楠公楠木正成が遺したもの・後世に伝え続けるべきもの

齋藤 仁 /元公立学校校長
一 生得の人間の知恵や情を奪う理知主義・合理主義

私は人間として小林秀雄を尊敬していますが、彼は名著『本居宣長』の中で『今昔物語』の説話を取り上げているので、その話から始めたいと思います。都の明法(みょうぼう)博士の家に強盗一味が押し入りましたが、隠れて黙っておれば良いものを、強盗が出る時後ろから「検非違使を遣わしてお前を召し取らせるぞ」と声をかけて、戻ってきた強盗に殺されたというもので、明法博士は「才ハメデタカリケレドモ、ツユ、大和魂ナカリケル者」と作者に酷評されています。

明法博士という現在なら東大教授クラスの学者でしょうが、大和魂が無かったために、この場合の大和魂とは明治維新頃唱えられたやまと魂ではなくて、“昔からの日本人が自然に抱いていた精神”をいうようですが、その博士は「カカル心幼キ事ヲ云テ」命を縮めました。

小林秀雄は本居宣長の「大和魂」を説明するためだけにこの話をしたのではありません。彼は大東亜の戦争が終わって二年後に行われた本多秋五、小田切秀雄等の評論家との座談会で、平野謙から「あの戦争のことをどう思っているのか」と詰問されました。

それに対して小林秀雄は「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ起らなかったか。僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と語って、「才アリテ大和魂無キ評論家タチ」を一刀両断に切り捨てています。

現職の頃、先生方にこんな例え話をしたことがあります。「火事だ、逃げろ」という非常時に、子供たちはどの先生の指示に従うか。瞬間の判断が生死を分ける場面では、子供は持てる智恵のすべてを使って一番頼れると思う先生の指示に従うでしょう。学歴の高い先生でなく、知恵や胆力があると思う先生を選ぶでしょう。それが人間に本来備わった智恵です、と。

数学者の岡潔は「人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じる。これが日本人です」と語っています。日本人は昔から理知的・合理的にヒトやモノを評価することの危さを知っていました。生得の人間の知恵を奪っているのは理知主義や合理主義です。それが現代人の精神や魂を安住させないのです。

楠木正成公は才が立つ人を相手にしなかった人だと思います。鎌倉方の武将は戦の知識経験に奢(おごり)、己の利欲や安泰ばかりを考えながら行動した。正成公はその心理の裏をかいたと言えます。鎌倉の執権から誉めてもらいたい、知行地を増やしたい、兵力を温存したいという武将たちの心理の裏をかいた。

小林の語った大和魂とは「自然を畏(おそれ)み、人の思いを察する、人・自然のどちらにも同じ感受性、情緒で対応して理解・把握する」。そういう動きかと思います。

二 孤独な群衆=居場所が見つからぬ現代人

孤独でやりきれない、結婚もできない、家庭に在っても孤独を感じる、そんな人生相談が増えているようです。物が豊かになり生活が便利になり、それでも心は満ち足りない。足りない何かを知識に、言葉に求める。その原因はどこにあるのでしょう。

(1)グローバル化の問題

グローバリズムの視点からみると、国家間の貧富の格差、国内の人々の貧富の格差など様々な対立が激化しています。人がモノとカネを求めて移動するのは自然な行為です。明治初年の三千万が、今日の一億二千万人へと日本の人口も激増しています。モノとヒトの累乗的な増加と変化に私たちの意識がついていけなくなっています。共同体が崩れ地域社会が崩壊し、家族もバラバラになり地元を離れ国を出ていく。各地域の伝統的な文化や価値観が崩れ、大都市には職を求めて国外から人が押し寄せる。慣れ親しんだ生活空間を失うことは心の居場所を失うことです。日本だけでなくアメリカでもヨーロッパでも、居場所を失った孤独な群衆が激増しています。

(2)歴史認識を喪失した日本人

わが国の場合、世界に共通するグローバル化のほかに、もっと深刻な問題を抱えています。それはGHQによる日本の伝統文化、社会制度の破壊です。昭和二十年まで築いてきた明治からの八十年に及ぶ流れを全部間違っていた、日清・日露戦争は侵略戦争だと明治維新後の歴史を全否定する戦勝国の歴史観を戦後七十余年たった今も盲信している学者や知識人がいます。

