、少年・少女期、それから青年期、壮年期を経て老年期にいたる自分史を語る。これは一つの形式として誰でもすぐに頭に浮かぶにちがいありません。この順序にしたがってさまざまな経験や印象鮮やかな出来事、その中での自分の立ち位置、感情などを書き綴っていけば、必ずやストーリーができあがっていきます。そして、それを眺めながら自分を再確認し、次の人生へのスターティング・ブロックとすることができるのです。

血脈を自覚する

「血脈」などという用語は、今ではあまり使われなくなっているようですが、自分史を書いていきますと、おそらく多くの方々がこの観念を呼び覚まされるのではないかと想像されます。この呼び覚ましは、とても重要なことだと私は思うのです。

私も自分の「出生」のことについて何か書き残しておきたいと考えていたのですが、その私に貴重なある材料が手に入りました。この材料をもとに血脈のことについて書いた文章がここにあります。参考のために引用し、そこに掲載した一枚の写真とともに再録します。

「私が生まれ育ったのは山梨県の甲府市です。甲府は四方を峻険(しゅんけん)な山々に囲まれた山国の町です。甲府の我が生家、建てられてからもう五〇年ほど、すっかり老朽化してしまい、いまでは住む者が誰もいなくなりました。廃屋をそのままにしておくわけにはいかない。長兄から相談を受け、この家を解体することにしました。

解体する前に、古びてしまった家具を整理していたところ、二階の奥まったところにおかれている引き出しの中から一枚の写真が出てきました。立派な装丁で、撮影した写真館の名前も刻印されています。台紙の周辺はボロボロですが、写真自体ははっきりと見えます。

この写真に映る九人の血族のうち、一番の幼子が私どもの母親だと長兄から聞かされ、はっと我が胸を衝かれました。裏書をみると、明治三七年一月、山梨県中巨摩郡にて撮影、とあります。中央の軍服姿の男性が、私の母方の祖父です。この祖父が、日露戦争に出征する日の朝、家族の全員を集めて撮った写真です。

祖父の胸には、いくつかの勲章が垂れています。墓誌で確認したところ、祖父は日露戦争の一〇年前の明治二七年の日清戦争にも出征し、その軍功により賜ったものがこの勲章だということがわかりました。祖父が履いているのは草鞋(わらじ)です。出征後、この草鞋で満洲の荒野を転戦したのでしょうね。

日清戦争や日露戦争といえば、明治維新後の日本の興廃を決定した大変に重要な戦争です。しかし、多くの現代人にとっては日清戦争も日露戦争もはるかに遠い昔の戦争で、この二つの戦争が現在の私どもになんらかの形でつながっているという感覚は、もう失われているのかもしれません。でもこういう写真を見ていると、それほど縁の遠いものとも思われません。

左側に座って幼児を抱えているのが、私の祖母です。その幼児が私の母です。祖父の両隣に映っている二人の女の子は、母の姉です。右側の二人の老人が祖父の両親、つまり私の曽祖父母です。後列の二人の女性は、祖父の姉と妹です。日露戦争が勃発した時点で、私の母は出生しており、その母が長じて結婚し、五人の子供を生み、その一人が私です。

この写真を見るたびに私は、私という存在が私という個人のものであるよりは、脈々と連なる血族の中を流れながらいま生きてあるのだ、という実感を深くします」

私の自分史

人生とは経験の積みあげです。経験の文章化は、自分を再確認し、その後の自己を形成していくために欠かすことのできない作業だと先にいいました。

自分史を書く絶好の機会が私にはありました。私は一九八八年から二〇〇〇年まで、東京工業大学で教員をしておりました。退職時には長年の習わしとして「最終講義」というのをやることになります。講義といっても私の授業を受講している学生はもとよりですが、そうでない学生でも教員でも職員でも外からのゲストでも、誰でも参加していいことになっています。

