再考 大東亜戦争の開戦と終戦をめぐる決断

永江太郎 /(一財)日本学協会理事 元軍事史学会理事
一 開戦の決断

今年は大東亜戦争の開戦から八十年という節目の年である。戦ひには敗れたが、大航海時代に始まる白人支配の世界秩序を打ち破つて人種差別と植民地を無くするといふ世界史上の壮大な事業を実現した。しかし、日本国民には、敗戦の衝撃の方が遥かに大きかつた。

戦ひをとどめえざりしくちおしき
ななそぢになる今もなほおもふ

この御歌は、昭和四十六年に古稀を迎へられた昭和天皇の御製である。

既に戦後も二十五年を過ぎて、沖縄が返還され経済も復興して「最早戦後ではない」と言はれてゐた時であるが、戦後日本の政治的混迷は、国家基本法である憲法の改正すら出来ないほど根深いものがあつた。その根源は敗戦であると考へられ、それはすべて開戦を止めることが出来なかつた事にあると思はれ、多くの戦死者や戦災による犠牲者が生じた事に対する無念の思ひが込められた御製である。口惜しきといふ御言葉に万感の思ひが感じられる。

日米戦争の原因が、アメリカのルーズベルト政権にあることは、本誌でも度々論じたので、ここでは触れないが、真珠湾攻撃に始まる開戦そのものは日本の決断である。

問題は、日本国内における開戦責任の所在、即ち誰がいつ開戦を決定したのか、である。開戦の法的責任は、帝国憲法の第十三条で「宣戦と講和」は天皇大権の一つに定められてゐる。しかし第五十五条でこれらの国事行為は国務大臣の輔弼によると定められてゐる、しかも重要な問題は閣議決定を要すると規定されてゐるので、開戦の法的責任は東條内閣にあらう。

しかし、開戦の決断に必要不可欠な絶対的要件は、戦争の見通しに関する軍事的判断である。勝利か少なくとも引き分けて講和の見通しがなければ戦争は出来ない。国家の存亡に関はる戦争である、負けるとわかつてゐる戦争は出来ない筈である。その意味では、本当に戦争が出来るのか、開戦して良いのかといふ判断が出来るのは、戦争の推移を見通して作戦計画を立案する統帥部である。

そして日本軍の最高統帥部である大本営は、石油禁輸が始まつた昭和十六年(一九四一)八月以降との協議、すなはち大本営と政府の会議が必要となり、九月六日の御前会議が開かれたのである。

この時、対米戦争の覚悟がないまま開戦準備を進めようとする統帥部の安易な戦争見通しに懸念を抱かれた昭和天皇は、あくまでも外交交渉に万策を尽くすべきであると判断してをられた。そのため、この日の政府と大本営一体の御前会議で「十月下旬に至るも(外交で)我が要求を貫徹し得る目途なきときは直ちに対米英蘭戦争を決意する」といふ開戦を前提とする帝国国策遂行要領が提案された時、昭和天皇は明治天皇の御製を奉読されて、統帥部の対応に不満の意を表明されたのである。

昭和天皇の御懸念と外交優先のお考へは、前日の五日に陸海軍の統帥部長が、戦争の見通しについて内奏した時すでに示されてゐた。参謀本部の作戦見通しを説明した杉山参謀総長が、その甘さを叱責・詰問されて奉答に窮した時、海軍の永野軍令部総長が重病人の手術に例へて救つたのはこの時である。

この内奏の時、陸海軍統帥部が持つてゐた作戦見通しは、初期作戦だけで第二段作戦以降は構想すらなかつた。

陸軍統帥部(参謀本部)が自信を持つてゐたのは、南方作戦だけで十七年夏以降の第二段作戦は、中部太平洋方面の防備強化が必要であると指摘するだけであつた。

特に海軍統帥部(軍令部)は、米軍の本格的反攻が始まる十八年以降には全く自信がなかつた。連合艦隊だけが、真珠湾攻撃の後は短切な反撃で米海軍の戦力を消耗させるといふ考へを持つてゐた。

