『万葉集』巻第三の特色
皇者(おおきみは)。神二四座者(かみにしませば)。天雲之(あまくもの)。雷之上尓(いかずちのへに)。廬為流鴨(いおりせるかも)。
(大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも)
いきなり、問題です。この歌は誰が作つた歌だと思ひ(い)ますか。答へ(え)は、前回お話ししたときの主人公、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌です。持統(じとう)天皇が、明日香(あすか) の雷岳(いかずちのおか)に行幸(ぎょうこう)されたときに、人麻呂の詠み奉(たてまつ)つた歌なのです。
前回、紹介した歌を覚えてゐ(い)ますか。さ(そ)う、人麻呂の 石見相聞歌(いわみそうもんか)です。相聞歌を鹿持雅澄(かもちまさずみ)は「シタシミウタ」と読んだことも紹介しましたね。相聞歌、それは恋の歌でもありました。人麻呂には、多くの相聞歌がありますが、右のや(よ)うに、皇室をたたへ(え)た歌も数多くあります。
巻第三は、右の人麻呂の歌ではじまります。今回、お話しする巻第三と巻第四はどのやうな巻なのか、まづ(ず)はこのことからお話ししませう(しょう)。
巻三は主に、雑歌 (ぞうか)(クサグサノウタ)・挽歌(ばんか)(カナシミウタ)によつて構成されてゐます。前半の雑歌には、柿本人麻呂をはじめ持統天皇と志斐嫗(しひのおうな)との心あたたまる掛け合ひ(い)の御歌。これは、平泉澄先生の『少年日本史』(皇學館大学出版 または『物語日本史(上)』講談社学術文庫)にも記されてゐますので、紹介しませう。
天皇
不聴跡雖云(いなといえど)。強流志斐能我(しうるしいのが)。強語(しいがたり)。比者不聞而(このごろきかずて)。朕恋尓家里(あれこいにけり) 。
(否と言へ(え)ど 強ふ(う)る志斐のが 強ひ(い)語り このごろ聞かずて 我れ恋ひ(い)にけり)
志斐嫗
不聴雖謂(いなといえど)。語礼語礼常(かたれかたれと)。詔許曽(のらせこそ)。志斐伊波奏(しいいはもうせ)。強語登言(しいがたりとのる)。
(否と言へど 語れ語れと 宣らせこそ 志斐いは申せ 強ひ語りと詔る)
そして長田王(ながたのおおきみ)が薩摩(さつま)国(現在の鹿児島県)の黒の瀬戸で詠んだ歌などがあります。ちなみに、長田王の歌は、『万葉集』の歌の中では最南端で詠まれた歌です。編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)のお父さんである、大伴旅人(たびと)の「酒を讃(ほ)むる歌」も有名ですね。
後半の挽歌では、聖徳太子の御歌をはじめ、人麻呂や家持の歌を収めてゐます。
巻四は相聞歌を短歌中心に収めてゐます。大伴家持の恋が目立つてゐる巻です。家持への恋の想ひ(い)を多くの歌に託した、笠郎女(かさのいらつめ)の歌が美しくまた悲しくもあり見事です。
雅澄が評価した歌
さて、今日は巻三を中心に学んで行きますが、雅澄が『万葉集古義』(以下『古義』)で高く評価した歌を最初に紹介しませう。雅澄は、雑歌よりも、挽歌に言葉を費やしてゐます。それだけ、情に厚い人といへ(え)ますが、その中でも大津皇子(おおつのみこ)が亡くなる前に詠んだとされる御歌を見ませう。なほ(お)、御歌が作られた背景などは紙面の都合上、割愛します。
百傳(つのさわう)。磐余池尓(いわれのいけに)。鳴鴨乎(なくかもを)。今日耳見哉(きょうのみみてや)。雲隠去牟(くもがくりなむ)。
(つのさはふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(ん))
この御歌を雅澄は、「いとあは(わ)れにかなしく、身にしみて聞(きこ)ゆるは、 薨給(みまかりたま)ひなむとせる、まことの御心より、のたまへ(え)る故なるべし、今も誦見(よみみ)るごとに、流る涙は留めぞかねつる」と人麻呂の歌並みの感動を記してゐるのです。
いま一つは、大伴旅人が九州の大宰府(だざいふ)から奈良の自宅に帰つて後、亡き妻を思ひ出して作つた歌です。
