「高氏」標記と平泉博士の「歴史哲学」

村瀬陽一 /有鄰会

昭和七年十二月、「楠木正成の功績」と題し天皇陛下に御進講をなされた平泉澄博士は、昭和八年二月に増刷された『闇斎先生と日本精神』(第六版)に、御進講と深く関係したものと見られる「楠公と日本精神」を掲げ、『中世に於ける精神生活』(大正十五年)から『国史学の骨髄』(昭和七年)までのご著書に見られた足利「尊氏」標記を、「高氏」へと改められました。

平泉博士の「歴史哲学」

平泉博士は、『中世に於ける精神生活』で、日本の歴史を古代、上代、中世、近世、現代の五期に区分し、時代ごとに特有の価値が存することを明らかにされました。これに関し同博士は、「時代によつて不変なる国史の一貫性を強調せんとする前提」(『万物流転』)と指摘されてゐます。博士の研究目標は、時代によつて相貌を異にし流転してゆく歴史的事象の奥底に存在する「不変なる国史の一貫性」を闡明(せんめい)することにあつたのです。

哲学は「消滅変化する眼前の世界の奥に、不変恒常の実在を探る」(佐藤通次博士『哲学についての談話』)ことを指向しますから、平泉史学は「歴史哲学」と密接に関連したものと云ふことができませう。

同観点は、「神皇正統記は一巻の書籍よく国家を支へたるもの、前に遠く建国創業をのぞみ、後に遙に明治維新を呼ぶ所の、国史の中軸である」「歴史の典型は、この国にして初めて之を見る。一いつの精神の開展である。古と今との統一的関連はここに於いて完い」「ここに時を異にし所を異にして、しかも前後相引く所の力、歴史を継承し、歴史を創造する所の冥々(めいめい)の力を感得するのであります。この冥々の力を感得する事こそ、歴史を真に理解する第一の要件であります」(『国史学の骨髄』)等々、森厳で透徹した言説に表現されてゐます。

その御立場は、戦前戦後一貫不動で強い輝きを放ちます。それ故でせうか、同博士が建武中興に叛き奉つた「高氏」を、昭和七年以前に「尊氏」と記されてゐたことを、等閑(なおざり)にして来たのは迂闊(うかつ)でした。

天皇陛下への御進講

昭和七年十二月五日、宮中に召され昭和天皇に対する御進講に臨まれた平泉博士は、同年三月、秩父宮殿下に対する御進講を拝命した際、御母堂に宛て「家門の光彩之に過ぎず」との御手紙を出してをられますから、天皇陛下への御進講は最大の栄誉であり、心中深く期されるものがあつたと考へられます。

平泉博士は、御進講から三箇月(実質二箇月)後の昭和八年二月に発表された「楠公と日本精神」で、「尊氏」を「高氏」へと改め、終生この標記を一貫されました。当問題をめぐり、昭和八年から数年間に発表された論文を掲げます。

① 「楠公と日本精神」(『闇斎先生と日本精神』第六版の附録、前出)
② 「中世に於ける国体観念」(『日本歴史講座』昭和八年九月)
③ 「神皇正統記の成立」「神皇正統記の内容」の二篇(『武士道の復活』昭和八年十二月)
④ 「大楠公六百年祭を迎へて」(湊川神社の要請に応へ執筆、昭和十年正月)
⑤ 「足利高氏名分論」(『建武』第三巻第一号、昭和十三年正月)

このうち、①は御進講から六十余日後に発表されたものであり、御進講に即通するものと拝察します。当論文は「御歴代の天皇の御規範」について論じ、橘曙覧や『万葉集』の歌多数を掲げ、楠木正成の精神に説き及ばれ、形式・内容ともに御進講の趣旨に相応しいと思はれます。

御進講を陪聴した木戸幸一は、楠公の忠義に「感銘」(『悲劇縦走』)されてゐます。改稿で紹介された幕臣川路聖謨(としあきら)の「鎧(よろい)直垂(ひたたれ)の記」は印象深いものです。川路は安政二年、内裏御造営に奉仕した際拝領したお召料の絹布に、菊水の模様を染めて鎧直垂の掛布とし、子孫に楠木正成の精神を伝へる為、「正成を鏡」として役不足を思はず縁の下の力となり御奉公し、「小さな正成」として「日ごとに正成の事業」を為すよう訓戒する「鎧直垂の記」を作つたのです。これは楠木正成の精神が「歴史を貫く冥々の力」として流伝し、明治維新を実現する力となつたことを、抽象的理念としてでなく、史料に基づき明らかにされたもので、強く我等の胸を打つものです。

