皇室とパラリンピック

三荻 祥/皇室ジャーナリスト 

七月二十三日、新型コロナウイルスの蔓延により一年延期されていた東京オリンピックがいよいよ開幕します。そして一ヶ月後の八月二十四日には、パラリンピックも開催される予定です。

さて皆さんは、この「パラリンピック」が、実は皇室と深いかかわりがあるということをご存知でしょうか?

オリンピックと併せて開催されるパラリンピックは、一九六〇年のローマオリンピックの後に開催された国際ストークマンデビル競技大会がその一回目とされています。その四年後、昭和三十九年(一九六四)に開催されたのが、東京オリンピック。もともとストークマンデビル競技大会は、車椅子を使う身体障害者の大会として開催されており、東京オリンピックと併せて行われた大会の際にも、第一部として車椅子での競技が行われました。これに合わせて我が国では、下半身麻痺のみならず、手足や目、耳が不自由な人にも参加してもらいたいとの願いから、独自に第二部を設け、国内の参加者を募りました。

下半身麻痺を意味するパラプレジアの「パラ」とオリンピックの文字をつないで、「パラリンピック」としたこの名称は、実は東京オリンピックの際に生まれたものです(正式名称として採用されるようになったのは一九八八年のソウル大会から)。

障害者福祉にご関心を寄せられて

昭和三十九年に東京で開催されたパラリンピックでは、当時、皇太子でいらっしゃった上皇陛下が名誉総裁をお務めになりました。大会運営委員長・葛西嘉資氏の報告書によれば、上皇陛下は大会の運営をお気にかけられただけでなく、大会期間中は連日会場をご訪問になり、選手たちに激励をされたというのです。

また大会終了後には、東宮御所に関係者を招き、関係者を労(ねぎら)われました。そして「日本の選手が病院や施設にいる人が多かったのに反して、外国の選手は大部分が社会人であることを知り、外国のリハビリテーションが行き届いていると思いました。このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と話されました。

実は、高度経済成長の最中にあった当時、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれる家電ブームが到来するなど、生活は日に日に豊かになりつつありました。

その一方で、障害のある人は置き去りにされ、不自由な生活を強いられていました。今では当たり前となっている路上の点字ブロックや車椅子に配慮したスロープなども、まだ設置されていませんでした。また行政の中には「社会の役に立たない者には国のお金を使えない」との考えもありました。障害者が安全に外出できる環境が整っていなかったために、多くの障害者は家や施設に閉じこもりがちだったのです。障害がある子を育てる母親らにとって、「自分が倒れた後、だれがこの子を看てくれるのだろうか」という不安が重くのしかかっていました。

そのような中、上皇陛下が障害者や大会を支える人々を連日労い、「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」とのお言葉を述べられたことは、障害を持つ人に対する社会の理解を深める大きなきっかけとなりました。

前出の葛西氏らは、上皇陛下のお言葉にお応えするように、翌昭和四十年、岐阜県で開催された第二十回国民体育大会の後に、第一回全国身体障害者スポーツ大会を企画しました。以後、形態や名称を変えながらも今日まで継続されており、スポーツを通して活躍する障害者の姿をテレビなどで見ることは、今では決して珍しいことではありません。また障害者らにとっても「障害があってもやればできる」という勇気と希望を持てるようになったといいます。

元日本身体障害者団体連合会会長の小川栄一氏は、平成二十一年に開催された天皇陛下御即位二十年奉祝中央式典に登壇し、次のように挨拶しました。

「私どもを一貫して支えてくださったのが、天皇皇后両陛下でした。両陛下のおかげで障害者福祉が大きく前進したといっても過言ではありません」「スポーツを通じ、社会参加の支援と、障害や障害者に対する社会の理解が深まったことが、今日の障害者福祉向上の原動力になりました」

障害者も社会で活躍できるようになった背景には、上皇陛下をはじめとする皇室の願いがあったことを心に留めながら、パラリンピックを観戦したいものです。