人毛奈吉(ひともなき)。空家者(むなしきいえは)。草枕(くさまくら)。旅爾益而(たびにまさりて)。辛苦有家里(くるしかりけり)。
(人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり)
与妹為而(いもとして)。二作之(ふたりつくりし)。吾山齊者(わがしまは)。木高繁(こだかくしげく)。成家留鴨(なりにけるかも)。
(妹として 二人作りし 我が山斎は 木高く茂く なりにけるかも)
吾妹子之(わぎもこが)。殖之梅樹 (うえしうめのき)。毎見(みるごとに)。情咽都追(こころむせつつ)。涕之流(なみだしながる)。
(我妹子が 植ゑ(え)し梅の木 見るごとに 心咽せつつ涙し流る)
雅澄は、それぞれの歌に、「いとあはれなり」とこれ以上ない褒め言葉、つまり心を動かされたことを記してゐます。そして、『古義』に学んでゐた武市瑞山(たけちずいさん)も、心を動かされたことでせう。
さて、か(こ)うした名歌を収めた巻三ですが、この巻におけるハイライトは山部赤人の富士山を詠んだ歌です。今回は、この歌を特に学んで行きませう。
山部赤人の富士山の歌題
詞(だいし)を見てみませう。
山部宿祢赤人。(やまべのすくねあかひとが)望二不尽山一作歌一首幷短歌(ふじのやまをみてよめるうたひとつまたみじかうた)。
山部赤人も人麻呂同様、詳しいことがわからない人物です。山部の姓は、『日本書紀』顕宗(けんぞう)天皇の巻や、天武天皇の巻に見えてゐます。宿祢は姓(かばね)の一つです。
巻十七に大伴家持の歌があるのですが、そこに、「…幼いころ、山柿(さんし)の門に学ぶことがなかつた…」と記されてゐます。この中の山柿の門とは、諸説ありますが山部赤人と柿本人麻呂だと考へられてゐます。また、『古今和歌集』の序には「人麻呂は赤人が上にたたむことかたく、赤人は、人麻呂が下にたたむことかたくなむありける」ともあります。
古くから人麻呂に続く歌のたくみだつたことが知られませう。
では、その「富士山の歌」の原文を見てみませう。
天地之(あめつちの)。分時従(わかれしときゆ)。神左備手(かむさびて)。高貴寸(たかくとうとき)。駿河有(するがなる)。布士能高嶺乎(ふじのたかねを)。天原(あまのはら)。振放見者(ふりさけみれば)。度日之(わたるひの)。陰毛隠比(かげもかくろい)。照月乃 (てるつきの)。光毛不見(ひかりもみえず)。白雲母(しらくもも)。伊去波伐加利(いゆきはばかり)。時自久曽(ときじくぞ)。雪者落家留(ゆきはふりける)。語告(かたりつぎ)。言継将徃(いいつぎゆかむ)。不尽能高嶺者(ふじのたかねは)。
次に、書き下し文を紹介します。いつもお願ひ(い)してゐますが、声に出して読んでみてください。読み方は、原文の振り仮名を参考にしてください。
天地の 別れし時ゆ
神さびて 高く貴き
駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振り放け見れば
渡る日の 影も隠ろひ(い)
照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり
時じくぞ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ
富士の高嶺は
続いて、『古義』に記した注釈について、主だつたところを見て行きませう。
富士山の歌の意味
ちなみに、人麻呂以来の伝統では、長歌は神代(かみよ)から説き起こして行きます。赤人は、まさにその伝統に倣(なら)つて作つてゐますね。
「天の原 振り放け見れば」は高たかまのはら天原まではるばるに仰ぎ見ることださ(そ)うです。爽そうかい快ですね。和歌にしばしば用ゐられる表現です。
「影も隠ろひ」は、山のとても高く、日光さへも隠れるといふことです。
「光も見えず」は、光さへも見えずといふことです。
「い行きはばかり」の、「い」は添へ(え)言(ごと)。この山の高きに憚(はばか)り恐れて、雲も中空にあることをいひます。
「時じくぞ」は、いつといふ定めなく、時ならずといふ意味です。
「言ひ継ぎ行かむ」は、後の時代の、未だ富士山を見たことがない人にも、語り継が(ご)うといふことです。