この講義で何を話そうか、随分思いあぐねたことを思い出します。経済学者の私が経済学のことをしゃべってもさして興味をもってくれそうにない。そう予想して私は「センチメンタルジャーニー ――私の中のアジア」と、ややくだけたタイトルのレクチャーにしました。通常はあまり語ることのない自分史を、最後の機会なのだから一回ぐらいはみんなの前で話すのも悪くはないか、といった気分でした。

その最終講義の聴講にPHP研究所の月刊誌Voiceの編集者の一人がきてくれていました。レクチャーが終わったところで彼は、“先生、今日の話、面白かったです。テープにとっておきましたので、それを原稿に起こしますから、朱入れしてうちの雑誌に掲載させてくれませんか”という。嬉しいことでした。“最終講義が雑誌に掲載されることなんて初めてのことだと思いますよ”と後にVoiceの編集長からいわれたことを思い起こしています。

この雑誌論文のタイトルは「私のなかのアジア」でした。これが当時の中央公論の編集長の平林孝さんのお目にとまり、ある日、パレスホテルの喫茶店に誘いだされ、“渡辺さん、この論文にさらにいろいろ書き込んで、一冊の自分史として出版しませんか”といわれました。東京工業大学の定年退職は当時は六十歳。退職後は新たに設置される拓殖大学の国際開発学部の学部長となることが決まっていて、相当に忙しく駆け回っている時期でした。

“お誘いは大変嬉しいのですが、目下はそんな次第でものすごく多忙です。それにまだ自分史を書くのははやすぎるような気もします”と答えたのですが、平林さんは、“渡辺さんは戦争体験もありますしね。安保闘争なんてもう今の若者は知らないんですよ。六十歳がまだ若いなんてことはありませんよ。お忙しいことはわかりましたので、二、三年はおまちします”といわれ、“まあ、なんとかやってみます”ということになりました。

自分史というほどのものではありませんが、自分の人生の断片についてあれやこれや書き連ね、『私のなかのアジア』(中央公論社)として出版してもらいました。平成十六年の一月のことでしたが、当の平林さんがその直前に逝去されてしまいました。執筆を依頼されたご本人が、出版より先になくなってしまい、実に複雑な思いにさせられました。

経験と経験知は、書く人によって文字通り「千差万別」です。私は教員・研究組織にずっといたものですから、研究史というべきものが自分史の中心になりますけれども、これはやや特殊な分野ですから研究史それ自体については記そうとは思いません。書きたいのは、自分がどういう時代と社会の中を生きてきたのかです。

自分史を書くという場合、出生に始まり現在にいたる年表のようなものをつくって、これにしたがい順序だてて書いていくという手続きについては先ほども申しあげました。少年時代、青年時代、壮年時代、現在と大きく三つ、四つの時期を区分して、その中で自分にとって重要であったと思われる経験、その後の人生に与えた経験の意味などを書いてみたらどうでしょうか。一つのストーリーを書いていくと、前にもいいましたが、書く前には想像もできなかったようなことなどが連想されてきて、内容は書いていくうちに段々と濃いものになっていきます。

この論説のはじめのところに書いた私の言葉を、最後にもう一度、引用しておきます。

“君たちは、私などに比べればはるかに若い世代の人たちですが、それでもいろいろな経験を蓄積してこられましたよね。家庭、学校生活、海外研修、地域社会活動、その他のさまざま場で経験を積んできましたよね。しかし、そうした経験もこれを文章化しませんと、それらはいつの間にやら、人生のささやかな経験の一つとしてほとんどは忘れ去られていきます。

経験は、これを文章化することによって、はじめて「経験知」となり、これが一つの確かなブロックとなります。別の経験を文章化してもう一つの経験知のブロックができあがっていきます。いくつもの経験知のブロックを積みあげていくと、簡単には崩れない経験知の大きな塊になります。このブロックの塊の大きさこそ、人間が成長したことの証なのではないでしょうか”