御進講は、同年十一月の陸軍大演習の実施された大阪府下で行はれる予定でしたが、陛下が御風邪を召されたことにより、遷延され宮中で実施されたものですから、平泉博士は楠木正成の笠置山の行在所(あんざいしょ)における奉答を胸に臨まれたものと思はれ、「正成を鏡」にせよと説く「鎧直垂の記」は、「高氏」標記への転換を迫る一拶として作用したと考へることが出来ませう。

「高氏」と標記すべき理由

平泉博士が「尊氏」を「高氏」へ書き改められた学問上の理由は何であつたでせう。②「中世に於ける国体観念」には讖緯(しんい)説や仏教の末法思想と云ふ、中世を支配した運命論的思想とその影響を解析し、「国体をわきまえず大義名分を知らないのが当時一般の有様であつて、それであつたればこそ、足利高氏などが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し得た」と、中世に特有の時代背景を説き、暗黒と迷妄の思想を超越すべく、天壌無窮の神勅に遡つて建武中興の精神を領導し、明治維新を切開いた『神皇正統記』の歴史的価値を論じ、「逆賊高氏」の文言を帰納されてゐます。

③「神皇正統記の成立」「神皇正統記の内容」の二篇は、②を敷衍(ふえん)したもので、後者で「高氏」と記すべき理由を、次のとほり述べてをられます。

「高氏といへば、普通に用ひらるる尊氏の字を、親房は決して用ひず、神皇正統記に於いては、必ず高の字を用ひてゐるのは、注意を要する所である。いふまでもなく彼は元高氏といつたのを、元弘三年勲功にめでて、後醍醐天皇の御諱の一字を賜はり、高の字を尊に改めたのである。(中略)思ふに高氏謀叛の時、建武二年十一月二十六日、朝廷に於いてその官爵を削られた際、必ずや恩賜の尊の字も奪はれたに相違ない。(中略)建武二年十一月二十六日以後彼は、盗んで之を用ひたのであり、朝廷に於いては決して認められなかつたのであるから、後世の史書にはすべて高氏とかくべきであり、今日普通に尊の字を用ひてゐるのは誤であるといはなければならない」

同旨の御指摘を④「大楠公六百年祭を迎へて」に、次のとほり註書きされてゐます。

「普通に尊氏と書いて居りますが、ここにわざと尊の字を用ゐず、高の字を用ゐましたのは、尊の字は、畏くも後醍醐天皇の御諱の一字であつて、曾て天皇より此の文字を用うる事を高氏に御許し遊ばされたものでありますが、高氏謀反の後には、天皇は必ず之を御取上げになつた事と思はれ、高氏が傲然としてなほ尊氏と名乗り、官軍の中にも叡慮徹底せずして往々にして尊氏と書いてゐるものがありましたが、之は叡慮必ず御不快でおはしました御事と察せられ、現に天皇の重臣北畠親房は必ず、高氏と書いて決して尊の字を用ゐなかつたのでありますから、我々も同様、高氏と書くべきであると思ひます。仮に天皇は尊の字を御取上げになる事はなかつたとしましても、我々臣民としましては、陛下の御諱の一字を、彼の逆賊の名として用うる事は、どうしても忍び得ないのであります」

以上は、「高氏」標記への転換が御進講を起点としたものであることを物語ります。

正統史学としての平泉史学

平泉博士の「高氏」標記への転換は、後醍醐天皇の重臣北畠親房の『神皇正統記』を根拠とします。そこに「高氏」と明記してあるのだから、たとへ、同記の史料が少ないとしても、「高氏」とすべきであるとするのは、感情的漫罵(まんば)ではなく、玉石の混淆(こんこう)を分かつ論理的解釈です。湊川に陣没した楠木正成は、北畠親房同様、逆賊の首魁(しゅかい)を「高氏」と打付けに呼んだ筈であります。

平泉博士は支那事変に突入した年の歳末、⑤「足利高氏名分論」を執筆し、「高氏」標記の史料は少なく、恩賜の御諱剥奪に関する記述を見ることはできないものの、朝廷の発出した複数の確実な史料に「高氏」標記があることを論拠とし、朝廷が天皇の御諱を賊将の名に冠する事態を放置されることはあり得ないと云ふ「道理」が、「事実」によつて証明されたと断じ、当問題に係る③④に含まれる推定の文脈を補強されました。そして同博士は、「我々は必ず高氏と書くべく、決して尊氏と書いてはならないのであります。そこに大義名分が存するのであります」と結語されました。平泉博士の「歴史哲学」の特色は、君臣の大義名分の宣揚にあります。