歌の現代語訳ですが、雅澄は「歌意かくれたるところなし」として意味を通してゐません。そこで代は(わ)りに私が現代語訳しませう。
「富士山の歌」の反歌
長歌よりも重要なのは、反歌(はんか)です。この歌は聞いたことがある人も多いでせう。
田兒之浦従(たこのうらゆ)。打出而見者(う ちでてみ れ ば)。真白衣(ましろくそ)。不尽能高嶺爾(ふじのたかねに)。雪波零家留(ゆきはふりける)。
(田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白くそ 富士の高嶺に 雪は降りける)
歌の注釈です。
「田子の浦ゆ」は、田子の浦より、沖の方へといふ意味です。駿河の国、現在の静岡県の清見埼より、東に薩埵(さつた)坂(峠)といふ山の下の渚(なぎさ)に、昔の道があり、そこより向かひの伊豆の山の麓(ふもと)までが雅澄が理解してゐた田子の浦です。JR東海の東海道本線に東田子の浦駅がありますが、そことは違ふ場所にあります。
「ゆ」は、ここより、あそこよりといふ「より」で、「重き詞」です。辞書などでは「どこどこを通つて」などと出てきます。
「うち出でて見れば」は、「うち」はいひおこす言葉。海の沖の方へ船を漕ぎ出て、富士山を見れば、といふ意味です。
「真白くそ」は、「マシロニゾ」と訓むのも悪くはないとも記してゐます。現在では、「マシロニゾ」とするのが一般的です。
さて、現代語訳にしてみませう。
雅澄は、「船を漕いで沖に出て」と、この歌を解釈しましたが、現在では陸地を通つて富士山を見たと理解されてゐます。
そして、この歌について雅澄は、「見た景色を、そのまま詠んで、何の難しいこともないのに、その景色を目の前に浮かぶやうに思はれるのは、上手の歌だからである」と記してゐます。
ここまで読んでみて、鋭い読者の方は、「あれ」と思はれたでせう。と、いふのも、この歌を多くの方は「小倉百人一首」などで学んだと考へられるからです。そこには、
田子の浦に 打出て見れば 白妙(しろたえ)の富士の高嶺に 雪は降りつつとあつたでせう。
しかし、雅澄はこの改めたかたちを「いともあさまし(とてもひどい)」といつてゐるのです。それはなぜでせうか。雅澄は、その理由を記してはゐませんが、その心情を想像してみると、「降りつつ」といふところにある気がします。富士山は晴れてゐればこそ、その
頂上も全容も望むことができます。しかし、「降りつつ」、今まさに雪が降つてゐるときだとどうでせう。雪が降つてゐると、富士山を雲が隠してしまひ(い)ます。「降りつつ」では、まことの富士山はあらは(わ)れないのです。
巻四の歌
ここまで巻三の歌、そして赤人の歌を見てきました。その歌柄の大きく、のびのびとした調べに私は今も感嘆しますが、皆さんはいかがですか。
さて次に、巻四の歌を見てみませう。この巻で私が注目したのは、高安王(たかやすのおおきみ)の次の一首です。
奥弊徃(おきへゆき)。邊去伊麻夜(へにゆきいまや)。為妹(いもがため)。吾漁有(わがすなどれる)。藻臥束鮒(もふしつかふな)。
(沖辺行き 辺に行き今や 妹がため 我が漁れる藻臥束鮒)
この歌の注目すべき点は、「藻臥束鮒」にありませう。斎藤茂吉も『万葉秀歌(上)』の中で、「この造語がおもしろい」としてゐます。「藻臥束鮒」とは、契沖(けいちゅう)の説を引いて、鮒は藻にふすものだからもふしといひ、手に一束(ひとたば)ねばかりあればつかふなといふとしてゐます。
現代語訳すると、「川の奥に行き、辺に行き、いろいろと苦労して、彼女のためにつかまえた鮒だから、いい加減に思つて食べないでね」となりませう。雅澄は、「人に物を贈るのに、自分の苦労をいつて、まことの情を示すのは古人の心である」といつてゐます。
さて、今回は巻三を中心に、巻四の歌を見てきました。雄略(ゆうりゃく)天皇から柿本人麻呂、そして山部赤人と『万葉集』の中心となる人物の作品を、鹿持雅澄の考へとともに学んできました。
次回は、巻五に入ります。ところで、皆さんは「令和」といふ元号の由来はどこにあるかご存じですか。次回はその点にも触れながら、ともに学んで行きませう。どうか、お楽しみに。