内奏に陪席して陸海軍の実情を知つた近衛首相は、ルーズベルトとの首脳会談が拒否された事もあつて十月十六日に退陣して、東條内閣に代はつた。その時、昭和天皇から九月の帝国国策遂行要領を白紙にして、外交交渉を優先するよう諭された東條首相は、改めて外交打開の途を模索して対米交渉最終案となるA案・B案を作成し、新たに来栖三郎を駐米大使として急派した。

しかし、米国政府はすでに開戦を決定、我が国も外交交渉の期限を十二月一日午前零時までとして開戦準備を開始したのである。

ここで問題となるのは、陸海軍統帥部が戦争推移について自信がないまま「初期作戦で南方資源地域を占領確保した後は、守勢作戦に転じて自存自衛を図り、終戦は欧州戦局の帰趨に依存する」といふ他力本願の戦争計画を容認して、開戦を決断したのは何故かといふ疑問である。勝ち目をどこに求めてゐたのであらうか。確かに、我が国は開戦せざるを得ない立場に追ひ込まれてゐた。それでも十二月八日の開戦は日本自身の決断だつた筈である。

二 戦ひの原則と開戦の決断

史料だけでは解明出来ないので、改めて戦理の視点で考察してみたい。戦争・作戦に絶対不可欠な要件は「優勝劣敗の原則」である。それは敵に優る戦力即ち総合戦闘力の優越であるが、それをどう考へてゐたのか。この戦闘力には、人的戦闘力と物的戦闘力があり、それぞれに質と量があるが、日米の戦力を比較すると、物的戦闘力は質量ともに米国が圧倒的に優越し、人的戦闘力でも戦時動員力は米軍が優位であつた。勝利を確信した米国が、戦後計画まで作成してゐたのは当然であらう。

米陸軍の参謀本部は、十六年五月には欧州を主作戦とする戦争準備計画「勝利の計画」の策定を始めてゐた。まず人的戦闘力は、人口の一〇%の徴兵を想定して、海軍は百五十万人、陸軍には航空を含めて千二百万人を配分した。終戦までに陸軍が実際に動員したのは八百三十万人で、兵団数も完全装備二百個師団の計画が百十個師団で終結したのである。

支那事変遂行中の日本陸軍の全兵力は、五十二個師団でそのうち三十三個師団が支那、満洲に拘束され、開戦時に南方作戦に配当できたのは十個師団だけで、陸軍が中部太平洋方面の対米作戦へ用意したのは南海支隊(半個師団)だけであつた。

一方の米海軍は、前年七月十九日にスターク作戦部長提案の「両洋艦隊法案」が承認されてゐた。新規に百五十三万トンの建艦計画で、戦艦九隻、空母十二隻、巡洋艦二十九隻、駆逐艦百六十二隻、潜水艦四十七隻の新造が始まつてゐた。現有の百七十万トンを加へると三百二十万トンを超えて、日本海軍の八十四万トンの四倍に達する。 海軍が対米開戦に終始慎重であつた理由であるが、その海軍がなぜ開戦に踏み切つたのか。

三 戦力劣勢な日本軍の勝ち目

優勝劣敗は戦ひの大原則であるが、日本軍は対外戦争では常に劣勢であつた。そのため勝ち目をどこに見出すかといふ視点でこれまで戦つてきた。日清戦争以来の大陸における戦ひは、この視点で作成された作戦計画とその実行であつたといつても過言ではない。そして日本軍が求めた勝ち目は、人的戦闘力である。それも量より質、即ち一人一人の将兵の技術力や精神力などの戦闘能力であり、作戦では桶狭間や鵯越を範とする奇襲であつた。日米開戦の際に各方面の作戦で重視した奇襲を可能にしたのは、あらゆる苦難に耐へて任務を完遂する将兵の資質であつた。

