『海軍少佐黒木博司遺文集』に学ぶ

  所  功/京都産業大学名誉教授 

未曽有の「大東亜戦争」が敗戦という形で終結してから七十五年の昨年、我が国は「コロナ禍」のパンデミック(世界的感染流行)という新たな戦争に直面して、官民ともに右往左往、戦後の利己的・無責任な在り方に深刻な反省を迫られている。

そんな世情の変転とは無関係に、数年前より着実に準備されてきた貴重な資料集(以下、本書という)が、昨年(令和二年)十一月に出版された。

その元になった原稿の大半は、たまたま半世紀余り前の院生時代に借覧したことがある。しかし今回、丹念に翻刻し懇切に写真や小伝などまで付載された本書を精読して、あらためて多くのことを教えられた。

そこで、読書メモのうち、海軍士官となられるまでの生い立ちを中心に、要点を紹介させていただこう。

尚、( )内の注記年齢は、生まれた年を一歳とする数え年でなく、満一歳の誕生日以前も正月から一歳として記すことにする。

一 本書の構成と本文の要点

本書(A五判全六六六頁、クロス上製本)は、ⓐ口絵写真三十四葉、ⓑ平泉隆房氏(金沢工業大学教授)、永江太郎氏(日本学協会理事)と黒木尚之氏(黒木病院々長)の「序」、ⓒ本文(第一篇「回顧と立志」、第二篇「海軍士官への道」、第三篇「配置と志願」、第四篇「皇国護持の道」、第五篇「殉職」、およびⓓ「海軍少佐黒木博司小伝」、ⓔ「略年譜」、ⓕ「索引」、ⓖ「編集後記」から成る。

このうち、まず口絵にみえる少佐の面影は、凜々(りり)しく優しい美青年、少しも威張った感じがない(別掲の家族写真参照)。もし時代が異なれば、父君や兄上のような名医となり、世界に雄飛されたかもしれない。しかし、それ以上に胸うたれるのは、カラーで掲載された二十葉の「血書」であり、ここには戦国武将をも凌(しの)ぐ決死の覚悟が漲みなぎっている。

ついでⓑのうち、平泉教授の序文では、一見意外と思われるかもしれないが、先の大戦では、「日本側には重大な過誤があつた」「己自身が溺れかかってゐながら、大東亜共栄圏また大東亜会議といふのには、どだい無理があつた。これらは政府が戦争指導の本質を見誤つたもの、と祖父平泉澄は当時よりみてゐた」ことが、明らかにされている。

このような認識は、開戦前後の少佐自身も、たとえば昭和十六年(二十歳)五月二日、兄(二十四歳)宛て書簡に「もつとも心配悲憤に不レ堪は……政治思想を考慮する当局、責任の者が……悲しいかな、恐ろしいかな、国体思想が成つてゐないことに有レ之候。」と批判し、また同十八年十二月二十七日、原田周三中尉宛ての書簡に、「当局者の不必要の敵侮蔑軽蔑と、事大的治安維持観……は大いなる誤り」と鋭く指摘している。

ただ、それにも拘わらず、否むしろそうだからこそ、二十二、三歳の青年士官が、「人間魚雷回天」という「必死必殺」の特殊兵器を創案し、海軍首脳を説得して、実働に至らしめられたのである。その背景と経緯は、永江氏が序文で懇切に解説されている。

さらに、黒木尚之氏の序文(昨年七十三歳)により、平成二十九年(二〇一七)九月の楠公回天祭で講師を務めた古村博文氏(当時六十七歳)から、遺族当主の同氏に本書出版の諒解と資料提供の依頼があったこと、それによって同家で「叔父(少佐)の小学校時代の絵画・習字と多くの写真」も一緒に見つけられたこと、また「教子(のりこ)叔母(少佐実妹)の言葉どおり、「兄は人を笑わせることが上手」であったことなども紹介されている。

二 小学校六年間の「回顧」文集

本書ⓒ本文は、吉岡勲氏(少佐より七歳年長、岐阜県郷土史家)の手で、殉職直後より「少佐の遺文、関係文書」および「戦友等から寄せられた書簡等を二十数冊に筆写した」ものを主要な底本としている(吉岡氏が筆写ノートを自ら要約し解説した『ああ黒木博司少佐』は昭和五十四年に刊行されている)。

このうち、少佐自身の文章、家族・恩師などとの往復書簡など(約三百五十点)を年代順に配列し、遺族などから提供された写真を随所に組み入れて仕上げられたのが、ⓒ本文(五百八十頁)である。その全容を理解するには、本書の代表編者である古村博文氏と盟友の横山泰氏により共同執筆された詳細なⓓ「小伝」とⓔ「略年譜」を、先に読まれた方が判り易いと思われる。本稿においても、ⓓⓔを参照しながら、少佐の人柄と思想などを知る手掛かりとみられる遺文の一部を抄出しよう(以下、敬称略)。