F・ルーズベルト大統領は日露戦争の終戦の仲介をしたT・ルーズベルトの一族で裕福な家庭の一人っ子でしたが、独善的な自信家で、アジア人や日本人に対して強い人種的偏見をもっていました。彼は英国公使キャンベルに、「アジアで白人の人種交配を進める。ただし日本は除外し元の島々に隔離して次第に衰えさせる」と語っています。そして日本が切望した交渉も延ばし、輸出入ともアメリカ頼りだった日本を「座して死ぬか、戦って死中に活路を見つけるか」という瀬戸際へと追いつめました。ルーズベルトにとって真珠湾は対日戦争の最終段階であり、あとを継いだトルーマンは「戦争の仕上げ」として原爆投下を命じたというのが歴史の真相でしょう。

開戦に至ったそんな事実も知ろうともしない戦後の日本は、広島・長崎で二十万を超える市民を焼殺されながら「過ちはふたたび繰り返しません」と慰霊碑に刻んで死者の御霊に捧げています。「才」は優れても、「心幼キ」日本人ばかりになってしまったようです。

戦後日本の苦しみのもう一つは、対立する二つのイデオロギー「アメリカの自由主義」と「ソ連の社会主義」が、メディアや教育界・労組等を通じて同時に浸透したことです。アメリカ型の自由放任とソ連型の共産・平等という二律背反の価値観に国民は戸惑うばかりで、アメリカの自由が弱肉強食社会を意味し、ソ連型の平等がスターリンや毛沢東の下で、万民が等しく貧しい生活を送ることだとは知りもしませんでした。

政府も国民の精神再生よりも経済再建を優先させ、終戦からわずか二十年余りで敗戦国日本は戦勝国のイギリスやフランス、ソ連も抜いて世界第二位の経済大国になりました。

しかし、高度経済成長は地域共同体を物理的に破壊させました。モノが豊かになり「何でもできる」はずに気づいたら「何をしても満足できない」精神状態に陥っていました。社会が分断され、漠然とした不安感の中で何を生きがいとし、どこを居場所とすべきか解らなくなってしまったのです。「大人になり切れない、何も決められない」。ピーターパン症候群やモラトリアム人間という言葉が流行しました。

「神様に手を合わせたか?」「仏さまに線香を立てたか?」。多くの家庭でそれが消えた。ご飯の食べ方も叱られなくなった。束縛しないことが本当に子どもの将来の幸せにつなるのか?伝統文化の崩壊がもたらした一つの結果です。

「傍らに家族や友達がいても、癒(いや)されない孤独があります。自らの生の証(あかし)をいかにしてこの世に残すか?その答えが見つからないかぎり、モノの溢れた時代に生まれても、私たちの魂は居場所を求めてさまよい続けます。「親の墓をどうする?」「自分の死後はどうする?」。

そこで初めて人は己の孤独を直視し、魂の安住する場所を探します。「人もなきむなしき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」と古の歌人大伴旅人も詠んでいます。

(3)孤独からの脱出

孤独には人に会うだけで解消される孤独と、親しい人がいても癒されない孤独の二つがあります。癒されない孤独の背景には生・老・病・死といった人間が逃れることのできない根本問題が影を落としているでしょう。お釈迦様も魂の居場所を求めて出家しましたが、魂の居場所を確定するとは死して悔いなき思想哲学を構築すること、死に至る己の生き方を覚悟することです。

「生きる覚悟、死ぬ覚悟」を確立したとき、人は精神の自由を手に入れます。その後の生き方を自分の意思で判断できる人になります。助っ人もサポーターもいらない。まさにお釈迦様のように孤独を直視して、「死んでも構わない」という境地に至ったとき、私たちは精神の自由が得られます。「行く末に宿をそことも定めねば踏み迷ふべき道もなきかな」。入水自殺を図ったこともある一休禅師の歌です。

戦争末期、特攻隊の方々はいつ死んでも構わないという覚悟をさせられました。しかし「させられた」という言葉は他罰的な意味でなく、いつの時代でも我々は運命的に「させられる」のです。いつ、どこで、誰を親として生まれるかも知りません。 時代や環境という宿命があるから自分の運命を切り開けないというのは、私たちが頻用する言い訳です。過酷な時代に生きた人々は、運命に抗(あらが)うより進んで受け入れることで、己の自由意思ここに在りの気概を示してきまた。