この資質があつたのは、維新後の文明開化の中で、日本文化を旧弊として否定し価値観までも西欧化する社会風潮にあつても、防人に始まる国軍の伝統が、武士道として軍隊の中に生き続けてゐたからである。それが軍人精神となり、徴兵制度の下で庶民の中まで浸透してゐたのである。戦場に死ぬのは武人の本懐であるといふ武士の覚悟は、名誉の戦死といふ意識とともに確実に継承された。

米国の戦史研究者は「ローマの戦士と日本軍の兵士は、この地球上にもう二度と生まれない」と語つたが、正に至言である。

さらに、元寇の故事や旅順あるいは奉天会戦、さらに日本海海戦といふ奇跡的な勝利が、人の力を超えた「天佑神助」を実感させ、「大日本は神国なり」といふ意識を思ひ起こさせてゐた。

開戦時には漠然と抱いてゐた神国意識を確実な信仰的な期待にまで高めたのが、緒戦における真珠湾攻撃やマレー作戦、香港攻略戦などの勝利である。その奇跡的な戦果に幻惑されて、戦闘直後の冷静な軍事的分析と研究がなほざりにされ、慢心と油断が生じてその後の作戦失敗の原因となつたのである。

それでも開戦を決断した本当の要因は何か。戦争の見通しに疑念を抱きながらも、清水の舞台から飛び降りたのはなぜか、といふ疑問は消えない。そこに畏怖心はなかつたのか。開戦の決断に関はつた人々には、悠久二千年の日本の命運が自分の手中にあるといふ恐れはなかつたのか。自分自身の判断や行動の一つ一つが、国家の命運を左右するといふ自覚はなかつたのであらうか。

開戦の決断も、最後は組織に属した個人一人一人の判断の集積であるが、その特定は簡単ではない。当時は衆議の政府であり、衆議の統帥部であつた。その事が開戦責任までも細分化して、開戦時の決断における個人の判断と責任までも曖昧にしてゐたのではなからうか。だが残念ながら、国家の安全を蔑(ないがし)ろにしてゐる我々には、それを批判する資格はない。

四 その後の経緯

終戦の見通しに対する決定的かつ具体的な対応策がないまま開始された初期作戦であるが、すべての戦場で連戦連勝するといふ思はざる結果を招いたのである。戦況の推移に懸念を抱いてゐた陸海軍統帥部が、第二段作戦を検討する頃には奇跡的な勝利に陶酔しきつてゐた。

戦争には必ず終はりがある。いついかに終はらせるかは、開戦時に十分計画し準備されなければならない。そのためには、第二段作戦、第三段作戦が計画され、戦争目的が鮮明にされるべきであつたが、攻略の範囲すら決まつてゐなかつた。豪州攻略論争などで時間を空費する暇はなかつた筈である。現に米軍の反撃は、ソロモン方面やドーリットル空襲で始まつてゐた。

外交面でも、日露戦争で講和の準備に金子堅太郎を米国に派遣した先例は生かされなかつた。元首相近衛文麿公爵や元駐英大使吉田茂などを中立国のスイスなどに派遣しても良かつたのではないか。

我が国の終戦見通しとされるのは、開戦直前の昭和十六年十一月十五日に決定された「戦争終末促進に関する腹案」であるが作文に過ぎず、さらにミッドウェーとガダルカナルの敗北で、日米の攻防が逆転しても、ルーズベルトの無条件降伏の要求が和平の道を閉ざしてゐた。

この間、政府や大本営の中枢部が、唯一期待したのが「一撃講和論」であるが、残念ながら一撃をする戦力を伴つてゐなかつた。最後の本土決戦に至つては目的すら見失つてゐた。少なくとも一億玉砕が目的ではなかつた筈である。この間、一貫して終戦について案じて居られたのが昭和天皇である。