黒木博司は今から百年前の大正十年(一九二一)九月十一日、岐阜県の下呂村(のち市)に父彌一(二十九歳)と母わき(二十七歳)の次男として誕生した。

四歳上の兄寬彌と五歳下の妹教子がいる。この関係は、博司の最も尊敬した吉田(杉)松陰の場合も、二歳上の兄梅太郎と二歳下の妹千代(他に歳の離れた妹二人と弟一人)がいて、三人の仲がとても良かったことに通底するとみられる。

ただ、父彌一が山梨県の棡原(ゆずりはら)村医となったので、小学生時代は棡原で育った。その六年間をまとめた詳しい「回顧」文が、なかなか面白い。

たとえば、昭和三年(一九二八)、一年生(七歳)の時に、先生から「一番偉い人は誰か」と問われた際、「天皇陛下」と答えている。二年生になると、「新入学生よ、よく先生の言付を守り、早く枝を出せ、木になれ、実を結べよ」と兄貴ぶり、三年生の時、友達と「猛烈な格闘」をして「柔道初段だ」と自慢している。

ついで満州事変の起きた四年生(十歳)の時、棡原から出征したY氏に実家の写生と激励の手紙を戦地へ送った。五年生から「テニスに熱中」し、兄と「設計競争」で負けると「くやしさから……将来きっと立派な発明家になって見せるぞ」と張り切っている。

さらに六年生の秋(十二歳)、「棡原から郷里へ戻り、翌春、下呂小学校を卒業するが、その文集『菊の花』に五番まである詩を作り、「あゝ麗しき日の本の、この誇りある我等の祖国、守り立てるは我等のつとめ、いざやはげまんもろともに」と結んでいる。

三 岐阜中学校五年間の家族との書簡

岐阜中学校(現在県立岐阜高校)は、岐阜県随一の名門である。その岐中へ昭和九年(一九三四)に見事合格した博司(十三歳)は、家族との文通を多く残している。

たとえば、二学年の四月、兄寬彌(十八歳)からの来翰に「冷水乾布摩擦は今後も必ず続けろよ」とある。また三学年(十五歳)の四月、母わき(四十二歳)からの来翰では、「勤勉・誠実・忍耐・勇気・自治を胸に納めて、良き人、立派な人になりなさい」「如何なる時、事にも落ちつかねばなりません」「自己の胸に聞いて恥ずかしく無い事は、他人が何と言っても問題にせぬ事」「体が丈夫でないと希望は遂げられませんから、体を大切に」と懇切に諭している。

それに対して、博司からの書簡には、兄宛てに「射撃部」で頑張っていることなどを報告するだけでなく、昭和十二年(一九三七)、四学年(十六歳)の「支那事変」勃発後間もなく、「雄叫歌」を作って「……悲歌慷慨の丈夫が 皇国 (くに)を念ふて起つときは 人生短く名長し/望洋」と詠み、また父上(四十五歳)からの葉書にあった「お前は勉強が戦争だよ」との忠告を「机上に大書して気を引き締めてゐます」と伝えている。

さらに五学年(十七歳)の八月に受験した海軍機関学校から合格通知の届いた十一月二十日、「……天皇ノ股肱タランコトヲ志ス……庶幾(こいねが) ハクハ神明皇国ヲシテ無窮タラシメヨ/黒木統宇」と画仙紙に墨書している。これらによって、在学中から志願した海軍士官への道が拓(ひら)かれた当時の決意と理念を窺うことができる。

四 海軍士官の懸命な鍛錬・献策と殉職

以上の抄録は、ⓒ本文のⅠのみで、全文の一二%弱にすぎない。少佐の本領は、これ以後の六年次以内にある。その間に交わされた家族(父・母・妹)、および数名の戦友と唯一の恩師〈平泉澄博士〉との膨大な書簡、さらに海軍首脳への嘆願血書と殉職時の遺書などが、本文の大部分を占めている。

従って、二~五篇の抜き書きは、到底紹介し切れない。この最も重要な部分は、読者各位が丹念に目を通されるであろうから、ほとんど省かせて頂く。ただ、今回特に感じ入った海軍機関学校中の昭和十六年(二十歳)の書簡二通を引用しておこう。

その一つは、前年八月、上京して平泉博士から直接お教えを受け、視野を広め学問を深めた少佐が、半年後の二月に作成した「国家大系」図(別掲)である。これを父上(四十九歳)宛ての書簡に載せ、「精神と科学の両部面の造詣を極め、専一国家学を考究し、以て国家隆昌の大系を明らめ、以て皇国の永遠無窮を確証せん」と説明されている。