歴史は空想的な物語でなく、史料を踏まへた客観性が担保されねばなりません。同時に、日本国は神武天皇を起源とする万世一系の天皇を中心と仰ぎ、無窮に展開されるべきものとする、祖孫一体の伝統的信念(先験的主観)によつて持戴(じさい)されて来たのですから、この点を見失ふと日本の歴史は成立しません。

君臣の大義名分と云ふ至高の価値規準を喪失した時、日本国は動揺し、歴史は断絶の危機に直面します。高氏の叛逆は歴史の危機でした。内憂外患の重畳した昭和前期も同様です。平泉博士は国難に対処するため、歴史研究と同時進行で、国民各層に大楠公の精神を説き、国民精神の純化に努められました。建武の問題は、実に令和の問題でもあるのです。

平泉博士は戦後の歴史学界で、「皇国史観」の故に悪罵されました(田中卓博士『平泉史学と皇国史観』)。だが、君臣の大義名分は時代を超えて日本の命脈を維持する必須の要素ですから、平泉博士が大義名分を説かれた故を以て非難されるのは、理由のないことです。

明治天皇は明治二年、東京大学に行幸された際に、修史の御沙汰書を下され「修史ハ万世不朽ノ大典、祖宗ノ盛挙ナルニ三代実録以後絶テ続ナキハ豈闕典ニ非スヤ… 須(すべから)ク速ニ君臣名分ノ誼ヲ正シ華夷内外ノ弁ヲ明ニシ以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ」と御諭しになられました。平泉史学は、歴史学の正統に位置してゐます。

平泉博士の特立独行

平泉博士は御進講を境に、「高氏」標記に転ぜられました。しかし、同博士が早くから同人物を批判されてゐたことは、昭和天皇の御即位の大礼後の昭和三年十一月に執筆された「国家護持の精神」(『国史学の骨髄』)で、「北条にそむいて官軍に降参し、又官軍にそむいて朝敵となつたのは、いづれも武士の風上に置けない奴で、足利尊氏といふのが、その風上に置けない武士の親分」の記述に明瞭です。

では平泉博士は何故、「尊氏」と標記されたのでせうか。一つは文部省の国定教科書に準拠されたことが考へられます。文部省は明治三十六年から、大東亜戦争の敗戦までの間国定教科書を用ゐ、小学校の修身及び歴史教育で「尊氏」標記を続けました。

明治四十三年の大逆事件を機に、「南北朝正閏問題」が紛議されたのを受け、文部省は明治四十四年以降、歴史教科書の「南北朝」標記を「吉野の朝廷」とし、足利が擁立した持明院統系の御尊名を院号で記すやう改めました。だが、「尊氏」標記については修正されず、昭和天皇が御年十三歳で東宮御学問所に入学された大正三年、杉浦重剛から受けられた教育勅語の御進講では「尊氏」の名が用ゐられてをり(所功博士『昭和天皇の学ばれた教育勅語』)、同標記が歴史の公的用語として定着してゐたと云へます。

今一つは、東京帝国大学における平泉博士の恩師であり、同大学における数少ない南朝正統論者であつた黒板勝美博士への配慮が考へられませう。同博士は大正七年発行の『国史の研究』で「尊氏」標記を用ゐ、昭和十一年の『更訂国史の研究』で、建武中興以前を「高氏」、それ以降を「尊氏」と書分けてゐます。「高氏」が御諱の一字を賜った時点における「尊氏」標記は誤りと云へませんが、天皇に叛き奉た後も「尊氏」標記を続けるのは、大義名分上如何なものでありませう。同人は「承詔必謹」の国体原理(憲法十七条)を蹂躙(じゅうりん)した非道な人物ですから、「高氏」と訂正されるべきでなかつたでせうか。

平泉博士は天皇陛下への御進講を機に、「高氏」標記をめぐり、文部省用語や黒板博士の師説を乗越え、特立独行。昭和天皇の御即位の大礼に際し用ゐられた「国家護持」の文言を、『神皇正統記』の「神国護持」の悲願を承けた「皇国護持」へと昇華させ、その大旆(たいはい)を掲げ、昭和の思想史に巨歩を印されました。