巻頭言

七月号巻頭言「モーゼの十戒」解説
市村真一 / 京都大学名誉教授 

先月号でタイ国の農民から仏陀の五戒の訓戒を告げられて驚いたことを記したが、そのキリスト教徒の「モーゼの十戒」との類似にも驚かされる。旧約聖書の出エジプト記が記録する十戒を今月の巻頭言に掲げたが、五戒の不殺生戒・不愉盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の最後以外は全部含まれてゐる。社会的混乱と迫害に苦しむユダヤ人集団を率ゐてエジプトを脱出したモーゼの苦難の旅の中で、彼が得た神の啓示とも言ふべきものは、この世の苦難に共通であらう。それが農民の苦労に通じて当然である。

想起する。留学時代、学生だつたヘンリー・ロゾフスキー教授と幕末から明治への日本人の苦労を論じた時、彼が言つた言葉を。「日本人は実によくやつた。しかしユダヤ人が乗越えて来た苦難に比べれば、申し訳ないが、それは“ 泡あぶく”だ、大波ではない。今度の敗戦は、多分中波くらゐの衝撃を日本に残すだらうが、それはユダヤ人の体験に匹敵はしない」と。彼は先の大戦中に、欧州から満洲を経て渡米したユダヤ家族の一人であつた。大陸を股にかけて大移動し、よく民族の団結と信仰を守り続けたユダヤの民の特異なる団結心を思ふ。この一文を草するには猪木武徳教授の教示を得た。