この「国家大系図」を八十年後の私共は、どのように解き明かすことができるだろうか。

もう一つは、「大東亜戦争」勃発四日後の十二月十二日、兄上(二十四歳)宛ての書簡である。この中で、まず戦況の進展について、「長期に備へて精神力が如何に維持せられ得るかが、此の聖戦の重大なる決」と見通し、ついで戦争の本義について「聖戦たる所以は……道義の確立、分の確立に有之……分とは義にして、義の露(あら)はれが道なるべく、君臣・父子・兄弟・夫婦・るから、もし「自由共栄の観念を以て大東亜戦争の運行を処理」すれば「西洋的自由思想の成果に抱き込まれて……皇国体を傷(そこな)ふ」と記されている。同年末の両親宛て書簡にも、「何が世界の(に)永遠の平和をもたらすか……世に道義ありて各々分定まりて、所に安んじ其の天賦の天命を生長せしめ得候こと、是即ち真の自由と存じ候」とみえる。

この鋭い指摘も、八十年後の現在、コロナ禍のような世界的新脅威を、どのように受け止めて、どのように乗り越えていくかの有力なヒントになろう。

いかなる状況であれ、君民も家族も一体となって、お互いに思い遣り助け合うような古来の在り方は、個々の人権を楯に取って争うような近現代の在り方よりも優れているとすれば、社会に「永遠の平和」と「真の自由」をもたらす可能性が高いと思われる。

五 楠公回天祭の励行と本遺文集の刊行

昭和十九年(一九四四)九月七日午後二時、徳山湾で訓練中の「回天」一型一号艇内において絶命した「海軍大尉黒木博司」〈殉職後に少佐〉は、僅か二十三歳で生涯を終えられた。しかし、その英魂慰霊も事績解明も早くから行われ、令和の今日に至っている。

とりわけ重要なことは、まず少佐の敬慕してやまなかった平泉澄博士が、同二十年五月、黒木家を訪れて筆写した遺品のメモに基づいて『慕楠記』を著された。ついで少佐を敬仰する岐阜市の吉岡勲氏が、終戦前後に独力で関係資料を集成し刊行された。さらに同三十九年(一九六四)九月、少佐の郷里下呂の信貴山上に全百四十五柱を祀る「回天楠公社」が創建され、第一回の「楠公回天祭」が斎行されている。

このような慰霊祭は、早くから計画されていたが、黒木家の御遠慮により先送りされてきた。父彌一氏は晩年(昭和三十二年逝去、六十五歳)、「許しませ人(戦友)の魚雷に散りませし もののふの親 和子(わこ)(博司)にかはりて」と詠んでおられる。また母わき様も、晩年(同四十七年逝去、七十七歳)、「いつも心に思ふことは、回天に搭乗し、博司の後に続いていつた百三十一名(その後さらに十四柱追認)の英霊の……ご家族の方々が……博司のことを恨んどりゃせんかといふことが一番気にかかり」と語っておられる。

しかし、平泉博士と御遺族との深い信頼関係により始められた「楠公回天祭」に参詣された多くの御遺族も戦友たちも、黒木少佐に感謝して遺志の継承を口々に語られた。しかも、その席で博士(六十九歳)から次回以降の地元幹事を委任された稲川誠一氏(三十九歳)が、同志の村瀬一郎氏(三十九歳)および下呂町(のち市)有志多数の協力をえながら、この例祭の準備と実施など誠心誠意尽力して来られた。さらに、それを両氏の教え子(大垣市の橋本秀雄氏や各務原市の横山泰氏など数名)が受け継ぎ、今に至っている。

その間に平成二十六年(二〇一四)、橋本氏が責任者となって『楠公回天祭五十年誌』(A五判四七四頁)を刊行した。その上、このたび古村博文氏の熱誠と、横山氏などの献身的な協力によって本書が刊行された。これによって、本年九月二十二日に生誕満百年を迎える黒木博司という英傑の実像を解明する基本資料が、一般に提供され後世まで伝承されるようにして頂けたことは、まことにありがたく感謝にたえない。

この英傑が幼少期から青年期にかけて、抜群の見識を培い決死の秘策を実現しえたのも、家族・師友などの教えを素直に受け入れ、真剣に励み続けられたからであろう。それは平凡な私共では及びもつかないが、本書から学びうることは極めて多いにちがいない。

『海軍少佐黒木博司遺文集』
A5判 666頁 クロス装 令和2年11月3日刊行
頒 価/6000円(税込+郵送料520円=6520円)
申込先/海軍少佐黒木博司生誕百年記念委員会 橋本秀雄
FAX/058ー491ー2478 E-mail hahideo@nifty.com