一撃講和の決戦構想が、マリアナ、比島、沖縄と失敗して、ドイツも降伏した後に残されてゐたのは、如何なる条件で降伏するかであつた。この時期に斡旋を頼れるのは中立国のソ連しか残されてゐないとして交渉が始まつたが、最も信用できない警戒すべきソ連に頼つたのである。既にヤルタで米英に対日参戦を約束してゐたソ連にあしらはれてゐる間に、七月二十六日、ポツダム宣言が発表された。

五 終戦の決断

ポツダム宣言によつて、連合国と終戦について交渉する機会が初めて訪れたのである。日本に残された道はポツダム宣言の受諾だけであつたが、ソ連の仲介に期待してゐた最高戦争指導会議は回答を保留する事で合意した。問題は、鈴木貫太郎首相の「黙殺」発言が、無視と誤解された事である。かくして、空しくソ連の回答を待つてゐた最中の八月六日に米軍が広島に原爆を投下し、九日にはソ連軍が全面攻撃を開始した。

最早ポツダム宣言の受諾以外に、選択の余地はなかつた。緊急に開かれた最高戦争指導会議では、鈴木首相がポツダム宣言受諾の意向を表明したが、会議は国体護持の可能性で紛糾した。

昭和天皇の内意を承けた東郷外相は、国体護持だけを条件とする受諾を主張し、米内海相が賛同したのに対し、断固反対したのが阿南陸相と陸海軍の統帥部長である。国体護持の保証として自主的な武装解除、戦争犯罪人の自主的処罰、本土占領の回避の三条件も含めて要求するべきであると主張したのである。

これでは交渉決裂の危険性があるとして東郷外相が反論し、阿南陸相は本土決戦を覚悟しても要求すべきであると主張した。論争は主に東郷外相と阿南陸相の間で行はれたが、真の対立は阿南陸相と米内海相であつた。

敗戦が国家の滅亡である事は、わずか二十余年前の第一次世界大戦で、ドイツ、オーストリア、ロシア及びトルコの四大帝国が消滅した実例が証明してゐる。ポツダム宣言が独立国家日本の消滅を求めてゐるか否かを照会したのが、国体護持の確認であつた。

国体の護持が出来ないのであれば、本土決戦をして玉砕しても最後まで戦ひ抜くといふのが日本軍の決意であり、阿南陸相の主張であつた。陸軍だけでなく海軍の統帥部長が陸相に同調したのはそのためである。

長年続いた陸海軍対立の最後となる、そして最も深刻で決定的な対立が、国体護持をめぐる阿南・米内の論争で露呈したのである。

海軍の終戦構想は、米内海相が十九年八月に海軍兵学校長井上成美中将を海軍次官に起用し、井上次官が教育局長高木惣吉少将を終戦工作の専任に命じた時に始まつてゐた。具体化したのは翌二十年一月からで、宮内省の松平康昌内大臣秘書官長、外務省は加瀬俊一大臣秘書官、陸軍は首相秘書官松谷誠大佐、海軍は前述の高木少将の四者会同が始まつてからであるが、実質的成果はなかつたといつて良い。

それは、海軍側の井上次官の意見が突出、即ち終戦のためには国体(天皇制)護持を犠牲にしても良いとしてゐたからである。天皇制廃止の条件を提示してでも早期和平を実現したいと主張する井上次官に危惧を感じた米内海相は、井上を海軍大将に昇進させて更迭したが、ポツダム宣言諾否の論争が始まつた頃には、井上大将に同調してゐた。自決直前の阿南陸相が、井田正孝中佐に「米内を斬れ」と命じたのは、それが許せなかつたからであらう。

六 ポツダム宣言の意味するもの

最高戦争指導会議での合意は最早不可能になつたので、鈴木首相は深夜の御前会議を奏請し、十日未明にポツダム宣言受諾の御聖断が下つた。外務省は直ちに天皇統治の大権に変更がない事を条件にポツダム宣言を受諾すると返信した。

翌十一日のバーンズ回答は、将来の政治形態は日本国民の意思に委ねるとあつたので、改めて国体護持の懸念が強まり、十二日の会議は受諾の可否で対立が再燃した。この日、危機感を抱いた陸軍省の一部参謀は、陸相の権限である兵力使用計画といふクーデター計画を作成した。