(4)楠木正成公と聖徳太子

楠木正成公は自ら進んで後醍醐天皇を奉じました。「させられて」幕府軍に加わった武士たちとは覚悟の大きさが全く異なります。楠公さんは高貴なお方から請われて馳せ参じたのです。しかも鎌倉幕府が倒せる見込みは極めて小さい。討幕より先に己が死ぬ可能性のほうがはるかに高い。すごい覚悟を持っていた方です。覚悟を決める時、人は孤独になる。本当の孤独とは自分で自分の在り方・生き方を決める時です。その時の精神と覚悟が本物であったら、その精神その生き方は必ず子孫に伝わります。そこまで透徹した思想を正成公は持っていたと思います。

では楠木正成公は誰の影響を受けて、そのような生き方・覚悟を決めたのでしょう。私は正成公の人格に聖徳太子の影響を強く感じます。大和川の下流に四天王寺が建立され、大和川を上って遣隋使一行は飛鳥の地に来ています。太子の時代、大和川は都と瀬戸内海、さらに大陸を結ぶ重要な道で、流域周辺には太子伝説が色濃く遺されていました。正成公は太子信仰の色濃く残る土地で生まれ育っています。さらに鎌倉時代に聖徳太子を深く敬愛する親鸞が現れたことで、太子伝説は浄土信徒を中心に再確認されています。北条泰時が制定した五十一カ条の御成敗式目も、太子の憲法十七条にあやかったものです。正成公の堅固な思想に影響を与えた人が、太子以外にいるのでしょうか。

むしろ、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書いた太子の気概、十七条の憲法の第一条を「和を以て貴しとなし」とし、次に伝来の「仏教」そして「天皇の詔」を大切にせよとした太子の心根の深さなど正成公と似たものを強く感じます。さらに妃膳部大郎女(かしわでのおおいらつめ)が薨去された翌日に崩御されたという太子の伝承も、正成公の死生観に大きな影響を与えたように思われます。

足利勢が九州に落ちたとき、正成公は同じ宮方の新田一族を捨て足利方との和睦を後醍醐天皇に薦めたと『梅松論』に書かれています。敵の足利勢が新政府に入れば新田氏だけでなく楠木氏の地位も当然下がりますが、天皇にとって今何が大切かと考えぬいた正成公の献策です。実現しませんでしたが。

平泉澄博士は『先哲を仰ぐ』のなかでこう述べています。「今の学を為すや、多く名利を求め、文辞を事とし、ただ利これ努め、一言にして言へば、所謂学人のためにするもの、而してその根底に於て武士の気象を欠くが故に一旦大変に遭遇して、利害の差をかへりみ、死生の際に迷ひ、平生の博学を以て遂に決断する能はず、その学畢竟無用の学、その人結局無用の人たるを思ふとき、彼の個人義烈の風格を復活する事の、いよいよ必要必須なるを考へざるを得ない」。

これが今、日本の政治や学問をリードする人たちに欠けている資質です。覚悟している人は誠実です。義のある人はその根底に覚悟があり、その覚悟は情と深く関わっています。この情を楠木正成公はもっていました。情で人を理解したということです。ただし彼は情に溺れる人ではない。情を徹底的に思想哲学にしていたから子や孫に伝わったのです。正行は父の生き方に納得していたから、他の生き方を選ばなかったのです。

三 日本人として生きる覚悟

日本は昔から変わらぬ勤勉実直な文化を持っています。伊勢神宮の「式年遷宮」は、時が遷り変っても古代の文化や技術を伝え続ける「不易と流行」の精神の姿を見せています。遷宮が「清浄で瑞々しい常若」を願う古の精神を、形として現代人に顕現しています。二十年の遷宮だから子々孫々に直接伝承されてきました。六十年二世代空 (あ)いたら技術の継承は難しくなります。

もう一つ日本文化の柱をなす大切な存在があります。それは天皇です。特に平成、令和の日本人が忘れてはならないのは昭和天皇のことです。

敗戦国日本に二つの奇跡がありました。一つはGHQが目論んでいた共和制を阻止し日本の国柄を守ったこと、もう一つは終戦から二十年で戦勝国の英仏ソを凌駕(りょうが)する経済大国となったことです。この二つの奇跡をもたらしたのは、大戦争の苦難を国民とともに乗り越えられた昭和天皇の存在があったからです。もし終戦のとき退位されていたら、マッカーサーを感動させるお姿がなかったら、奇跡は起きなかったでしょう。

  秋風の焦土ヶ原にたちて思ふ
敗れし国は悲しかりけり

佐々木信綱の歌ですが、敗戦というのは残酷なものです。その焦土ヶ原から大復活をなし得たのも、昭和天皇が全国を巡幸し国民を励まされたからです。そのお覚悟が祖国の危機を救ったと言えます。教科書には象徴としか書かれていませんが、明治天皇にも劣らな
いお働きをされたのではないでしょうか。

天皇は建国以来のあらゆる文化にかかわり、その精神を作ってきました。全国の寺社や祭礼の場に天皇と国民の深い歴史が今も息づいています。九州の筥崎宮を参拝した折に、鎌倉時代の蒙古襲来に際して亀山上皇が書かれた「敵国降伏」の大扁額を目にしましたが、津々浦々に歴史に刻まれた天皇のお姿があり、天皇を畏敬し国を守ってきた日本人の姿があります。

四 日本人の倫理観の柱となった武士道

司馬遼太郎は「私たちが知る日本文化はある意味、鎌倉時代から始まった」と言いました。朝廷の権威が衰えた平安後期から土地の所領をめぐって各地に武士団が形成されました。そして源平の戦いを経て鎌倉に武家政権が誕生しました。しかし鎌倉時代は将軍の暗殺など権謀術数が渦巻き、御家人は土地争いに明け暮れた時代です。『十六夜日記』は、五十半ばを過ぎた阿仏尼(あぶつに)が所領をめぐって鎌倉へ直訴の旅をした話です。

それほど土地争いが激しかった時代で、武士に支配者としての倫理を求めるには無理な時代だったかもしれません。

そんな時代に武士のあるべき姿を最初に顕現した人、それが楠木正成公です。正成公以前の武将は武勇があっても義を伴っていません。己の利欲が強すぎました。

しかし楠木正成公の勇には義があります。江戸時代に大成した武士道について新渡戸稲造は、「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」を徳目としてあげましたが、楠木正成公はこれらの徳目のすべてに応えています。江戸時代に日本国民の倫理へと昇華した武士道の祖は楠木正成公であり、それを後世に伝え続けたのが『太平記』ではないでしょうか。

日本人の倫理と化した武士道は「恥」を嫌い、「謙譲」を尊ぶ日本文化へと昇華しています。その例を以下の資料で見ることができます。

   借請申銀子(ぎんす)之
銀百五拾目也
右之銀子慥(たしか)
に預かり申し候、万一此銀子返済いた
し申さざる事御座候はば、人中において御笑ひな
され候共、其節一言の申分これなく候、仍而如件(よってくだんのごとし)
萬治三年子五月  佐野屋喜兵衛
播磨屋嘉兵衛殿
(平泉澄博士『先哲を仰ぐ』)

商人ですら借金を返さなかったら人前で笑ってくださいという、今日では考えられない証文です。

『武士道考』(谷口眞子著)にこんな話もあります。元禄三年に京都在住の鳥取藩士服部円右衛門の倅(せがれ)で十四歳の庄兵衛は、代金を取りに来た小道具屋の半兵衛を、「慮外に及んだ」という理由で討ち捨てました。

しかし京都町奉行は、庄兵衛の話には偽証の疑いがあり町人が非礼なことをした事実が証明できていないとし、さらに少年であっても「庄兵衛」と名乗るからには武士としての責任があるとして切腹を命じています。十四歳の少年であっても武士の名乗りをして町人を無礼討ちにした、その責任をとらされたという事件です。武士道は武士を厳しく律していたのです。

日清戦争で日本は侵略戦争を始めたとする、己の価値観と後知恵で過去の歴史を評価する学者がいます。しかし清国はアジア最大の北洋艦隊をもち、最新鋭の戦艦定遠や鎮遠を日本に航行して軍事力を見せつける大国でした。長崎では、力に驕(おご)った清国水兵数百人が日本の警官たちを殺傷する事件も起こしています。それでも戦わざるを得ないと判断した、その時代の国民感情を理解できなければ、歴史家ではありません。

その戦わざるを得なかった清国との黄海海戦で、敵艦の砲撃を受けて瀕死の状態となった十九歳の三浦三等水兵は、傍らにいた向山副長に「まだ定遠は沈みませんか」と尋ね、「定遠は戦闘不能に陥ったぞ」という言葉を聞いて息絶えました。それを知った佐々木信綱はすぐに「まだ沈まずや定遠は この言の葉は短くも 御国を思ふ国民(くにたみ)の 胸にぞ長くしるされん」という詩を書きました。それは後に「勇敢なる水兵」という歌になりましたが、武士道の精神が十九歳の水兵を支え日本の近代化を支えたのです。