一方の米国でも、現皇統の存続を保証すれば日本が降伏する事は認識されてゐた。米国では早くも十七年二月には、戦後の占領計画を担当する委員会が発足し、八月には特別調査部に対日占領政策を作成する極東班も編成されてゐた。

ブレイクスリーやボートンなどの知日派が集まつた極東班が作成した対日占領政策は、皇統の存続を第一の要件としてゐた。そのため、民主党政権下の国務省の委員会では全く認められず、報告の都度却下された。

情勢が一変したのは、ハルの退任後に前駐日大使グルーが国務次官に就任してからである。グルーは、まず国務省の政策部門の主軸に知日派を起用して、皇統存続を前提とする対日和平案を起案させた。このグルー案は、民主党政権下の国務省内でアチソンなどの国務次官補クラスが猛反対して撤回に追ひ込まれたが、これを救つたのが陸軍長官スチムソンである。元国務長官でホワイトハウスの重鎮であつたスチムソンが提案した、現皇統の存続を明記した提案が、ポツダム宣言の原案として承認されたのである。

その一文を削除したのは国務長官バーンズであるが、その裏には国務省内の反対勢力があつた。皇統護持の容認は、当時の米国では少数意見であつた。やはり阿南陸相の懸念は的確だつたのである。

十一日の日本国民の意思に委ねるといふバーンズ回答は、世論を気にする民主党政権の下では、皇統の存続を認めるといふギリギリの回答であつた。

七 御聖断下る

十二日の会議でも論争は尽きず、合意は不可能になつてゐた。遂に真夜中の御前会議となり、最高戦争指導会議の構成員に全閣僚と平沼枢密院議長を加へ、陸海軍の軍務局長も陪席する御前会議が開かれた。ここでも同じ議論が繰り返されたので、鈴木首相は改めて天皇の御聖断を仰いだ。天皇は本土決戦の準備が不十分である事などを指摘された後、国体護持だけを条件とする東郷外相案に同意された。この御聖断が結論となり、会議直後の閣議では、全会一致でポツダム宣言の受諾と終戦詔書を決定した。

十三日午前七時十五分、ポツダム宣言受諾の返電が発信され、十五日正午の玉音放送で国民に周知された。この間に宮城事件が起つた。問題はその評価である。純情は諒としても、それが未熟な発想であり暴挙であつた事は、当時生き残つた関係者の戦後の生き方が実証してゐる。

終戦の決断は、結局誰にも出来なかつた。すべては昭和天皇の御決断であつた。アジアと太平洋に広く展開して戦つてゐた日本軍が整斉と降伏したのも、昭和天皇の御命令だつたからである。かうして、建国以来の国難の中で、承詔必謹の精神は最後まで失はれず、
君民一体の国柄が守られたのである。

この時の昭和天皇のお気持ちは、次の御製に明らかである。

身はいかになるともいくさとどめけり
ただたふれゆく民をおもひて

国がらをただ守らんといばら道
すすみゆくともいくさとめけり

(追記) 大東亜戦争における昭和天皇の情勢判断と戦争指導について、東條首相は「御上は神格であらせられる。我々は人格である。我々臣下としては、いくら努力しても人格の域にすぎない」(『東條内閣総理大臣機密記録』東京大学出版会)と秘書官達に語り、大本営陸軍部の最後の作戦部長宮崎周一中将も、昭和天皇の的確な情勢判断について「皇祖皇宗ノ神明ヲ継カセ給フ陛下ノ御心鏡ニハ神ノ御心カ其侭映シ給フト拝察ス、臣下ノ輔弼ハ即チ陛下ノ御心鏡ニ曇リヲ懸ケマジキコト」(『宮崎周一中将日誌』錦正社)と述懐してゐるが、陸海軍中枢部の幕僚達は、敗戦が現実となるまで、それが理解できなかつたのである。