  来る年も咲きて匂へよ桜花
われ亡きあとも大和島根に

この歌は昭和二十年四月に沖縄の洋上で敵艦に突撃した振武隊長澤少尉の辞世の句です。戦が終われば桜花が咲き、再び人と人の情が通じる日本に帰ることを願い信じて散華したのです。

五 楠木正成公が遺したもの、後世の人々が伝えて来たもの、次の世代に伝えるべきもの

楠木正成公の人となりを様々な観点から話してきましたが、北畠親房の書いた『神皇正統記』に表れる正成公を見てみます。親房は後醍醐天皇の重臣で建武の中興をよく知っている人ですが、

 ※元弘辛末の年(一三三一)八月に俄かに都をいでさせ給ひ、……笠置と云ふ山寺のほとりに行宮(あんぐう)をしめ、御志ある兵を召し集めらる。……次の年の春忍て御船にたてまつりて、隠岐国に遷らしめまします。御子たちも彼方此方に遷され給ひしに、兵部卿護良親王ぞ山々をめぐり、国々をもよほして義兵を起こさんと企て給ひける。河内国に橘正成と云ふ者ありき。御志深かりければ、河内と大和との境に金剛山と云ふ所に城を構へて、近国を侵し平らげしかば、東より諸国の軍を集めて攻めしかど、堅く守りければ、たやすく落とすに能はず。世の中乱れ立ちにし。

※建武二年(一三三五)、十二月(しわす)に忍びて都を出でましまして、河内国に正成と言ひしが一族等を召し具して芳野に入らせ給ひぬ。行宮を造りて渡らせ給ふ。

この二カ所だけで、湊川の戦に関する記述はありません。由緒ある公家の眼には、昨今の歴史家が言う、悪党、ちょっと活躍した武士程度にしか映っていなかったようです。しかしその時代に正成公は「秀でた武略」、「強靱な精神」、「無私の忠誠」などあまたの徳をもって活躍して人生を閉じた。そこに後世の人々は感動したのです。

一人の英雄が存在し伝説が生まれて、その出来事があったと人々が信じて行動する。それによって社会が動き歴史が創られる。学者が英雄伝説の虚実を調べるのは当然ですが、その伝説が虚であっても実であっても、その伝説を大切にし行動した人々が次の歴史を創ってきた事実は変えられません。武士道はその後六百年続いて明治維新をつくり、昭和の大戦もその武士道で戦った。そこに楠木正成公は確かに存在しているのです。

吉田松陰は『講孟劄記』の中で、功や利を求めるより人に恥じることなく自分に悔いることのない正しい道を歩めと説き、楠木正成公は功業も名誉も失ったように見えるが、人臣の道を失わず、長く後世の模範となったと讃えています。そして「楠公を観て興起せざる者なし。即ち楠公の後また楠公を生ずる者、もとよりあげて数うべからず。なんぞ独り七度のみならんや」『七生説』)と書いています。

平泉博士も『楠公・その忠烈と余香』の中で「勇気無くしては、妙案も思ひ浮かばれず、思ひついても、実施する事は難しいでせう。その勇気、何物をも恐れず、何事にもたじろがざる勇気、それを正成公は持つて居ました。その勇気は、蛮勇でなく、匹夫の勇気でなく、忠義の至誠より発する所の、道徳的勇気でありました」と説き、天皇への至誠が正成公の勇気を高めたと語っています。

亡き高坂正堯教授は、学生が「何か一冊だけ読むとしたら」と尋ねた時、「太平記ですね」と即答しています。権謀術数渦巻く『太平記』の時代が現代の国際状況を読むのに有益だと思ってか、それとも戦後生まれの学生たちに「楠木正成の生き方」を知ってほしかったのか、今となってはわかりませんが。

『太平記』の作者も楠木正成公を畏敬しその死を惜しんだことは巻十六「正成兄弟討死事」の最後の文章に覗えるのではないでしょうか。

 「抑(そもそも)元弘以来(より)このかた、忝(かたじけなく)も此の君に憑(たのま)れまゐらせて、忠を致し功に誇る者、幾千万ぞや。然共(しかれども)此の乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨てて敵に属し、勇無き者は苟くも死を免れんとて刑戮(けいりく)にあひ、智無き者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智・仁・勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至るまで、正成程の者は未だ無かりつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失ひて、逆臣横(よこしま)に威を振ふべき、其の前表のしるしなれ」